第8話 神島に助け舟が訪れる
水道に辿り着き、冷たい水で手を洗う。そして、手を拭くために持参しているハンカチを取り出そうとした。しかし、教室に忘れてきてしまったことに気がついた。
ああ、変な怒りで集中力が無くなっていたせいか。カレーパンめ。
なんて、今はもう自分の体内の物体であるのに恨めしく思っていても仕方がないことであるのはわかるので、どうやら私はここでこのまま自然乾燥を待つことにするしかないらしい。なんて思っていたが、そんな私の元に思わぬ助け舟が訪れた。それはとても見慣れた顔だった。
「なんだ、拭くもの持ってないのか。これ使う?」
話しかけられながら、飛んできたタオルが宙を舞う。少し前に腕を出してキャッチして、私は無事手を拭いた。
「全部言い終わってから投げてよ。タイミングズレるでしょ」
有難いとはいえ、ついでに文句は言わせていただく。すると彼はちょっと驚いたような反応をしてついでに顔を顰めた。
「えぇ、感謝無しかい……。でも、結局掴めたんだからいいじゃん」
「そうだね。ありがとう」
「素直なのはそれはそれで怖いんだけど」
しかし、やはり何故なのかその顔には特段強い嫌悪感や悪意は感じられない。
ほとんどの人間は私との会話において、私との関わりがないために気まずい雰囲気になるか愛想笑いたっぷりになる。もしくは、私に注意されたことがある場合は面倒くさい学級委員長だというイメージから嫌悪の表情を微かに見せるかである。
そこが私の彼に対する疑問だった。
何故なのか、彼は私に対して悪態をつくでもなく、まるで気兼ねなく話せる友人と話しているかのような距離感で接してくる。この私に対してだ。
もちろん、これがまだ知り合って一ヶ月などなら分からなくもない。誰とでも仲良くしようとする人間というのは往々にして存在するものである。
だが、蒼葉は別にそういう人間という訳でもないし、彼とは昨年も同じクラスだったので、付き合いはもう一年以上ということになる。
一年生の時だって、私は彼に何度もきつく当たってきた。それなのに、それでも彼は私に対してある程度仲が深い友人のように接してくる。いや、むしろそうだからこそ逆に信頼が置けるとでも思われているような感じだ。
それだから私は彼の事が気持ち悪い。
「ていうか、こういうのって洗って返すねとか言ってくれるもんじゃないのかよ」
笑いながら言う蒼葉の顔を見る。その顔は八方美人という言葉じゃ上手く形容出来ているとは言えない。表面的じゃない。本心なんだ。こいつ、まじで私を友人だと思っていやがる。
「まあいいや。手拭くだけじゃ、どうせそんな汚れてないだろうしな。……というかそんなことより、少し話変わるんだけど」
蒼葉は突然神妙な面持ちになって、少し周りの様子を伺って話し出した。瞬時に、何か面倒な話題を出されそうだなという予感が巡る。
「はぁ、なに」
「……お前さ、最近あやのとあすかの関係に割り込もうとしてない?」
割り込むってなんだよ。あの二人は仲良く手を繋いでるわけでもないのに。とは思いつつ、なるほど、やはり私の動向に気がつくやつもいるのかと感心した。
蒼葉の場合はやはり、あすかのことを気にしていたからだろうか。
「なあ、そういうのやめといた方がいいと思うんだけど」
「それはどういう意味?」
どうやら、私の計画に口出しをする気らしい。ということで、周囲を気にしながら小声で話す蒼葉に対して、私は普通の声で言葉を返した。
「おい、声が大きいって。聞こえるかもしれないじゃん」
「悪いことしてるわけでもないのになんでそんなこと気にしなくちゃいけないんだよ」
そう言った私を、蒼葉は驚いたように、それでいて呆れたように見つめた。
「ああ、そりゃまあ、お前はそう言うか……。お前だもんな……」
何を納得してるんだこいつは。
「いや蒼葉こそ、あすかのことが心配ならなんで何もしてないわけ」
カウンターの意味も込めてそう訊いてやると彼は途端に口を噤む。
彼も、内心ではあすかのことを可哀想に思っているのだろう。そうじゃなければこの場で私にこの話題を持ちかけることはしなかったはず。
でも、彼は何もしていない。可哀想に思いながら傍観しているだけ。そしてそこに、何か理由があるのならこの私の問いに答えられるはずだ。しかし彼は口を噤んだ。
彼もやっぱり、他のやつとほとんど変わらない。
「俺は……正直、クラスの居所が無くなるのが嫌だ。お前は周りのやつらに疎まれても大丈夫な強さがあるけど、俺にはそんなのは無理なんだよ」
「無理って、無理じゃないでしょ。強さって何。お前が弱いだけだろ。それに、弱いは別に出来ないを証明する言葉じゃない」
強気で言葉を投げかけてみるが、蒼葉がムキになって反論してくることはない。ただ悲しそうな顔をするだけ。彼の特徴だ。いつだって彼はこうなのだ。
「それは、そうかもしれない……。俺には勇気がないんだ」
素直で正直で誠実な態度。相手の価値観をいとも簡単に受け入れ許容する。私にはそれが難しい。
芯となる考えがあったって、他人の影響でその芯の形を柔軟に変えてしまう。蒼葉のそんなところが私は嫌いだ。
けれど――けれど、私は蒼葉本人が嫌いだというわけではない。私には出来ない考え方、私には出来ない態度でいつも周囲を見据えている。私はそんな姿に関しては、尊敬もしてしまっているのだろう。
だから、次の言葉が口をついて出た。
「……そうだ。あなたも今日病院に行かない? あやのと、ちょっとだけ仲良かったよね」
「は、なんの話?」
そうだ。彼についてきてもらったら、今回の訪問において、とても心強い存在になってくれるかもしれない。
ついてきてもらう口実なんていくらでもある。事故の概要を聞き出すためには、彼のその性格が必要に感じた。
私はきっとあやのとの会話を上手く進められない。でも、彼ならば私よりかはいくらか順調に事が運ぶはずだ。
「同じ陸上部でしょ。それに、クラスでもちょこちょこ話してるのを見たことあるし」
「ちがっ、そっちじゃなくてさ。病院に行くって方の話だよ」
蒼葉は少々焦った口調で話す。
「あぁそっち。学級委員長だから、クラスの代表としてお見舞いをしに行くの。それと、ついでにあいつにプリントを届けに行く」
「……本当にそれだけか?」
訝しむ視線がレンズ越しに私の瞳を貫く。なんだよ、察するのが本当に早いな、こいつは。
「……実は違う。さっきの理由は建前。本当は事故の概要を聞き出すために」
「……やっぱりな」
予期していながらも、それが一番聞きたくなかった言葉だというように彼はため息を吐いた。
「もちろん、あなたも来てくれるでしょ? もう一人の学級委員長なんだから」
「はあ? ちょっと待て!」
言ったきりで教室に戻ろうとすると、慌てた蒼葉に腕を掴まれた。
「行くにしても、あいつ、本当のこと言うかわからないぞ……」
そう。やはり、そこなんだ。そこが問題になってくるかもしれなかったんだ。
けれど、もう大丈夫。そんな心配はしなくていい。
「事故の概要はもうあすかからは聞いてる。どっちが本当かは分からない。でも、照らし合わせることはできるよ」
そう言うと、蒼葉はゆっくり私の腕を掴んでいた手を離す。その拍子に、私は颯爽と教室へ戻った。
どうせ私が誘わなきゃこれまで通り何もしないんだろ。それならちょうどいい機会じゃないか。
私には分かってる。お前は、きっかけさえあればちゃんと行動してくれる人間だということを。
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