第9話 神島は対峙する

「スタミナはあるんだけど足はそこまで速くないんだよな。五十メートル七秒ちょい」


「十分速いと思うけど」


「まあそれなりには。けどやっぱりうちの陸上部じゃ遅い方なんだ。まあ、俺は長距離選手だから結局いいんだけどさ」


「長距離は得意なの」


「さっきも言った通りスタミナはあるから」


「へえ」


「ていうか、そう言うお前はなんの部活に入ってたんだっけか」


「私はどこにも入ってない。授業でさえ面倒なのにどうして追加で束縛されなきゃいけないわけ」


「そうなんだ。なんか意外。体育の授業ではバリバリに運動できてたじゃん」


「運動能力が高いからといって運動が好きだとは限らないでしょ。中学の時は運動部入ってたからその名残」


「え、なんの部活入ってたんだ?」


「ほら、エレベーター開くよ」


 そう言って、扉が完全に開き切る前に駆け出ると、私はふうと息を吐いた。


 さっきから蒼葉がベラベラと喋りかけてくるので、私はずっと息が詰まりそうだったのだ。なんなんだこいつは。いつから会話というのは個人情報を開示し合うものになったんだ?


 私には疑問ばかりだった。なんでこいつはこんなにも長ったらしく話しかけてくるのだろう。意味がわからないのだが、彼はなんだか私のことを既にある程度仲の良い友人くらいには思っているようだし、もしかすると仲がいいというのはこんなにも面倒なことなのだろうか。友人や恋人、師弟関係やその他なんでも、親密な対人関係を築いて生きている人間たちはもしかして、皆こんなにも面倒くさいことをしているのか。


 いや、こいつが特例かもしれないからわからないな、と蒼葉の呑気な顔を見ながら思う。でも、もしこれが通常なのだとしたら、これからもそんな親密な対人関係とは無縁でいいと思った。


 私にとって唯一親密な関係にあると言えるのは母さんだけで、それ以外に該当した人物がいた覚えはない。もちろん、他人と協力してきたことは幾度だってある。でも、その他人と仲が良いかどうかなんて関係ないはずだ。


 一切話したことの無い人とだって、二人一組でペアを組めと言われれば組む。私はそうしてきた。


 そして、そこに一見何も問題はないはずだ。それなのに、私と違って周囲はそんな状況をできるだけ回避したがる。だから、きっとそのような面でも私は捻くれているのだろう。


 別にそれならそれでいい。私は自分の信義を貫き通すタイプだし、今だってこれまで通り必要性など感じないから。


 しかし、ふと思う。これまで通りといったって、そういえばそれに該当しないことが一度だけあった。


 あれは中学生の時だ。


 あの子との関係はどうだっただろう。もしかすると、私とあの子の関係は、はたから見れば友人関係に見えたかもしれない。


 あれを友人と言っていいのか私にはわからない。私にとっては、彼女が友人だと言ってくれた何かだ。


 それなら結局、あれは何だったのだろう。


「おい、病室の前着いたぞ」


 蒼葉の声かけで、私の意識は不意に現実に戻る。


 気づくと、通路の真ん中あたりまで来ていた。


「てか、歩いてる時に眼鏡外すのやめろって。視力悪いのってどんな感じなのか知らないけど、こけたら危ないから」


「ほんとだ」


 言われてみると、私は眼鏡をいつの間にか手に持って睨みつけていた。いけない、関係ない出来事に関して考えを巡らせすぎてしまった。


 すぐに眼鏡をかけ、鮮明になった視界で横を見る。そこにはスライド式の扉があって、傍にネームプレートがかかっていた。


「ほんとだ、ってなんだよ。まったく」


 そのネームプレートには、野田彩乃あやの様、という文字がくっきりとした明朝体で書かれている。そう表記するのか。私は、あやの、という部分の漢字をそう表すことを今初めて知ったので、少しの間じっとその文字列を見ていた。


「彩乃ってこういう字で書くんだ」


「ん、そうだけど。もしかして、知らなかったのか」


「はあ、ただでさえ興味無い人の名前をたった一ヶ月足らずで覚えてるわけないでしょ。ましてや漢字まで」


「いや、俺は覚えてるんだけど」


 そういうものか。


 私は野田と書かれている部分にも目を向ける。こっちは野原の野に田んぼの田だろうなと勝手に推測していたが当たっていたようだった。


 いや、やっぱり、これぐらい適当でよくないか。こんなのは推測でどうとでもなるし、知らなくたってそこまで困ることはない。覚えているのが普通のように言われても、やはり私からしてみれば、人の名前を漢字まで覚える必要性は低いように思えた。


「それより、中に入ろう。ほら早く」


「そんな急かさなくても……」


 気を取り直し、蒼葉のブレザーの胸元を掴んで強引に引っ張りながら、私は扉をスライドさせる。


 とにかくあれこれ考える時間はもう十分に過ぎた。とりあえず今は、なりふり構わず突入するべきだ。


 彩乃はどんな顔をするだろうか。嫌悪感は抱くだろうな。それに、憎まれ口も叩いてくるはずだ。どんなことが起こるかはわからない。だが、なんにせよ、気を張っていなければならないなと思った。


 ただ、意を決して扉を通ろうとした時、ちょうどすれ違いに誰かが扉を出ようとしていたようで、危うくその人とぶつかりそうになった。


 お互いに数秒の戸惑いがあった。これは面倒な道の譲り合いが起きるやつだと思って、私は少ししてその場から先に退いた。すると、その女子は小さく会釈をしてから私を避けて部屋を出ていった。その顔は、なんだか凄く物憂げだった。


 見覚えがある人間だ。あれは今日廊下で会った、おっとり女子じゃないか。


「なんだ、今の」


 蒼葉が驚きのあまりか、間抜けな声を出す。


 多分、お見舞いにでも来ていたのだろう。普通なら、そう推測するのが自然だ。ただ、どうしてあんな表情になっていたのかが気になる。なにか、喧嘩でもしていたのだろうか。


「あ、級長二人組じゃん。プリント届けにきてくれたんでしょー」


 声をかけられて、私は目の前の人間に意識を戻す。


 そうだ。本来はこっちへ会うのが目的だったはずだ。余計なことは考えずにこちらに集中しないと。


 そこにはベッドに横たわる野田彩乃がいた。長くて綺麗な茶髪は相変わらずで、寝転がっているので髪がベッド上に並べられるように広がっている。右足につけられているギプスはとても目立っていて、すぐにここを骨折したのだなと目星がついた。


 なるほど、足、というよりは脚を骨折しているらしい。


「さっき山口先生から電話あったからさ。二人が来るの知ってたんだよね」


 朗らかに笑う彩乃にはどんな違和感も存在しない。まるで、さっきからそこに一人でいて、私たちを待ってぼうっとしてただけだ。とでもいうような。でも、さっきまで彼女はあの女子と会っていたはずなのに。


 すると、蒼葉も同じことを思っていたようで、彩乃に直接質問をした。


「なあ、さっき由依いたけどなんかあったのか?」


 その質問に、彩乃は全然動じることは無い。不自然なくらい自然な顔で「なんでもないよ」と言う。


「あいつ毎日お見舞い来てくれるんだよね。なんかさ、ただ骨折しただけなのに大袈裟っていうか、死ぬわけでもないんだからそんなことしなくていいのにね」


 彩乃は呆れ笑いという感じでまた笑顔を見せる。


「でもまあ、それだけ心配してくれてるってことじゃないのか」


 蒼葉は彼女の言い分に納得したようにそう言って、ベッドの傍に近づいていった。彼が本当に納得したのか、納得したフリをしつつ会話を進めようとしているのかは分からない。しかし、私だってあの女子と彩乃の関係について余計な詮索を入れている暇なんてないから、ここは流れに身を任せようと思い、口を開いた。


「久しぶり、彩乃さん」


 言われた彩乃は私の顔を見る。それから、苦笑いをして話した。


「久しぶり。神島もそりゃ来るよねえ」


「悪かったね。来ちゃって」


 そう言いながら、彩乃の顔を観察する。笑顔ではありつつ、嫌悪感を隠そうともしないその顔は、学校にいた時と変わらない。


「まあ、今日は注意しに来たわけでもないんだろうしいいや。というかそれより、その持ってるやつプリントだよね。この棚みたいなのの横に置いといてよ。中身は、後で確認するからさ」


 彩乃は蒼葉が提げている紙袋を指さしながらそう指示した。


 後で確認する、という言葉に少し嫌味が詰まっているなと思う。確認する時間があると余計に私の滞在時間が増えるから。だからそう言ったのだろう。


 彼女は隠せていると思っているのかもしれないが、時々私と目が合った瞬間にその瞳の奥に鋭い殺気のようなものが感じ取れる。そこから察するに、余程この場から早く出て行って欲しいらしい。


 しかし、それにしても少し異常だとも感じた。


 私と彩乃は以前からこのような関係だっただろうか。


 学校で、少々憎まれ口を叩き合うぐらいではあったものの、殺気まで込められたような視線を今までに向けられたことは無い。一体何が今、彼女をそうさせているのだろう。それとも、今だけの単なる気まぐれなのだろうか。


「見るからに酷い骨折っぽいけど、退院の目処は立ってるのか?」


 プリントを置いて戻ってきた蒼葉が彩乃に問う。


 この時私は、こいつを連れてきて正解だったなと思った。さっきの状況で、もし私一人であったなら会話が進まなかったはずだと思う。やはり、自然に会話を繋ぐことができる蒼葉はこの場に必要不可欠だったようだ。


「うーん、まだかな。いつ退院できるか分からない。早く学校戻りたいし、部活も復帰したいんだけどねー」


 そう言いながら彩乃は無邪気な笑顔になる。邪悪な心を持つ人間が一番習得してはいけないそれを、容易く使用する。


 それは、彼女が周囲の人間を騙すために使う、本心じゃない表情だ。そして、実際に周囲の人間が騙されてしまっている原因だ。


 ふと、声を真似ることで人間をおびき寄せて、近くまで来たところを襲うモンスターが出てくるホラー映画があったなと思い出した。考えてみれば、それに、結構似ている気がする。


 思いついて、それから思わず鼻で笑いそうになった。行動パターンがそっくりだ。いつも、彼女は善良で能天気な人間のフリをする。実は殺気立った頭をフル回転させながら。それはもはや、人ならざるモンスターみたいだ。


「そういえばさー、私がいない間になんか学校で面白いことあった?」


 彩乃は続けて、何気ない感じで質問してきた。そしてそれが本当は、何気ない感じを装った意図のある質問であることはすぐに分かった。


「あ、面白いこと? なんかあったっけ」


「あすかさんが不登校になったことかな」


 間抜け面で考える蒼葉の代わりに私が答える。彼のその行動は、私が発言するためのアシストかとも思ったのだが、え……それ言っちゃうのか、みたいな感じで驚いた顔をしていたのでただ間抜けなだけなようだった。


「あーそうそう! あの子、学校来なくなってるんでしょ。私も美奈から聞いたんだけどさ、やっとかよって感じだよねえ。まじで長かったよ」


 一年いじめてきて、やっとかよ、という台詞。その台詞を聞いて、こいつはやっぱり悪人になれる人間だよなあ、などと思いつつ、確かに、それはそうかもしれないなと思った。


 そういえば、あすかはこの彩乃からのいじめを一年も我慢したのだ。流石によくやったと考えるべきだし、相変わらず、我慢する必要性なんてなかっただろ、とは思うが、少しくらいその忍耐力を賞賛してやってもいいかもしれないとも思った。


 いや、それにしても、やはり話の誘導が上手いやつだ。


 彩乃の顔を見るに、最初からそれを私に言わせたかったんだろうなということが分かる。私は今彼女に誘導されて、彼女が求める答えを出してしまったのだろう。


 もちろん、私だってあすか関連の話題を出しに来て、それだからこそ、企みを知っていながら彩乃のその思惑に乗ってやったところもあるのだが、その反面、なんだか引っかかるような思いでもあった。


 あちら側があすかの話題を出してくれてラッキー、なんてそんな呑気なことを本当に思っていていいのだろうか。そんな疑問が浮かぶ。


 彩乃がこんなことをしたのは、ただ単にあすかが不登校になったという話題を出して私たちと一緒に面白がりたかっただけかもしれない。


 でも、もしかすると、薄々私がここに来た理由の見当がついてきているからということも有り得る。そして、その上でわざと自分の弱点をさらけ出すことで何かの企みを成功させるつもりなのかもしれない。そんな考えが浮かんだ。


 これは、考えすぎだろうか。


 いいや、合っているかは別として、きっとこれは、考えすぎというわけでもないはずだ。彩乃は頭が切れる。万が一があるかもしれない。


 私は、ひとまずは彼女の全てに警戒し、疑ってかかろう、とそう思った。

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