第3話 神島は思い出す

「あなたは……なんで来たの」


  相変わらず気弱で腰の低い、真面目だけが取り柄というような風貌をしたその少女は今にも不安に押し潰されそうな顔でそこにいる。


 私は一瞬、答えようとした。プリントを届けに来たと。それが表向きの理由。けれど、彼女に対してそんなことを言って誤魔化す訳には行かなかった。彼女に対しては本当の理由を話さなければいけないのだ。


 しかし、そのためには二人きりで話せる状況である必要がある。私の口から母親に諸々の事情がバレてしまうわけにはいかないから、思いがけず私はその質問に答えることができなかった。


 あすかは無言で下を向いていた。この前より伸びてきているサラサラとした前髪が目元を隠していて、よく顔が見えない。が、雰囲気からしてもとても気まずいのだろうということは分かった。


 多分目を合わせたくないのでそのような行動をとっているのだろう。私とではなく母親とだ。


 そのことは、母親も傷心しつつ察しているようだった。


 これから話をするには、私だけでなくあすかにとっても母親がいることが障壁になる。その心の中の全てを察せるわけではない。しかし、これはまたまた好都合じゃないかと思いながら、私は極めてあすかの想いを尊重しているというふうに、母親に向かって申し訳なさそうな口調で言った。


「すみませんお母さん。少しの間、あすかさんと二人きりで話をさせてもらってもいいですか」


 彼女は言われて一瞬きょとんとした。しかしすぐに、やはり二人が話し合うためには自分がこの場にいない方がいいかもしれない、なんて思い直したのか少し悲しそうな顔をしながらも無言で頷く。その時の瞳はまるで『お願いだから助けてあげてね』とでも言いたげなものだった。


 私は短く感謝の言葉を述べてから、あすかが開いた扉を通って部屋へ入った。


 あすかの部屋は思ったよりも埃っぽかった。いやいやまさか、一週間自堕落な生活を送っただけでこうはならないだろう。そう考えると、あすかには真面目で几帳面そうな印象を持っていたが、意外と掃除や整理整頓が苦手な一面を持っていたりするのかもしれないと思った。


 あすかは少し奇抜なピンク色の毛布がかかっているベッドに腰掛ける。何も話さずただ扉の外を気にしてそわそわしており、なるほど母親か、と察した。


 私はあすかを向かいにする形で傍のローテーブルの横に正座する。部屋の中に緊張感が広がっていてしばらくは無言が続いたものの、やがてようやっと部屋の外から母親が階段を降りていく足音が聞こえてくると、あすかは落ち着いたように私にも聞こえるくらいのため息を吐いた。


 全く、罪悪感だか嫌悪感だか反抗心だか知らないが、たった一週間かそこらでここまで親のことが苦手になるものだろうか。


 私は、あまりに私の想像からかけ離れている人間以外の考えはなるべく理解できるよう努めるようにしている。だから、あすかが暗い気持ちを孕んでいるのにそれを胸の内に抱えたまま吐き出せずに隠してしまったままでいることもある程度理解はしてあげられるつもりだった。しかし、やはりここまで来ると呆れが勝ってしまう。


 私は息を吐いたあすかと対照的に深く息を吸って、尋ねた。


「母親にだいぶ心配されてるようだけど、あすかさん、いつまで黙ってるつもりでいるの? 事情を話してあげる気はないわけ?」


 試しに訊いてみたが、あすかは黙ったまま。視線は私と目を合わせたかと思えばまた逸らしたり、勉強机や天井の方へ向いたりと忙しないものである。それは流石に動揺を表に出しすぎだろう。


「そう、打ち明ける勇気はあなたには無いわけか。それならまあいいけど」


 私はあすかにそれを強要させに来たわけではない。言いたくないのならばそうさせておくことにした。それで苦しみ続けるのならば、それは私の責任ではなく自業自得である。


「そうだ。そういえば本題に入る前に、一週間ぶりの会話のせいでさっきも忘れているようだったからもう一度名乗っておくわ。私の名前は神島」


 そう言うと、あすかは小さく頷いて、すぐに私の名前を用いて先程してきた問いをもう一度言葉にした。


「えっと、神島さん。……どうして私のところに来てくれたの」


 言い終わってから、あすかの不安そうな目線が私の頭の上をさっと撫でるように通っていく。


 何を考えてるかわからないが、なんだその言い様。まるで私がプリントを届けに来た以外の理由でここに訪れていることを疑っているような言い草じゃないか。


 もちろん、事実私にそれを疑うだけの要素があるのは確かである。『あの日』した会話のあとの再会の仕方がこれじゃあ理由を訊くのも無理がないのは分かるのだ。


 しばらく様々な考えが脳裏に浮かんで消えていったが、よく考えれば多分彼女は自分が連れ戻されそうになっていると怯えているだけかもしれないという考えに終着した。


 あすかは自分の意志で学校に行きたくないと思っているのだから、学校に来なさい、などと説教されるのを恐れるのは当然だ。そして彼女の印象からして私は、そんなことを言い出すような人間に見えているのだろう。


 もしもそこまでではなかったとしても少なくともこれは『私はやっと辛く苦しいいじめから逃げてきたのにそれを今からほじくり返そうとしているんですか』などというような意味の問いではあるのだろうと察することができた。


 そしてそのような問いであるとするなら、答えはイエスである。あすかがせっかく逃げ延びたこの場で、私はまた無慈悲にもいじめの話題を出そうとしているのだから。


「あすかさん、一応訊くけどあなたがここ一週間一度も学校に来なかったのは、いじめが原因で間違いないでしょ。違う?」


 あえて彼女の質問を無視して続ける。これぐらいなら喋ってくれるだろうかと思っていたが、あすかは口を噤んで回答を避けようとした。


 よほどこの話題については話したくないらしい。


「答えて」


 しかし先程よりも強い口調でそう言うと、彼女は俯いて呟いた。強気に迫られただけですぐに屈してしまうのは相変わらずらしい。


「うん……そう、なんだけど」


 それを、母親に言えたらいいのに。一言そう言うだけで彼女にとって何もかもが変わるはずなのに彼女は口にしていないのだ。小心者。


「そう。それなら、私はそのことを前提に話す。さっきの質問のことだけど、私はね、あなたに訊きたいことがあったから来たの。理由はもしかするとそれが私にとって重要なことかもしれないからなんだけど。何を訊かれるか、あなたに心当たりはない?」


 あえてそのように訊いてみるが、あすかは特にそれについて動揺する様子は見せない。どちらかと言うとそんな心当たりなど本当にないというように困惑しているようだった。普通に見ていれば何も知らないように感じるだけの動作。


 ただ、一瞬だけ瞳が揺れたのを私は見逃さなかった。


「あなたが学校に来た最後の日、私はあなたに話しかけたよね」


 それはちょうど一週間前のことである。とりあえず、話したくないのなら近い話題から詰めていくしかないだろう。


 そう思って私が少し話題を変えて問うと、あすかはそのことは憶えているというように頷いて話した。


「えっと……うん。登校した時に昇降口のところで話したね。それは……憶えてる」


 その日、私とあすかは初めてまともに会話を交わした。


 きっと、あの時の出来事が印象強かったから彼女は私のことを憶えていたのだ。私は当時の状況を少しだけ思い返す。

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