第4話 神島は思い出す2

 それは雨上がりの朝、昇降口での出来事だった。


 その日、そこに非日常的なものとして存在している泥の詰められた汚らしいロッカーは、誰であっても気がつくほど目立っていた。溢れんばかりの泥はぼたぼたと外へ垂れるほどで、その酷い仕打ちに全員が気づき、それでいながらほとんど全員が見て見ぬふりをして去っていったのを憶えている。


 あすかは靴の入れ場がないそのロッカーを見つめながらただ呆然と立ち往生。何を考えているやら分からない。そこへ私が話しかけたのだ。


「それってさあ、我慢してたら終わるものなの」


 あすかは突然のことで、自分が話しかけられているとは思わなかったらしい。私が隣に立った時には困惑の表情を浮かべていた。


 今思えばほとんど話したことの無い無愛想なクラスメイトに突然声を掛けられたからというのもあったのだろう。


 程なくして「え、なんのこと。ロッカー?」などと間抜けな声を出したものだから私は「そんなわけないだろ、いじめだよ」といらいらしつつ口に出した。


「あなた、ただでさえ気にかけてくれるクラスメイトすらいないのにその上ひたすらいじめ我慢してさ、ずっと何を待ってるの?」


 その問いに、あすかの答えは返ってこなかった。


 びっくりして息を呑む。けれどその後は困ったように私から視線を外すだけ。それだけ。彼女はいつもそうだ。


 本心は決まっているはずなのに、言い返す言葉は胸の内にあるはずなのに、この白谷あすかという人間はそれを外に出す勇気が出ないのですぐに隠す。


 それだからいじめられているのだということなんて、自分でも十分にわかっているだろうに。


「あなたをいじめてるのってあやのでしょ。これ、報告した時に証拠になると思うんだけど、山口やまぐち先生に言ったら?」


 泥だらけのロッカーを指さしながら私は言った。それと同時に、泥の中から抜き出して事前に水道で洗っていた彼女の上履きを差し出した。


 もう春とはいえまだ水道の水はとても冷たい。その冷たさに耐えながら一生懸命洗った。


 それだというのに、あすかは小さく首を振った。


 そうして小さく呟いたのだ。


「ごめん、私……無理」


 私が持っていた上履きを奪うように受け取ると、教室の方へ逃げるように駆けていった。結局、ロッカーについてはどうもしないのか。


 意味がわからない。一体何が無理なのか。私には理解が追いつかなかった。

 その場凌ぎのだんまりで突き通すことしか知らないようじゃあそりゃあ無理に決まっている。だが、お前には口があるだろ。このことを自分の口で担任に、学校に、親に報告する。それだけでいい。


 それだけで、あすかにとっての何かが変わるはずだった。


 何が無理なのか。なんだ、いつか正義のヒーローが目の前に現れて自分のことを救ってくれるとでもいうのか。それだから、それまでは我慢するとでもいうのか?


 とんでもなく夢見がちな人間だな。現実が全く見えていない。毎日現実から逃げて、解決する努力なんてしようとしていない。そこがお前の良くないところなんだ。


 私が言いたいのは自分のことは自分でしろなどという義理ではない。本当にそうしなければ永久に解決しないのだと教えてやっている。それだけだというのに、どうしてわからないのか。


 それから、教室に戻ると彼女はとても驚いた表情で、しかし気丈にも席に着いていたのを憶えている。それが、私との会話の内容が尾を引いているからというわけではないことはすぐに分かった。


 なぜなら、視界内に入る彼女の机にいわれのない――いや、しかしある側面で見れば事実なのであろう言葉が書き殴られているのを発見し、彼女がとても驚いていたから。


 彼女が驚いていたのは、普段ならそんなことはないからだ。机に罵詈雑言を書かれるなどというあからさまな嫌がらせがこれまでに無いことだったからだ。


 突然、これまでの我慢の糸が切れたように、まだ朝の会も始まっていない騒がしかった教室であすかは泣いた。泣く、泣く、泣く。


 ほとんどがそれに気づき、無視をした。いや違う。陰で笑ってるやつもいた。不快そうに眉をしかめるやつもいた。聞こえよがしに「きっしょ」って言ったやつもいた。


 それは、無視よりずっと酷い仕打ちだった。


 あすかは最初はすすり泣くように泣いていた。しかし急に怒ったようにもごもごと喋ったり、かと思えば全てがどうでも良くなったかのように笑いながら涙を流した。


 私は見ていられなかった。周囲の人々のあすかをあざけ笑う様子はずっと不快だったが、何よりそんな酷い醜態を晒したことによってそれを助長したあすか本人の方がもっと不快だった。


 堪らずうつ伏せになってすすり泣く彼女の肩を叩いて私は耳元で言った。


「もういい。逃げればいいよ」


 弱虫。最後にそう付け加える前にあすかは顔を上げて、涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔で私をじっと見た。それからゆっくり立ち上がると、まだ湿っている上履きが鳴らすペタペタという音とともに教室を出ていった。


 その時、廊下で担任とすれ違ったらしい。だから、それを不審に思ったらしいあいつは私たちみんなに向かって質問した。


「なんだ。あすかさん、何かあったのか?」


 何気ない、というよりはむしろ面白がっているような質問。そんなの自分で訊きに行けよと思ったが、そういう類の質問に関しては即答する人間がいることを知っているから特に口には出さなかった。


「あぁ、あすか今日通学の途中に転んだみたいで、登校するなり痛そうにしてたんですよ。それで保健室にでも行ったんじゃないかな。膝怪我してるの見ましたし」


 教卓のすぐ前の席に座る野田あやのが穏やかな笑顔で言った。それで、彼女が担任の気を逸らしている間にしれっと彼女の友人があすかの机の上にタオルをかけるのも見た。見られてはいけないものを咄嗟に隠すように。


 つくづく頭の回転が速いやつだと感心させられる。


 膝の怪我は昨日直接あやのがあすかを転ばせて出来た分。それを上手い言い訳にも使って、あすかがいかにも少し膝を擦りむいただけで泣きじゃくるような人間であるように言う。


 あやのは馬鹿じゃない。それは勉学の面ではなくそれ以外の面において。人間関係の面において、彼女はいつだって上手く立ち回っていた。その日だってそうだった。


 もちろん、今朝転んでできたはずの傷が既にかさぶたになっていた点でその言い分の辻褄は合わなかった。しかし、私以外の誰もあやのが話題に出すまでスカートでほとんど隠れていたあすかの膝の傷に注目などしていなかっただろうから指摘する声が上がるはずはなかった。


 あすかはその日、遂に我慢の限界に達したのかもしれないというのに、あやのによって見事に気が触れた変人であることにされてしまったのだ。


 あすかは一限だけ保健室に行っていたようでその後は授業に出席していたが、ずっと無気力だった。


 そして、その日を境に学校に来なくなったのだ。

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