第5話 神島は告白を聞く

 ふと、私は現在の自分に意識を戻し息を吐く。泥棒女という文面が脳裏にチラつき、私は目の前のあすかの顔を見た。


 純真無垢で悪意など微塵も持っていなさそうで清廉潔白を物体化したようでありつつ、少し傷をつけただけですぐに割れてしまう水晶のような弱々しく綺麗な瞳がそこにある。


 分かっている。彼女は悪人ではない。悪人になれるわけがない。


 だから私は安心してその言葉が言えた。


「その次の日、あなたが不登校になった日のことだけど、あすかも事故で足を骨折して学校に来なくなったの」


 言うと、あすかは一瞬驚くように、えっ、と声を上げたが、その様子は嬉しそうでも悲しそうでもない。どう反応していいのか分かりかねている様子だった。


「えっと、なに、それで今の内に学校に来いって、その、神島さんは言いたいってこと?」


 それだとあやのが完治して帰ってきたら振り出しに戻るだけでなんの意味もないだろ、と喚きたくなる気持ちを我慢しつつ、私は答える。


「違う。言ったでしょ。私はただあなたに訊きたいことがあって来たの」


 ついに本題を出すときが来た。


「今、クラスではあなたがあやのを事故に遭わせたんじゃないかって話で持ちきりでね、それも、うんざりするほど休み時間毎に騒いでるから堪ったものじゃない」


 そこまで言うと、先程まで弱弱しかったあすかの顔が僅かに怒気を帯びる。


 待て。キレていいのはこの台詞のあとだ。


「あやのは下校する時車にねられた。理由は明らかじゃない。でも例えば、あいつに恨みのあるあすかさんがこっそり後ろから近づいて道路側に押し出したとなればどう? そうすれば、簡単に辻褄が合う」


「そんなこと!」


 それまでの張り詰めた空気がぱちんと弾けたように突如としてあすかの怒声が響いた。


「そんなこと、するわけないよ! 私、だって……今までずっと我慢してたんだよ! なんでそんなこと言われなくちゃいけないのっ! ノート取られた時も鞄の中がぐちゃぐちゃに荒らされてお金が抜き取られてた時も髪の毛強引に引っ張られて滅茶苦茶に切られちゃった時も! ほ、他にも沢山、たくさん! 皆知ってたくせに! 誰も助けてくれなかったじゃん!」


 怒声が震えた声に変わっていき、感情が昂るあまりか瞳からポロポロと涙が零れる。


 私だって、彼女の言わんとしていることにはとても共感するところがある。


 外面が良く要領もいいあやのは、絶対に教職員たちにいじめがバレるような証拠は残さない。万が一あすかに不審な点が認められても、それはこのあすかという口数の少ない子は少し変人気質なところがあって、それの現れであると受け取られるだけなのである。


 例えば、あすかの髪が滅茶苦茶に切られた時というのは年度の初めのことで私も見かけたことのあるものであった。


 担任がそんな見た目になった理由をあすかに尋ねる。それに対して、自分で切るのに失敗したなどとあすかが本心を隠して言ってしまう。それで終わり。


 普通なら少しくらい不審に思うものだろう。しかしそんなことはない。何故ならあすかは一年生の時からそういうことが度々あって、教職員たちにはそういう人間なのだと思われているからだ。


 そしてここからが凄いのだが、逆に、あやのは同級生にはあすかへのいじめをとことん見せつける。


 それは、あすかという人間は弱っちいものの、それでいてずる賢くもある。そして私はそんなずる賢いあすかに酷いことをされた。だから、このいじめはそのことに対する正当な報復なのだ。などというように、周りに認識させるためだ。


 そのようにしているから、クラスの生徒全員があすかの脆弱さを知っているし、彼女は悪人であるのでいじめてもよい物だと思っている。


 要するに、ほとんどのクラスメイトはあすかがいじめられていることを知りながら、それを教職員などに伝えることをせず、ましてや嫌がらせに参加することもあったほどの共犯者たちなのだ。


 それは、あすかには耐え難いものだっただろう。


 ずっと一人ぼっち、誰にも手を差し伸べられないのがどれほどの辛さか私にはよく分からない。


 ただ、彼女はあのクラス内で一番惨めな人間で、だけど同時に救うべき人間でもある。それは分かっている。


 それでも今は、彼女に言ってやらなければならない。


「意味わかんない! 私、なんにもしてないのに……おかしいよ!」


「あなたはずっと我慢してたでしょ」


 あすかの癇癪かんしゃくを遮るように言う。


「我慢してたからだよ。誰も助けてくれなかった? なんで誰かが助けてくれると思ってたの? それ、自分が臆病で意気地なしなのを棚に上げた言い訳でしょ。私は皆の考えなんか知らない。けど多分、ずっと我慢してたからこそ、この子はいじめても大丈夫なんだって、そう思われてたんじゃないの」


「なんなのそれ! あなたにそんなこと言われる筋合いなんかない!」


 私が口を挟んだことで怒りのボルテージが数段上がったのが分かる。そして、どうしようもない、どこにぶつけるべきか曖昧だったような怒りの矛先が、今度は明確に私に向いた気がした。


「大体、神島さんだってそんなこと言いながら見て見ぬふりしてたじゃん!」


「そんなことない」


「そんな事あるでしょ!」


 不意にあすかはベッドから立ち上がり、テーブルの向かいまで詰め寄ってきた。


 恨みがましい目が座っている私を見下している。


「……神島さんって、私を助けに来てくれたのかと思ってた。話しかけてくれたから、今日会いに来てくれたから、私のこと可哀想って思ってくれたのかと勘違いしてた。それなのに結局、あなたも皆と一緒なの? ……ううん、違うか。あなたは皆よりもっと酷い」


 期待を裏切られた気持ちになった、失望した。つまりそういうことか。でも、だからなんだ。勝手に期待して勝手に失望しただけだろ。


「今日だってあなたが来た理由がわかんない。私はあなたに何もしてないのに……なんで、そんなに傷つけたいの」


「クソみたいな質問だな。そんなこと言ってるからいつまで経ってもいじめられるんでしょ」


「はあ?」


 素っ頓狂な声をあげたあすかの顔が、怒りよりも一層、悲しみの色を強くした。


「あなたは心が弱すぎる。でもそれだからこそプライドがある。自分に非があることを、自分が無力な弱虫であることを理解し脳みそで肯定しつつ、心でそれを認めたくないから周りの人間に責任転嫁をしてる。それだけの話じゃない? 大体、あなた一人の事情を解決してあげようと邁進まいしんするほど優しい人なんてそういない。そんなのはそもそも当たり前のことだしそれだけのことで傷ついているあなたは心が弱すぎるんだよ」


 そう、彼女は心が弱すぎる。しかもそれに加えて、心優しすぎる。


 だから無意味に期待して失望して、傷ついてしまう。きっとそれは、自分がもしもいじめを傍観する側であったなら、間違いなくそれを無くすために様々な努力をし、いじめられている子を助けようと行動する自信があるから。可哀想と思って慈しむ心があるから。ただ、もしもそういう世界線があったとしても、結局は彼女が次のいじめの標的になるという結末になりそうではある。


 けれど、そんなことはどうでもいいのだ。


『あすかさん、あなたみたいに全員が全員繊細な心の中に優しさがたっぷり詰まってるわけじゃない』つまり私が心優しすぎるあすかに対して思っているのはそういうことだ。

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