第15話 神島は雑談する
「それじゃあ、そろそろ私は帰るよ」
しょうもない作戦会議という名の雑談を終えて、私はその場から立ち上がる。持ってきたカフェオレのペットボトルは、無駄な長話によって既に空になっていた。
扉の取っ手を下げて、そうしたら前と同じように、
「ねえ、神島さん。最後に訊いておきたいことがあるんだけど」
「ん、なに」
明日歌は少し思い返すようにして、それから言った。
「昇降口で私に話しかけてくれた時のことなんだけど、神島さん、洗ったあとの私の上履きを持っていたよね」
「それがどうかしたの」
「もちろん、あのロッカーに泥を詰めたのが彩乃だったら、神島さんはそんな泥だらけのロッカーの中に一緒に入っていた上履きを抜き取って、そして洗ってくれただけってことになる。でも、神島さん本人がやったのなら話は別だなって思ったの」
「ああ、確かに。そうだね」
今までの流れを考えれば、確かに違和感は覚えるところだ。ただ、わざわざ質問してくるほどのことでもない。そんなことに気づくなんて変なやつだと思った。
「わざわざ上履きが入ってる状態のロッカーに泥を詰めて、それから上履きだけ抜き取って洗ったの? そんな手間をかけなくても、最初から上履きを抜いた状態で泥を詰めれば良かったんじゃないの?」
彼女はなんてことないような疑問であるようにそれを言う。同じ高校に通っている以上勉強は出来るのだろうが、私は正直言って彼女のことをのろまそうだしおつむが足りなそうだと思っていた。
ところが実際の彼女は変なところで勘が良いというか、思慮深く考えるタイプらしい。気にしなくてもいいような、細かい異変に気づける人間だということだ。
「明日歌さん、確かに私はあの日濡れたあなたの上履きを持っていた。でも、洗ったあとかどうかの確証なんてないでしょう。例えば、あなたの言う通り上履きは最初から抜き取っていて、しかし私があなたの信頼を得るために上履きを故意に濡らし、さも洗った後かのように見せかけながら話しかけた可能性だってある」
そうは言ってみたものの、明日歌は私の反論に特に困ることも無く冷静に言葉を返してきた。
「それはないと思う。実際、あの上履きは泥まみれになってたよ」
「どうしてそう思うの」
「泥の臭いが薄く残ってたし、裏側の溝にちゃんと洗えてなくてほんの少し泥が残ってたから」
「そう、よく見てたんだね」
言うと、明日歌はちょっと微笑んで俯いて、それから恥ずかしそうに話す。
「……だって、私のために上履きを洗ってくれる人もいるんだって思ったら、現実かどうか分かんなくなっちゃって、よーく確かめたんだよ」
彼女はまた、馬鹿馬鹿しい話だと言うみたいに自虐的に語って笑う。どうでもいいことみたいに。
でも私は、それを見てしみじみと思う。この子は本当に、ずっといじめを我慢してきたんだなと。
「そう。じゃあいよいよどうしてああしていたのか理由を話さなきゃいけないわけね」
「なにか、言いにくい話なの?」
「いいや、凄く単純な話だよ」
思わず少し笑ってしまう。そうだ、本来なら彼女に聞かせることはない、なんてことの無い話だ。
「あの日の朝は、雨上がりだったでしょ。私は朝早めに登校するタイプの人間で、その日も相変わらず余裕を持った時間に学校に着いた。大体ほとんど誰よりも登校するのが早いんだけど、その日は朝部でもあったのか彩乃とあいつの手下の方が私よりも早く学校に来てたんだよね。でも朝部にしては変なことをやっているなと思ってなんとなく見ていたんだよ。そうしたら、明日歌さんの上履きを校庭の泥に沈めてるのを目撃した。すごい陰湿ないじめだった」
とても陰湿ないじめ。教職員にバレないくらいの、中途半端ないじめ。
それを私は教室の窓から見ていて、そして思った。もしかして、陰湿じゃなければいいんじゃないのか。派手ないじめがあったなら、きっと教職員だってそれを認知してくれるんじゃないのか。
だから、すぐにその場で明日歌の机に罵詈雑言を書き殴った。生徒が沢山登校してくる前に急いで彼女のロッカーに泥を詰めた。彩乃たちが去ったあとに泥だらけになった上履きを拾い上げて冷たい水道で洗い、話しかけたついでに返した。
それらを全て話すと、明日歌は感心したように声を上げた。
「入念に計画を練った作戦とか、そういうんじゃなくて即席だったんだね。あれ」
着眼点はそこではなく彩乃に上履きを泥だらけにされていた事実の方が気にするべき点だと思うのだが、呑気なものだ。感傷的になるかと思っていたが、そう単純に全てを悲観する性格というわけでもないらしかった。
「そうだ。私から明日歌さんにも質問いい? そういえば、一つ気になってることがあった」
思い出して言葉を発する。本当ならこの前訪問してきたついでに訊くつもりだったのだが、単純に忘れていた。そう大事なことでもないが、ここでついでに訊いておくのもいいだろう。
明日歌は不思議そうに私を見つめた。
「明日歌さんはさ、どうして彩乃が事故に遭った時、無視せずにちゃんと通報したの」
そのように訊くと、彼女は合点がいったような顔をして答える。
「いや、だって、流石に可哀そうだったし……。無視しちゃったら死んじゃうかもしれないから、救急車を呼んだだけだよ」
全く、この子の感性はこの先どこまでいってもきっと私には理解が出来ないだろう。
私が同じ状況ならば見捨てて家に帰っているところだ。もしそれで彩乃が死んだら殺したのは私ではなく車の運転手なのだから。いや、そもそも普通なら運転手が通報するのだろうが。
「私、通報したあと救急車が到着する前に怖くて逃げちゃったんだけどね。あ、ていうかさ、なんで私が通報したって知ってるの?」
「半分推理、半分ただの勘だよ。あの事故、轢き逃げだったでしょ。いや、撥ねられた場合は撥ね逃げって言うのかな。まあ、轢き逃げでいいや」
「ちょ、ちょっと待って。なんでそもそも轢き逃げだって知ってるの?」
「それは全部勘」
明日歌は驚いたように私を見た。いや、別にカマをかけようと思って言ったわけじゃないのでそんな顔をするのはやめてほしい。一応そう思った根拠はあるのだ。
「まず前提として、事故現場は人通りも車通りもあまり無い場所だったでしょう。彩乃は目撃者のいない場所を選んだに決まっている。あなたの通学路だと考えると、大体あの辺か。そこで、誰にも見られない場所で彩乃はあなたの殺害を決行しようとした。だけど、ここに問題があった。これから憎き相手を轢いてくれる車には、運転手が乗っている。場合によっては同伴者も乗っている。結局、その人たちが目撃者になってしまったら意味がない。彩乃はそんな初歩的なことすぐに気づけたはずだ。だから彩乃は実は、感情的になりながらもそれを抑えて必死に、あなたが車の死角になるような位置に立つ機会をうかがっていたはずなんだよ」
そうだ。一年間いじめを隠し通してきた彩乃が今更目撃者のいる殺人を犯そうとするはずがない。バレないように、狡猾な手段を取っていたはずだ。
「もし死角になる位置であなたを突き飛ばしていれば、運転手からは一見、あなた一人が飛び出してきたように見える。実際は彩乃だったけどこれも同じこと。いずれにしろ、もう一人の存在を運転手は知覚していないことになるでしょう」
そこまで言うと、それまで黙って聞いていた明日歌が首を傾げて口を挟む。
「それが、轢き逃げだって思ったのとどう関係があるの?」
「いや、簡単な話だよ。運転手からして、撥ねた時は相当動揺しただろうけども、そこは人通りも車通りも少ない。特にその時なんかは多分誰も見ていなかったでしょう。あなたを除いて。でも運転手は人を撥ねたわけだから動揺していてあなたがいることなんか気づいていなかった。だから、誰も見ていない、これは逃げられる、って思ったんじゃない?」
明日歌は感心したように息を吐いた。
「そっか、それで通報したのは私だって結論に行きついたわけだね」
彼女は目をキラキラさせて言う。変な反応だ。
「ちなみに明日歌さん。車の形とか色とか、あとナンバーとか、少しでも憶えてたりする?」
訊くと、彼女は少し思い返すようにしてそれから答えた。
「……うんと、ごめん。その時、凄く気が動転してて……。全然憶えてない」
申し訳なさそうに明日歌は語る。だが、それでいいのだ。憶えていなくていい。
「それならいい。むしろそれでいい。彩乃のせいで轢き逃げ犯としての汚名を背負いながら生きていかなければいけなくなる運転手なんて可哀そうだからね。運転手の方が証拠なしの完全犯罪をしたことになるわけだ」
そう言って私が笑って見せると、明日歌が初めて、いたずらっぽい笑みを浮かべた。
「それにしてもすごいね。神島さんは」
明日歌は改めて感心したように言った。
「本当にそう思う? こんなことを平気で語る人間、正直ちょっと怖くない?」
私の顔をまじまじと見て、それから全身に目を運び、また顔に目を戻してくる。明日歌は小さく頷いて語った。
「確かにちょっと怖いかも。でも、私は悪い人じゃないかなって思うよ」
「そうか」
まだ気心の知れた仲でもないのに、知ったことを言う。私に気を許すのが早すぎだよ。お前は。
彩乃ならまだ警戒する。知られざる裏があるのではないかとあいつは常にこちらの腹の底をまさぐってくる。時によってはそれが仇となることもあるだろうが。
まあ、一長一短だ。
「それじゃあ、今度は本当に帰る」
「うん、また月曜日にね」
そんな心配そうな明日歌の声色を察知して、私は言う。
「そうだね。きっとなんとかなるよ」
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