第7話 彼方へと

 響霊輝晶の入った容器を頭上高く両手で持ち上げてマキナ教授は小躍りするかのようにパタパタ足音を鳴らして走り回る。


「はっはっは! やった……やったぞ!! 成功だ!! どんなもんだい!! 」


 はしゃぐマキナの姿にそれを見ているクリスティンも自然と頬を綻ばせていた。


「お前に名前を付けてやらなければ!! ……う~む、そうだなぁ。よし、コテツだ!! これからお前はコテツと名乗れ!!」

「了解しました、マスター。当個体はこれより『コテツ』と呼称します」


 コテツの名を与えられた水晶が答える。


「勇ましいお名前ですね?」

「ああ、昔私が飼っていた猫の名だ。幼少期の私の大事な友人でありパートナーでもあった」


 クリスを振り返って教授が笑顔で言う。


「さあ、ここからまた忙しいぞ。戻ってコテツにボディを作ってやらなければな。ごんぶとビームも標準搭載してやろう!!」

「ちょっとそれは……よくお考えになった方が……」


 クリスの声もいそいそと帰り支度を始めたマキナには届いていない。

 そんな彼女にリューが尋ねる。


「俺たちの仕事は完了でいいのか?」


 橙色の髪のドワーフは大きくうなずいた。


「勿論だ。戻ったらその……なんとか言う死刑囚を釈放するように王に言ってやろう」

「……いえ、死刑囚ではないんですけど」


 乾いた声を出すクリスティンであった。


 ────────────────────────

 グロックガナーに帰還したクリスたちはその足で早速王に謁見した。

 相変わらず門番やら衛兵の1人もいない王城である。

 見かけるドワーフたちは資材を運んで忙しそうにしていたり座ってジョッキを片手に赤ら顔で雑談していたりと自由気ままだ。


 謁見の間にも作業机がありドルガン王は座って彫金に精を出しているところであった。

 バックルに細かい意匠を彫刻している。

 王の太い指の大きな手からどうやればこんな繊細で美しいデザインが刻まれていくのか……一種の魔法のようなものではないかとクリスティンが思った。


「……うむ、えらい!!!」


 経過を報告すると王は窓ガラスが震えるほどの大声で賞賛した。


「瀕死にされずに博士の言う事をちゃんと聞けてえらい!!!」

「それだと私に問題があるように聞こえるだろう。すぐ瀕死になるような助手を手配するからだ」


 マキナは不満げである。

 それについてのコメントは避けるクリスたち。

 空気を読む事も穏やかな生涯を送る上で重要な要素である。


「よし!! ではその何ちゃら言う残虐な死刑囚を解放してやろう!!!」

「いえ、死刑囚ではないです……」


 一応訂正はしておくクリスティン。

 実際本当に残虐な死刑囚なら解放しちゃダメなのではと思いつつ。


 留置場へは先に王が使いを出しておいてくれたらしい。

 マキナと別れてクリスティンとリューは留置場へ向かう。

 ちなみにヒューゴはまた病院だ。


 留置場では先日の牢番が待っていてくれた。


「なんか死刑囚を出してやれって王が言うんだけんどもよ。誰ん事かよくわからんかったんでとりあえず全部出しておいたから好きなの連れて帰ってくれや」

「えええええ……!!??」


 アバウトにも程がある。

 釈放された囚人の内数名は当然と言うべきか既にその時点で逃げ去ってしまっていた。


 ハインツは留置所内の椅子にぐったり腰を下ろしていた。

 その彼がクリスたちを見て慌てて立ち上がる。


「!! 皆さん……本当にありがとうございます! 出してもらえました!!」


 よろめきながら歩み寄ってくるハインツ。


「あああ、ご無理をなさらず……」


 慌てて留めるクリスティン。

 お世辞にも快適とは言えない環境で何日も過ごしたのだ。

 衰弱しているハインツを宥めて再び椅子に座らせる。


「皆さんには何とお礼を言ってよいのか……。ドワーフは『ちょっと待っててくれ』と言われて待ってたら数年後に戻ってきたと言われるような種族ですからね。このまま忘れ去られてしまうのではないかと怯えていました……」

「大らかな部分のある人たちですよね」


 クリスティンが若干困り顔で苦笑する。


「体調が戻り次第俺たちと一緒に地上に戻ってもらう」

「……………………………………」


 リューの言葉に僅かに表情を強張らせるハインツ。

 僅かな間沈黙していた彼が躊躇いがちに口を開いた。


「それなのですが、数日……頂けないでしょうか。頼みごとができる立場でないのは十分承知しているのですが……」

「どうされるおつもりです?」


 尋ねるクリスにハインツは真剣な視線を向けた。


「5層を……見たいんです。ここまで来ておいて5層を見ずに戻るのは本当に無念で……。今回これだけの失態を演じた僕は戻ればもう地下に行く許可は得られないでしょう。今回は最後のチャンスになる可能性が高いんです。だから、どうしても……」

「う~ん……」


 悩むクリスティン。

 気持ちはわからないではないがここまで来て下層でハインツの身に何かがあれば一大事だ。


「どうする?」

「そうですねぇ……。お気持ちは非常によくわかるんですけど」


 リューはクリスティンに決断を任せる気のようだ。

 何だか微妙な味の食べ物を口にしてしまったかのようなもにょもにょした表情でクリスが黙り込む。


「お願いします!! 皆さんにこれ以上お手間は取らせません。下層を目指すパーティーに護衛が脱落した事を告げて混ぜてもらいます。ここから先のことは全て自分の責任だと一筆残します。僕に何かがあった場合はそれを父と兄に見せてください」


 ああ、そうか……とクリスはそこで気が付いた。

 彼はまだ自分の父が故人となった事を知らないのだ。

 ましてや……手を下したのが目の前にいる自分だという事は。


 その償いと言うわけではないが……。


「わかりました。ですが本格的な探索はさせてあげられませんがよろしいですか? 私たちが同行します」

「恩に着ます。お約束します。奥を見たら引き返します」


 座ったまま両膝に手を置いて深々とハインツは頭を下げたのだった。


 ────────────────────────


 病院から戻ったヒューゴに事情を説明したクリスティンたち。

 相変わらず包帯ぐるぐる巻きのエルフは黙って一通り話を聞き終えた。


「ま、オジさんも同じ穴の何とやらだからな。気持ちはわかるぜ。お前さんらがいいならそれで構わんよ」

「ありがとうございます。ヒューゴさんはどうなさいます? お怪我されてますけど……」


 尋ねるクリスをじろっと睨む包帯男。


「行くに決まってんでしょーがよ。だからこんなもん何でもないんだっつの。医者が大袈裟なんだよ。オジさんはなぁ……前になけなしの生活費をお馬さんのレースにブッ込んだ事がかあちゃんにバレて2階から叩き落された事があってな。身体のあちこちの骨にヒビが入ったが次の日から求職活動に行かされたってくらいの……」

「うわあああ、なんでそう次から次へと虚しいエピソードが出てくるんですか!!」


 両手で顔を覆って嘆くクリスティンであった。


「んでどこまで連れてくんだよ?」

「皆で相談して、あの女神像のあった聖堂みたいな空間まで行く事にしました。あそこならルートができてますしね」


 マキナが水晶に霊体を集めた、皆でサンドイッチを食べながら休憩した空間の事である。


「うん、いいんじゃない? オジさんその空間知らないんだけどね……」


 若干恨みがましい声で言うヒューゴ。

 彼もその空間にはいたのだが昏倒していて見てはいない。


 ともあれ、方針は決まった。

 クリスティンたちはハインツの回復を待ってもう1度5層へ入る事になった。


 ────────────────────────


 そしてそれから3日が過ぎハインツも大分復調したので一行は5層へ向かう。


 道中ではハインツとヒューゴが考古学談義に花を咲かせている。


「いやあ~流石エリートだな。オジさんと古代ジブラスタ期の話がここまでできる奴は同業者にだってそうそういやしねえ。まるで見てきたみたいな知識量じゃないのよ」

「あはは……恐縮です」


 照れ笑いしているハインツ。

 専門的な話なのでクリスとリューには2人が何の話をしているのかほとんどわからない。


 そうこうしている内にパーティーは先日の女神像の間に到着した。


「……おおおおおっ、こ、こりゃすげえぞ!!」


 ハインツよりもヒューゴの方がむしろ興奮気味である。

 エルフはあちこちに張り付くようにして周囲を調べ始めた。


「ヒューゴ先生、これを見てください……!」

「お、なんだなんだ!?」


 ハインツに呼ばれてヒューゴが走っていく。

 2人で石版のようなものを調べながらあれこれ話し合っている学者たち。


 声を掛ける事もできない、また邪魔をする気もないクリスティンとリューはそんな2人を少し離れた場所から眺めているだけである。


「…………?」


 その内にふとクリスは違和感を感じた。

 はしゃいでいると言ってもよい状態で周囲を調べているヒューゴとハインツ。

 だが、ハインツはヒューゴと違って遺跡のどこにも触れようとしないのだ。

 気になる部分を見つけるとヒューゴを呼んで彼に調べさせている。


(手を怪我しているのかな……?)


 そう思ったクリスティン。

 しかし、それにしてはここへ来るまでに彼が手を庇っているような様子もなかった。


 やがてヒューゴとハインツは女神像の前にある四角い台座を調べ始める。

 2人であれこれ話をしながらヒューゴが台座をいじっていると、やがて台座の上の部分が1枚の石版になって斜めに持ち上がり、そこに操作盤のように規則正しく並んだ淡く輝く無数の紋様が浮かび上がった。


「オイ、どうする……? 本当に出ちまったぜ……」


 額に薄く汗を浮かべているヒューゴ。

 掠れる声で言う彼の目は石版からの光を受けて潤んでいるようにも見える。


「どうした。何をしている?」


 リューが早足で2人に歩み寄る。


「い、いや、それがよお……」

「隠されたフロアへの鍵が見つかったんです! 随分長い間誰も触れた痕跡がありません。僕たちが……歴史の先駆者になれるかも……」


 ハインツも頬をやや紅潮させて興奮気味である。

 しかし赤い髪の男は静かに首を横に振る。


「そこまでは許可できない。ここで引き返す約束だ」

「な、ならせめて僕たちの操作でこの仕掛けを起動できるかどうかだけ試させて下さい。それが確認できたら戻ります」


 懇願するハインツにリューは少しの間沈黙してからヒューゴの方を見た。


「……どうなんだ?」

「確かにこりゃフロアを移動する為の仕掛けだ。これそのものに危険はねえが……」


 気まずそうな顔のヒューゴが後頭部を掻く。


「なあ、まあ約束だし今はここまでにしとこうや」


 その台詞にハインツが一瞬呆気に取られたような顔をした。


「おや? 味方をしてくれるかと思っていたんですが……結構良識があるんですねぇ」


 そして、ハインツ・ミューラーの姿がその場から消失する。

 一瞬の事だった。


「!!!」


 瞬間移動したハインツはクリスティンの背後に現れた。


「あぁ……っ!!??」

「お、オイ!!!」


 彼女の右腕を取りそれを背後からねじり上げるハインツ。

 それを見てヒューゴも声を荒げた。


「ハインツさ……ん……!!」

「申し訳ありませんね。手荒な真似はしたくなかったんですが。お連れ様が中々に頑固なもので」


 先程までの気弱そうな口調ではない、どこか嘲りを含んだはっきりとした声でハインツが言う。

 リューがクリスティンを見る。

 彼女は歪めた顔で首を横に振る。


(……振りほどけない……!!)


 その事実にクリスが愕然とする。

 彼女の腕力は常人を凌駕している。その上事態が危急となればさらに腕力は増幅されるのだ。

 それなのに……びくともしない。


「僕はただ先へ行きたいだけですよ。それ……起動してください。そうすればクリスティンさんは解放しますから」


 言いながらハインツはクリスティンを掴んでいる腕にやや力を込めた。


「……ううっ……!!」


 腕をねじり上げられクリスは苦悶の呻き声を漏らす。


「オイ、やるぞ! いいな!!?」


 ヒューゴのその台詞は鋭くハインツを睨んだままのリューに向けたものだった。

 このエルフもクリスティンの怪力はよく知っている。

 その彼女が呆気なく片手で拘束されてしまっている。

 疑いようも無い。

 ハインツ・ミューラーとは見た目の通りの男ではない。

 もっと得体の知れない……バケモノじみた何かなのだ。


「……ああ」


 赤い髪の男が小さく肯いて同意する。

 それを受けてヒューゴはまるで鍵盤楽器を奏でるかのような速度と滑らかさで無数の紋様の上に指先を走らせた。


 ……ガコン!!


 大きな音を立てて女神像を中心とした円形の床が沈み始める。

 それはクリスティンやリューたちを乗せたままゆっくりと降下していく。


「さあ、皆で見に行こうじゃありませんか。この大地の底に何が隠されているのかをね……」


 クリスの腕を掴んだままそう言ってハインツは冷たく笑う。


 そして……エレベーターになっていた床が下部へ到達した。

 そこはどこまでも続いている広大なフロアだった。

 前後左右どこを見渡しても壁が見えない。

 床の模様は波紋のように円形に中央から広がっていて、その中心部には巨大な円形の台座がある。


 巨大な台座……その上には何かが浮いている。

 途方も無く大きな円形の……。


「レンズ……?」


 クリスティンが呟く、

 そう、それは巨大なレンズであった。


「……ここと……よく似た場所を知ってる」


 周囲を見回してヒューゴが低い声を出す。

 それを語る男の表情は強張っている。


「大森林の地下遺跡でよ。滅茶苦茶厳重な警備が敷かれててな。ほんの数分の見学でさえ物凄い数の監視を兼ねた護衛が付く。……つまり、そんだけやべえもんだって事でよ」

「ご存知でしたか。流石に優秀でいらっしゃる……ヒューゴ先生」


 薄笑いを浮べてそう言うとハインツは軽く肩をすくめた。


「いやいや、助かりましたよ。何せ5層からは僕は周辺のあれこれに触れられないようにされてましてね。念の入ったことです。小賢しいことで」


 ジジッ!と虫の羽音のような音を響かせてハインツとクリスティンの姿が消えた。

 一瞬の後に2人は円形の台座のすぐ脇に姿を現す。


(転移術か。厄介だ)


 表情は変えずに臨戦態勢を取ったままのリュー。

 クリスティンが人質に取られているので彼はハインツに仕掛ける事ができずにいる。


「気をつけろよリュー、こいつ……魔族だ」


「魔族、ねぇ」


 ヒューゴの言葉に一瞬白けた表情になるハインツ。

 魔族とは千年以上前に『魔王』に仕えてこの地上を荒らし回った超常の力を持つ者たち。

 魔王が討たれて魔族も滅びたと言われている。


 ハインツ・ミューラーの姿が青暗くゆらゆらと揺れる炎のようなものに包まれて変容していく。

 肌は青白く変色し耳は尖り、頭部には2本の山羊のそれに似た角が生える。

 白目の部分が黒く染まって金色に瞳孔が輝く。

 そして身に纏う装束は薄汚れた探検家のものから豪華な刺繍を施された貴族のようなゆったりしたものへと……。


「小生らにもヴァルゼランという種族名があるのですよ。と言うわけで改めまして……魔族ヴァルゼランパロドミナスと申します。お見知りおきの程を」


 慇懃無礼に一礼するパロドミナス。

 今だ拘束されているクリスティンが苦しげに奥歯を噛み締めている。


「あなた方のご協力には深く感謝しますよ。お礼に世紀の一瞬をお目に掛ける事といたしましょうか」


 青い肌の男が不気味なオーラを身体から立ち昇らせる。

 それは本来不可視のもののはずが目で見えるほどに濃縮された魔力の波動だ。

 そのオーラは台座の上に浮かぶ巨大なレンズに纏わり付いた。


 レンズの向こう側にこの場ではない、どこか別の景色が映る。

 それらはもやもやと揺らぎながら次々にロケーションを変えていった。


 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!!!!


 フロアが、いや迷宮全体が鳴動する。


「うおおおおっ!! なんだこりゃああ……!!!」


 立っているのが困難なほどの強い揺れに思わずヒューゴがその場に伏せる。

 だが、クリストファー・緑はその強い揺れの中微動だにせずに鋭く魔族の男を睨みつけていた。


「その女を解放しろ!」

「おおっと、そういう約束でしたな」


 パロドミナスは大袈裟に肯いて見せるとクリスティンを拘束していた手を離した。

 よろめいて前に出たクリスがリューと視線を交差させた。


「……リュー」


 リューへと駆け寄ろうとするクリスティン。

 だが強い揺れでそれができない。

 その彼女の足が床を離れて浮き上がる。


「……ああっ!!??」

「クリスティン!!!」


 虚空に浮かび上がったクリスティン。

 空中で身動きが取れない彼女がゆっくりと巨大レンズに引き寄せられていく。


「おやおやこれは……小生が捕まえたままにしておいた方がよかったのでは?」


 こうなる事を予見していたか、嘲りの笑いを含んだ声で言うパロドミナス。


「……リューっ!!」


 最後までリューに向かって手を伸ばしながらクリスティンがレンズに飲み込まれて消えていった。

 それを追ってリューが大きく床を蹴ってレンズへ向けて跳躍する。


 ……その時、何かが高速でその場に駆け込んできた。


 大きく揺さぶられるかのような揺れをものともしない速度と滑らかさに傍らを駆け抜けられてもヒューゴはすぐにその生き物の存在を認識できなかった。

 大きな黒い影。

 漆黒の毛並みの獣……1匹の大型の黒豹だ。


 走りこんだ勢いのまま後ろ足をしならせて虚空に舞う黒豹。

 空中で赤い髪の男と接触した豹は体当たりで彼を弾き飛ばす。


「……っ!!?」


 表情を歪めるリュー。

 レンズに飛び込もうとしていた彼は横に弾かれ床に着地する。


 鋭く睨んだ彼の視線の先には黒豹がいた。

 豹も着地してリューを見ている。


「……メギドか?」


 黒豹の獣人を頭に思い浮かべているリュー。

 だが目の前にいるのは獣人ではなく四足の動物の黒豹である。


 リューの言葉には返答せず、黒豹は踵を返すと再び床を蹴って跳ぶ。

 一瞬交差した瞬間、リューには豹が「お前はここに残れ」と言っている様な気がした。


 クリスティンに続いてレンズに身を投じ消えていった黒豹。


「……フン」


 それを黙って見送りパロドミナスは小ばかにしたかのように鼻を鳴らした。


 ────────────────────────


 迷宮を鳴動させた揺れは地下の遺跡のみならず地上のロンダンの都にも災禍をもたらしていた。

 ミューラー邸も大きく揺れ窓が枠ごと外れて落ちたり大型の家具が倒れる等の被害が出ている。


 それは主の部屋も例外ではない。

 椅子に座って苦しげな表情を浮べているフェルザー。

 彼の書斎は惨憺たる有様であった。

 倒れてきた大型の本棚に頭部を強打した彼は今だ出血を続ける傷口をハンカチで抑えている。


 そこにノックも無く1人の男が入ってきた。

 黒の上下の粗野なようでどこか不思議な気品もある精悍な若い男だ。


「……無事か、フェルザー」

「メギドか……。大丈夫だ」


 入ってきた人間族の男を黒豹の獣人であるメギドと同じ名で呼んだフェルザー。


「私や屋敷の事より……大変な事がある。大変な事を思い出した、というべきか」


 フェルザーの言葉を黙ってメギドが聞いている。


「私に弟はいない。ハインツはもうずっと昔に命を落としている。何故、忘れてしまっていたんだ。ハインツを名乗るあの男は何者だ……?」


 相変わらず無言のメギド。

 表情を変えない友人の顔を見てフェルザーが気付く。


「君は知っていたのか?」

「ああ。君が記憶を操作する魔術を掛けられている事も君の弟を名乗った男が人ではないものである事も知っていたよ」


 肩をすくめて嘆息するメギド。


「だが、君に掛けられた術は外部から解除を試みると精神を破壊する悪質なものだった。だから私は自然に君が記憶を取り戻すのを待つより他はなかった」

「何故奴は地下を目指した。この揺れは……地下からか?」


 苦しげに目を細めるフェルザーにメギドがうなずく。


「そのようだ。あちらには豹の私を行かせてあるが……よほど深く潜ったと見える、上手く知覚の接続リンクができない。現時点でここから私にわかる事と言えば……」


 ガラスにヒビの入った窓に歩み寄り、メギドはそこから遠くを見た。


「今から世界は緩やかに滅亡に向かうかもしれん、という事だけだ」

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