第8話 果てなき長い旅路
弟は……ハインツは生まれつき身体が弱かった。
不治の病を患っているわけではなかったが治療と投薬には大金が必要だった。
そして……父親はその金を出してはくれなかった。
本が好きで大きくなったら先生になりたいと言っていた弟。
彼は病を悪化させて10歳の冬にこの世を去った。
その葬儀の日にも父親は顔を見せなかった。
何故父は来ないのかと問う自分に母はただ泣くだけであった。
思えば……自分の、フェルザー・ミューラーの父への不信はその頃から強く意識の底に根付いているものであったのだ。
フェルザーは僅かな時間過去へと旅立たせていた意識を現実に引き戻す。
「地下へ向かわせた2人に助けを出さなくては……」
よろめきながら立ち上がるフェルザーをメギドが支える。
「……よろしければその話、私がご相談に乗りますぞ?」
その男は唐突に部屋にずかずかと立ち入ってきた。
「不躾に失礼。緊急時なので勝手に入らせて頂いております」
そう言って慇懃に頭を下げた男。
痩せた中年男だ。身なりは良い。シックで高級そうな衣装に身を包んでいる。
鷲鼻で口元には先がピンと上を向いたカイゼル髭。
オールバックの髪をワックスで固めたその男は何と言うか……悪人面であった。
そしてその髭の男の背後に控えているスタイルの良い褐色の肌の美女。
ブロンドの長髪をオールアップにした彼女は無言でやり取りを聞いている。
こちらもなんというか……勝気そうで悪女っぽい。
「何者だ、お前は」
「これは申し遅れました。私はこういう者でしてな」
フェルザーが受け取った名刺を見る。
そこには『メイヤーズカンパニー 代表 ヴァイスハウプト・メイヤー』と記されていた。
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虚空を裂いて襲い来る矢のような蹴り。
青い肌の男は薄笑いを浮かべて無造作に右手を持ち上げてそれを受け止めた。
揺れはまだ続いているが徐々に収まりつつある。
蹴りの姿勢のリューが上空で静止している。
相手の攻撃を止めた以上に何かをしてくる様子がないパロドミナス。
リューは彼の手を足場に後方に跳んだ。
「……ふぅ~む」
魔族の男はぱんぱんと手を叩いて砂埃を落とす。
「あなた中々お強いですね。人類としてはかなり上位の方でしょう。わかるんですよ、小生随分と長い間ヒトを見てきてますから」
無言でリューが再び飛び出す。
一瞬にして拳の間合いに達する赤い髪の男。
鋭く繰り出された無数の拳打にパロドミナスが目を細める。
その打撃のほとんどは虚しく空を切った。
数発はパロドミナスが無造作に手で払う。
一撃で大型の魔物を斃すリューの拳打が……。
まるで、通用しない。
「おぉ、怖い怖い。あまりいじめないでください。小生文官でしてね。戦うのは不得意なのですよ」
大袈裟に肩をすくめて首を横に振るパロドミナス。
クリストファー・
表情には出さずに内心で焦燥していた。
目の前のこの男を倒してクリスティンを救出する方法を吐かせなければならない。
彼女があの巨大レンズに飲まれてどのくらいの時間が過ぎた?
3分? 5分は経過しているだろうか……?
あの中はどうなっている?
……彼女は無事なのか?
自分の心がこれほど乱れる事があるのだと、生まれて初めてリューは知った。
叫びだしたい気持ちを抑えて対敵に向き合う。
そして再度彼が仕掛けようとしたその時、後頭部に激しい衝撃がきた。
視界が激しく明滅し、風景がぐにゃりと歪む。
「……ぐっ!!?」
呻いてリューが崩れ落ちた。
冷静であれば察知して対処できたはずの不意打ちだった。
その彼の背後には瓦礫の石片を握りしめたヒューゴが立っている。
「……くっそ! 小柄なのに重てえな……!」
ぼやきながらリューを抱えて担ぐエルフ。
後ろからリューをぶん殴って昏倒させた彼はこの場を離脱しようとしているのだ。
「ここでお前さんが死んだってどうにもならんだろうが……! シロートのオジさんが見たってわかるぜ。今のお前さんじゃアイツにゃ勝てねえ!」
それを眺めているパロドミナス。
この魔族がそのつもりなら2人とも呆気なくこの場で命が終わるだろう。
だが……。
「ああいいですよ。どうぞご自由に」
ヒューゴの意図を察したパロドミナスは「お帰りはあちらです」とでも言うように片手を上げた。
リューを引きずるようにしてヒューゴが逃げていく。
それを見送ることもなく魔族は再び大レンズへ視線を戻した。
「長らくお待たせしましたね、同胞たちよ」
来客を歓待するかのようにレンズへ向かってパロドミナスは両手を広げた。
────────────────────────
どことも知れない空間を漂っている。
星空のような空間だ。
ただ星空なら漆黒であるはずの周囲は時折青くなったり赤くなったり色を変えている。
そんな空間に、上下もなくただふわふわとクリスティンは漂っている。
「困りましたね。ここどこなんでしょうか……」
心底困り果てたという様子でため息をつくクリスティン。
その時、彼女の瞳に彼方から近付いてくる光点が映った。
輝きは人が走るような速さで自分に近付いてくる。
「うわわわ、なんでしょうなんですか……!! おっかない何かじゃないといいんですけど……!!!」
近付くほどに強くなる光に目を細めながら身を庇うようにクリスが両手を上げた。
「………………………………」
ぶつかった、と思える瞬間から数十秒ほど。
どうやら自分の身体はどうにもなっていないようだと確認してクリスティンは目を開いた。
見れば自分の身体は先程近付いてきていた光に包まれていた。
そして傍らには寝そべるような姿勢の大きな黒豹がいた。
「……あ、あの……」
呼びかけるクリスティンに気だるげに首を持ち上げる黒豹。
「メギドさん……ですか?」
「そうだ」
黒豹はクリスの記憶にある獣人の声で答えた。
「お前に見せたあの姿か。あれはな……人の私と今の私が合体している時の姿だ。他にも様々な生き物の姿をした無数の私が存在している。鳥や蛇なんかもいるぞ」
「そ、そうなんですか……。ちょっと、よくわかってないですけど……凄いですね」
そう答えるしかないクリスティン。
「私の
「!!!?? ……ヒック! あ、すいません、驚きすぎてしゃっくりが……」
その話ならつい最近にもヒューゴから聞いたばかりである。
この世界で成人しているものなら大体は御伽噺として聞いた事がある。
はるかな昔に地上を支配していた邪悪な王を打ち倒した4人の英雄王の物語。
「オリジナルの私はもう数百年前に滅びている。延命もできたがな……まあ、そうしようとは思わなかった。だが私は死ぬ前に自らの思考と知識を無数の
「も、もしや猪のメギドさんもいたりします……?」
恐る恐る尋ねるクリスティンに豹は静かに首を横に振った。
「猪はいない」
「そうですか……よかったです。気が付かない内にどこかで駆除しちゃってたらどうしようかと」
ホッと胸を撫で下ろすクリスであった。
「それで、メギドさんがどうしてここに?」
「お前たちのことはフェルザーに会わせた後もずっと見ていた。この姿の私の持つ固有の特技だが、私は影の中に潜む事ができる。潜伏状態でずっとお前たちを追跡していた。お前を助けたのはお前が面白い奴で私が気に入ったからだ。そうでなければ見捨てていたよ」
面白い、というのは褒められているのだろうかと首を傾げるクリス。
「ハインツを名乗ったあれの正体も目的も見当が付いていたからな」
「それなら教えてくだされば……」
悲しそうな顔をするクリスティンをまっすぐにメギドが見ている。
「私はお前たちの味方じゃない。敵でもないがな。お前を助けると決めたのはお前が次元の狭間に飲まれたあの瞬間の事だ。それまでは傍観者に徹するつもりだった」
「あう。そ、そうなんですか……」
虚空に浮かんで座った姿勢のままがっくり肩を落としたクリス。
「フェルザーは私の友人であり彼の力にはなりたいが、そうでない者は私にとっては興味や慈悲の外側だ。人類や世界など、そういった大きな括りのものがどうなろうが今の私にはさして関心はないな。流れのままにするだけだ」
「でも、魔王を倒して下さいましたよね?」
話しながらなんとなくメギドの首筋を撫でるクリスティン。
それに対して抵抗は示さず黒豹は話を続ける。
「魔王を倒し侵略を食い止めた私が見たものは平和になった世界なんかじゃなかった。外に敵がいなくなれば人は人同士で争い始めたんだよ。それから数百年、今も世界の各所で戦争は起こっている。初めはそれに激しい怒りと失望を覚え、やがて時は過ぎてその感情は乾いた無関心へと変わっていった」
「……………………………………」
どのような言葉を返すことも出来ずにクリスはただ悲しげに俯く。
「魔族だの魔王だのとは結局は後の世の者が侵略側が悪なのだとわかりやすく喧伝する為に付けた呼び名に過ぎない。あの場で奴も名乗っていただろう? 自分たちはヴァルゼランであるとな。異界からの侵略者たち、それがあのヴァルゼランだ。私たちが倒した魔王と呼ばれているやつも連中の王じゃなかったんだよ。侵略軍の一指揮官だ。奴らは本来の自分たちの世界から、お前もあの場で見たあの巨大なレンズ……次元境界門を使って他世界を侵略しにやってくる」
「え、じゃあここがあの人? たちの世界なんですか?」
慌てて周囲を見回すクリスティン。
しかし相変わらず周囲には何もなくただ緩やかに色を変えている星空の景色が続くのみだ。
「ここはどこでもない場所、次元の狭間だ。門に出口を設定しないで入るとここに出てしまう。このままでは朽ちるまでここを彷徨うだけだ」
顔色を失ったクリスが震え上がる。
「ひ、ひええええ……すいませんその場合は私が骨になるまで抱き枕にしてもいいでしょうか? どうせ死ぬならもふもふ抱っこした状態で死にたいです……」
「断る」
ばっさり断られてこれまでになく激しくクリスは項垂れた。
「私はお前の抱き枕になりに来たわけでも、一緒に朽ち果てに来たわけでもない。お前をここから逃すつもりで来た。掴まれクリスティン……次元の壁を突き破って外に出る」
「出られるんですか!? ありがとうございますついでに結局抱き枕にします」
黒豹の首筋にガバッと抱きついたクリスティン。
何も無い無の空間をクリスティンをぶら下げてメギドが駆ける。
黒豹はどんどん速度を増し、やがてクリスが目を開けていられないほどの一筋の光の矢となって虚空に突き刺さりその先へと消えていった。
────────────────────────
見上げれば青空があって、足の下には大地がある。
それだけの事がこんなに嬉しいと感じる日が来るとは……そう、しみじみとクリスティンはため息をついた。
ここはどこだろう? そう彼女は周囲を見回す。
屋外のどこか……離れた場所には森があるようだが……。
「まず始めに言っておくがな……」
自らの傍らの大きな黒豹が言う。
「ここは、
「は……い……?」
思わず固まってしまった表情のまま引き攣った返事をするクリス。
「この方法しかない。次元の狭間から強引に抜け出すと行き先の世界はどこになるかわからないんだよ。ただ1つだけ共通点がある。それはヴァルゼランが持ち込んだ境界門がこの世界のどこかにあるって事だ」
クリスティンがあの巨大なレンズを思い出す。
「あれが、この世界のどこかに……」
「そういう事だ。我々はこれからその境界門を探しにいってまた次元の狭間へ飛び込む。そしてまた強引にそこを突破して次の世界へ行く。それを元の我々の世界に運よく帰り付けるまで繰り返す」
くらっと、一瞬眩暈を感じてクリスがよろめいた。
「それは……もしかしなくても……果てしない話なのでは」
「そうだな。気が遠くなるほど永い永い旅の始まりだ」
黒い獣は目を閉じる。
祈るように、何かを考えこむように。
「しかし、そんな事までご存じとは……物知りさんですね」
「実体験からの知識だ。オリジナルの私が奴らとの戦いの中で同じ目に遭った事がある」
その時にメギドはその方法で元の世界へと帰還した。
……果てしなく長い年月を経て。
「私が恐れているのは途中でお前の
んん?とわずかに考えてからクリスが首を曲げてメギドを見下ろした。
「いえ心は大丈夫でも、そんな事してたら私はどこだかもわかんないような世界でお婆ちゃんになってしまうのではないでしょうか……?」
「それについては今は心配しなくていい。考えている」
(博打ではあるがな)
言葉にはせずに付け足すメギド。
「まあどこかの世界で旅の途中でお前が心折れるならそれはそれでしょうがない。その場合は乗りかかった船だ。最期まで見届けてやるさ。あの世界にはまだ無数の私がいる。1体欠けてもそこまで問題ではないだろう」
「いえ、折角ここまでしていただいたんですから頑張って帰ります!!」
ふん、と鼻息荒く拳を握り締めたクリスティン。
「その辺にあのレンズがあって、1回目で元の世界に帰れる可能性だってありますよね!!」
「まぁ……それはそうだな」
可能性の話でいえばゼロではないだろう、とメギドは思う。
反対に1つの世界で恐ろしく永い年月を欠けて門を探し出しその上それを何度も繰り返す羽目になるという可能性もあるわけであるが。
……そして、もう1つメギドにはあえてクリスティンに伏せている情報がある。
外の世界で過ごした時間は帰還先の世界の時間に反映される事はない。
つまり何千年別の世界で過ごそうが元の世界の自分が消失した直後に戻る事はできる。
だが逆もありうる。
帰還する時間軸がずれる事だ。
1時間で元の世界に戻れたとしても自分が消失してから100年後や500年前の世界に戻ってしまう事もあり得るのだ。
(まあそうなったらそうなったでしょうがない)
その辺りは次元を超えていく者の意思の強さがある程度反映される。
元の世界のイメージが鮮明であり、戻りたいという想いが強ければ強いほど元いた時間に戻れる可能性は上がる。
その為にもなるべく元いた世界の記憶が鮮明な内に旅を終えたいのだが……。
黒い獣は目を細める。
こればかりは……祈るより他はない。
「行きましょうメギドさん! まずはレンズ探しですよ!」
クリスティンが呼んでいる。
黒豹は彼女に並んで歩きだす。
こうして、1人と1匹の旅が始まった。
……とても、とても長い旅が。
いくつもの世界を旅した。
季節は何度巡っただろうか。
夜空に浮かぶ星屑の数にも等しい出会いと別れを繰り返し、クリスとメギドの旅が続く。
それは苦難と悲哀に満ちた道程。
心を削り魂を抉られる旅路であった。
しかし、クリスティン・イクサ・マギウスは……。
最後まで1度も弱音を吐かなかった。
────────────────────────
大地に空いた大穴から無数の魔物が這い出して来る。
それはインセクトベア、蟲熊と呼ばれている魔物の大群だ。
蟲の魔物は以前よりも変質し強化され凶悪化している。
以前にはなかった全身に生えた鋭いトゲ。
その棘を生やした蟲熊は腕力もしぶとさも格段に上昇しているのだ。
それが今大量に地下から地上へ湧き出ている。
その強化種はスパイクベア、棘熊と呼ばれている。
ここはフィロネシス王都ロンダン近郊の荒野。
現れた大量の魔物の出現は予測されており迎え撃つ戦士たちは既に布陣を終えている。
「……トゲ虫がよ。性懲りもなく湧いて出やがって」
「さぁって、今日も害虫駆除に励むとしましょうかねえ」
歴戦の戦士たちが武器を手に軽口を叩きあっている。
この地は今や戦場だ。
地下から湧いてくる魔物たちを駆逐するために世界中から腕自慢たちが集結している。
地下は完全に魔族たちに制圧され立ち入りはできない。
ドワーフたちの王国グロックガナーも制圧されてしまい、生き残った彼らは地上に逃れてきている。
あの日から新たな魔族が境界門からこちらの世界に現れているが未だにその数は10人にも満たないという話だ。
数のせいなのかどうかはわからないが魔族たちは本格的な侵攻を開始する様子は今のところない
だが、魔族たちはこの世界の魔物を強化し自在に操ることができた。
地上数か所に巨大な穴をあけ、そこから魔物たちは侵攻してくる。
頻度も間隔もまちまちだが散発的に襲撃がある。
魔族自体はほとんど姿を現すことがない。
彼らが地上に姿を見せたのはこの2年で3回だけ。
だが、その3回ともに地上の戦士たちは数百の犠牲が出ている。
ほんの数分の戦闘でだ。
……最も、こちらがそのつもりでも魔族たちに戦闘している気があったのかどうかは定かではない。
鋼鉄の都と呼ばれたロンダンは今やその工業力をフル稼働させて武具や近代兵器を生産していた。
そして、それらの開発を一手に担う天才ドワーフがいる。
「教授~!! また破壊光線を送ってくれって! デカい群れが出たらしいです!!」
走ってきて叫ぶ工場のスタッフ。
様々な図面を広げた机に座ったよれよれの白衣姿にサンダル履きの小柄なドワーフの女性が気だるげにそっちを見た。
やさぐれ気味の視線が直立するスタッフを捉える。
「なんだねもう。私は新兵器の構想で忙しいんだよ。その程度のことそっちで勝手にやってくれ」
低い声で言うマキナの目の下には大きな隈ができている。
昨日は完徹だったのだ。
「ですが、フェルザー団長が製造と出荷には教授の許可を取れと」
「折角気軽に扱える兵器にしたんだぞ。気軽にやらなくてどうするんだ。本末転倒も甚だしい」
あんなとんでもない威力の兵器をみんなが気軽にぶっ放したら大変な事になるからでは……とスタッフは思うのだった。
何せ引き金を引くだけで目の前が更地になるような代物である。
そこにガシャンガシャンと金属質の足音が聞こえてくる。
「マスター、おやつの時間です」
お盆を手に現れたのは銀色の装甲兵士。
最新型ボディの機甲兵。身の丈は2mほど。
頭部のバイザーの下の暗い裂け目に緑色の鋭い光が2つ。
戦闘から家事までなんでもこなす万能カラクリ助手。
その名をコテツという。
「手が離せない。口に入れてくれ」
「わかりました、マスター」
小皿の上の和菓子を大きく開いたマキナの口に入れるコテツ。
途端に橙色の髪のドワーフ女性は目を白黒させた。
「おボッ! ……げほげほッ! 柏餅を葉っぱごと入れるんじゃない!!」
むせかえって涙目で抗議するマキナであった。
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