八、神屋創太(後)

 教室を終えて、子供達が帰った後、うずくまっている澪を他の職員が見付けた。澪は自力では全く動けず、担架でラボの検査が出来る場所に運ばれた。

 検査の結果、心臓が弱っていると言うことが分かった。病院から循環器内科医を呼び、薬物的な治療を行ったが効果はなかった。横になっている澪の前だったが、僕は内科医に詰め寄った。

「何かないんですか?」

「手立てはありません」

「カテーテルで何とか出来ないんですか」

「そう言う問題じゃないんです。心臓全体の力が弱くなっていて、血管には問題はありません」

「じゃあ、今の状態は何なんですか」

「老衰、と呼ばれるものが一番近いです」

「老衰。……まさか、もう死ぬんですか」

 内科医は視線を揺らした後、僕の目をしっかりと見た。

「余命は一週間から数週間でしょう」

 長期で生きた人魚が実年齢よりずっと早く老衰になる現象は研究に値するものだ。死ぬまでにサンプルを取らなくてはならない。僕はラボの自分の席に座り計画を練る。澪の死後にするべきこともリストアップする。しながら、澪のクローンを作っておけば心臓を移植出来たのに、だがもう遅い、時間がない、澪、澪は死ぬのか、本当に。頭を抱えた。まるで僕は泣いていた。涙なく、泣いていた。

 夜になり、澪達の部屋に行く。

「海、ちょっと澪と二人で話したいから、隣の部屋に行ってもらえるかい?」

 僕は鍵を見せる。

「いいよ」

 海は目を泣き腫らしていた。僕が澪と話したい理由を誰よりも分かっている顔だった。海は部屋を出て、隣の部屋に入る音が聞こえた。

 僕は何も言わずに、澪にキスをした。澪もずっとそれを待っていた顔をしていた。別れのキスになるかも知れなかった。なのに、初めてのキスのように響いた。

「澪」

「たくさん泣いてくれたのね」

「泣いてなんかいないよ」

「嘘。私には分かる。……私、本当に死ぬんだね。でも、自分でも体が限界だって分かるよ」

「数週間の命だそうだ」

「ちょっと早過ぎるよね。人魚の寿命って、そんなものなの?」

「分からない」

「そうだよね。確実な事実は、私の寿命はもうすぐだってこと。私もたくさん泣いたよ。海も一緒に泣いた。気持ちの整理なんて絶対につかない。私は死ぬまで死にたくないし、生きられる限界まで生きてやろうと思っている。……それでも、生まれて、教室の先生やって、神屋に出会って、海とも会えて、嬉しいことのいっぱいの人生だった。それは全てそのまま、死にたくない理由だよ。分からなくなる前に言うよ、ありがとう、神屋」

「こっちこそ、ありがとう」

 澪は笑った。弱々しくも芯のある笑顔だった。僕達は昔のようにセックスをすることはしないが、そっと抱き合った。澪の体温を感じた。もっと話したいことがあったはずなのに、何だかもう十分で、澪も黙ったままだったから、海を呼んだ。

「もういいの?」

 部屋に戻った海は鍵を僕に返す。

「ああ、ありがとう」

「おじさん……」

「何?」

「いや、何でもない。明日もまた来るんだよね?」

「そうだね。ずっと毎日来るよ」

「分かった」

 海はプイと澪の側に行く。その背中と、澪の顔を見ながら僕は部屋を出る。

 昼間には澪からサンプルを取りに僕とチームで部屋を訪ねた。そのときには澪は僕に一切甘えた目をしなかった。出来る限りの検査を重ねて、データを集めて行った。すぐに確認されたことは、澪の心臓が弱って行っている、致死的に、と言うことだった。作ったグラフが示すのは、死の予定日。だが、澪はそのグラフの予測から三日経っても生きていた。

 その夜、僕はいつものように澪達の部屋に行った。

 澪はぐったりしていて、酸素マスクをされていた。心電図のモニターもある。

 僕がベッドサイドに行くと、視線で僕を呼ぶ。僕は澪の口元に耳を寄せた。

「今日死ぬと思う。ありがとう。さようなら」

 僕は胸から濁流が溢れそうになるのを堪える。澪の手を握る。

「僕こそ、ありがとう。さようなら」

 横では海がもう泣いていた。

 目を閉じた澪はもう言葉を発しなかった。モニターの血圧、心拍数が徐々に下がる。僕はその場を離れることが出来なかった。

「ママ、死ぬの?」

「そうだね。もうすぐ、死ぬ」

 僕は血圧が触れなくなるまで、心拍数がゼロになるまでそこで澪の手を握り続けた。

 明け方、世界が白んだ頃に澪は死んだ。海もずっと付き添っていた。


 僕はチームのメンバーを呼び出し、ラボに澪の遺骸を移して、死後すぐのサンプルを取った。やりたくなかったが、他の誰にもやらせたくなかったから、僕が解剖をした。必要なサンプルを取り、それ以外の大部分を美しいままに保った。内科医に詰め寄った日に注文をしておいた白木の棺桶に遺体を横たえた。死化粧は出来ないが、箱で他の死体と一緒くたにさせたくはなかった。僕は死体処理場の大城に電話をかけた。

「第二ラボの神屋です。とても大事な者が死んで、今日焼いて欲しいのですが、他の死体と混ぜないと言うことは出来ますか?」

「……可能です。今日の分を明日に回せば問題ないです」

「ありがとうございます。これから、連れて行きます」

 葬列を作ることはしないで、荒井だけに手伝ってもらって、運搬用の車に乗せて死体処理場まで運んだ。骨壷も一緒に持って行った。

「荒井、ありがとう。ここからは僕一人で大丈夫だから」

 荒井は僕の顔をじっと見る。

「分かりました。では」

 大城と二人で焼却炉に入れる台の上に棺桶を置く。

「じゃあ、神屋さん、棺桶ごとでいいんですね」

「はい。……お願いします」

 僕は澪が焼かれる間、二時間、死体処理場で待った。

 澪のサンプルから分かることの展望とか、さっきの解剖のこととか、ラボの人間として行動したことが最初に僕の中を流れ、その後に、澪と僕と海のことばかりがくるくると胸の中を舞った。僕はまた、涙を出さずに泣いた。

 二時間後、澪の骨が出て来た。澪よりだいぶ小さかった。

「どうしますか? いつもなら粉砕器にかけていますが」

「骨壷を持って来ました。そこに、入れて連れて帰ります」

 一人で箸を使って骨壷の中に澪を入れていく。半分以上が灰になっていて、その灰もちりとりのような器具を使って入れた。骨壷は澪でいっぱいになった。大城に礼を言って、焼却炉を後にする。

 死体処理場の外に出ると、空が静かに青かった。今まで知ったどの空よりも広い。いつか澪が海を妊娠中に腹を抱いていたのと同じように、僕は澪を抱いている。軽いのに重くて、澪の体温を感じる。僕の息が震えている。澪の研究についてやるべきことはたくさんある。だが――

 不意に、澪の笑顔が声が聞こえた。

 腕の中の澪の上に雫が垂れた。三つ、四つ、たくさん。

「そうだよな。澪、そうだよな」

 僕はぐしゃぐしゃの顔のまま、一歩を踏み出す。

                                   (了)

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火葬のように 真花 @kawapsyc

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