小説が小説じゃなきゃいけない理由は、小説でなくては体験し得ない読書体験があるからだと考えている。
それは、ストーリーとかキャラクターとかテーマとか問いとか、技法とかを部分として持ち、その総体として存在する、はず。
そして最近思うのは、短編でするのと、中長編でするのでは、発生させられる読書体験に違いがあるのではないかと言うこと。
私が体験した一番強烈なのがハンガンの『少年が来る』の読書体験であり、これは他の媒体では決して味わうことの出来ないものだと確信している。でも、誰にとってもそれが起きると言うことはないとも理解している。鍵と鍵穴のように、今の私には当たった。去年の私じゃたぶんダメだし、来年でも分からない。そしてハンガンがそれを狙ってやったとも思えない。彼女は最高の作品を書いた、だけなのだと思う。実際、他の作品ではそこまでの読書体験は起こらない。
目指すは『少年が来る』レベルの読書体験だ。
これは短編では違うものになるから、中長編でやりたい。
やり方としては最高の小説を書く、それしかない。先述の通り、読み手にとって読書体験になるかどうかは組み合わせの問題だし、その方向性をこちらで定めることは出来ない。でも確実に言えることは「いい作品」を作らなくては、読書体験になる確率はだだっと下がるだろうと言うこと。
だから、中長編でいい作品を作りたい。
でも、短編でも、いい作品なら、別の形での読書体験の種になり得る。
どっちだ。
私は真剣だ。
休日の大半をこれをするために使ってを繰り返している。
私は真剣だ。
大量にボツを作っている。創作ノートは文字だらけだ。
私は真剣だ。
と、
突然、プツン、と切れた。
頭の中に浮かぶアホなストーリー。
アホなことを考えるのは元々好きではある。
でも、噴水のように、アホなストーリーが。
読書体験は?
いいや、今は。
無心でアホな小説を書いた。
でもね、それだって読書体験になるかも知れないんだよ?
それ以前に、人をハッピーにするかも知れないよ?
そうやって生まれた「次世代ウォッシュレット開発会議」
https://kakuyomu.jp/works/2912051606690058486