短編小説が生まれるその根っ子は三種類ある。
一つは、最初に「書く衝動」があるとき。
とにかく、小説を書きたいのである。でも、何を書くの? と言うところからの始まり、そこからうんうんとアイデアを出してはボツにすることを繰り返し、いずれこれで行こうと決めたものを練って練って、ボツにしたり採用したりして、短編が生まれる。どこか食欲や性欲にも似たもので、満たしてもしばらくするとまた衝動が生まれる。短編になりやすくて、長編では衝動を満たすと言う感覚は薄い。
一つは、最初に「書くこと」があるとき。
ポッと降って来た「素晴らしいアイデア」、生活の中で体験したことが昇華されるのを今か今かと待っている、暖めていたアイデアが十分に熟成されて顔を出した、などのとき、「書くこと」が先に立って、それに引っ張られるように書く。短編のときもあるし、長編のときもあるが、短編が多く、長編の場合はむしろその「書くこと」を決めるまでが長い。
一つは、副作用としての短編。
長編の場合に「書くこと」を決めるための作業? 積み上げ? をするのだが、その過程で副産物と言うよりも副作用として発生するテーマがある。これを解消しないとその長編は書けないから、解消するためにはそのテーマで短編を書くしかない。必要に迫られて書く短編であり、副作用そのものだ。これが長編になったことはない。
以上の三種類の成因で私の短編は生まれている。
今日このことを書いたのは、「バンドエイド」が本当に純度100%の副作用だと感じたからなのです。
読み手にとっては物語の出自なんてどうでもいいことかも知れないが、書くのにはそれなりの理由がある。でも、そんな理由なんて、それはそれとして、読み手にとって打撃になるような作品が書きたいと、そうなれ明日の私、と祈るのです。