本文に先立って、この前三時間だけ晒した近況ノートについて。
創作ノートの一部を転載するという、酔ってました。酒は飲みません。自分に。
深夜にそんなことをして、明け方に目が覚めて、慌てて消しました。人様に見せるべきものじゃなかったです。
でも、内容についてはそのときと同じです。それは「ここに書かなければならないと思う」から、今から書きます。
書きたいものを探して、書けば、いつかはすごいところに行けると信じていた。
それは明文化されたことはなかったけど、そうじゃないと分かった今は、盲信していたと把握出来る。
そうじゃないのだ。
分かった理由は、向かいたい方向が、ゴールとするものが見えたから。
そのゴールは、今のところ漠然とした表現しか出来ない。
「訳が分からなくてもいいから、ドッカーンと読み手にあたって、それじゃなきゃ体験出来ない体験と言う形で、影響を受ける」
でも、私の中ではそれはとても具体的なものなのだ。手に取れるみたいに。
その手触りが教えてくれた。
好きに書いているだけじゃ、そこには到達しないよ、と。
天才を定義するなら、好きにやったものが向かうべきゴールへの最短距離を走る、と言う者だろう。私は違うみたいだ。
永遠に時間と言葉があるのなら、迷走を続けてもいつかはゴールに到達するかも知れない。けど、しないかも知れない。そんな時間は持ってないし、今の私には迷走はゴールに到達しない、どこか誤った場所に行くだけの行為に見える。
好きに書くのは、コンパスなき、迷走と似ている。本当に迷子にはならずにどこかには至りそうな感じだけは違う。その感じだけを頼りにすると本物の迷子になる。
と言うか、なっていた。
だから、教育が必要だ。
誰も私を正しい道には連れて行ってはくれない。
他の人にとって正しい道が私にとって正しいことは恐らくない。
自分で正しさを設定しなくてはならない。自分で道を決めなくてはならない。
そして、その道を歩むように自分を持っていかなくてはならない。
それは盆栽の枝の向きを決める針金のようなものだ。進んだところが形になるから。
その道を進むにかなう作品を作らなくてはならない。
分かったのだから、あとはやるだけ。大変そうだけど、後退はあり得ない。
やるぜ。
そして、教育をすることを表明することで、自分がそれをやる根拠の一つにする。
でも、たくさん「そうでないもの」も書く予定。
だって、書きたくなっちゃったものって出て来るし、道を規定することで初めて「逸脱」が検知される訳で、それはそれで面白いことだから。「逸脱」を知ることで「道」を知ることに、なるから。
やるぜ、教育。