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ない訳ではない才能。

やっぱり自分に小説の才能があるのかとか考えることはある。
才能とは、何かをするのに適した能力がセットで秀でていることだと思う。いくつかの能力の組み合わせと言うことだ。
それは、生まれつきのものもあれば後天的に獲得するものもある。
何かを始めようと思ったときに、その能力のセットを持ち合わせているかと言うことが「初期」才能と言えよう。だが、何かをやっている内に伸びるものもあるから「最中」才能は変化成長しうるものだと思う。
加えて、成長のしやすさと言うのも能力の一側面としてあり、「成長の速度」「能力自体の強さ」の二軸で能力を評価するのがよいと思う。
しようとしている何か、のベースに能力は使われ、いずれカスタマイズされて行く。

それが、あるのか、ないのか、と言うのを知りたいと思ってしまう。
じゃあなかったからって、書くのをやめるかと言われれば、そんなことはない。

私自身として、運動や音楽は才能がないと言える。どっちも十年以上取り組んだ結果だ。伸びが悪いし、自分の持っている能力のセットと合ってはいなかったようだ。

小説の中で、コメディを書くことがあるのだが、これは微妙で、少なくとも、純文学を書くのより劣っているのを感じる。

で、肝心の純文学についてはどうかと言うと、才能がない、と言う感じはない。じゃああるか、と言うと分からない。多分、行くところまで行ったときに初めて、あった、かそうじゃなかったかが分かるのだと思う。「初期」と「最中」を自分で見ても分からない。

才能がない訳ではない。と言うのは曖昧さがあるが、福音でもある。
きっとある、と信じて書くことが出来る。
なくても書くけど。

4件のコメント

  •  こんばんは。

     お話を伺って連想したのは、フランスの社会学者ブルデューが『ディスタンクシオン』という本で書いて注目された、ハビトゥス(物事に取り組むときの構え)や文化資本といった概念のことです。僕は原書を読んだことがなくNHKの番組でしかブルデューのことを知りませんが、一応そんな僕なりにざっくりとだけ解説させていただきますと、一般的に「才能」と考えられているものは、親から子へ、子から孫へと受け継がれる或る種の「文化」なのではないか、という議論です。これが、「幼少期にピアノを習ったことがある子供は、元気に外を走り回りたいという欲望を我慢し、椅子にじっと座る経験を積んでいるので、学校教育や受験で学力を競う際にも有利だ」という話につながってきます。このとき、「ピアノを習ったことで(結果的に)『座学の才能』が培われた」と言えるわけですが、人生にはこういったことが何十、何百とあって、それらが一般的な意味での「才能」を形成している、というのがブルデューの議論です。
     NHKの『100分de名著』という番組でも取り上げられた話ですし、そのテレビテキスト(100ページ余りの薄い本)を読んでいただくのがおそらく最も手っ取り早いのですが、諸々の事情で手が出ないかもしれませんので、ネットで見つけた解説記事のリンクも貼っておきます。

    NHK「名著104「ディスタンクシオン」:100分de名著」https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/104_distinction/index.html

    Spaceship Earth「文化的再生産論とは? 及ぼす影響や問題点」https://spaceshipearth.jp/cultural_reproduction/#:~:text=%E3%81%93%E3%81%AE%E3%80%8C%E6%96%87%E5%8C%96%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%80%8D%E3%82%84%E3%80%8C,%E8%B3%87%E6%A0%BC%E3%81%AA%E3%81%A9%E3%82%92%E8%A8%80%E3%81%84%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

     Spaceship Earthの記事は僕から見ると分かりにくいので、ざっと読んで分かる部分だけ流し読みしていただければ、ひとまずそれで良いと思います。結局、文化資本という概念について理解するならブルデューの『ディスタンクシオン』に挑戦するしかないという話になってきますが、真花さんの目的はそこではなく、真花さんご自身について考えることだと思いますので、こういったものは所詮、「どうやらそういう方向から考えることもできるらしいぞ」くらいに考えてもらえればと思います。
     全部知っている話だったらすみません。
  • 一流か二流か三流かを分けるのは、『練習時間と練習の質だけ』だそうです。
    質の高い練習を長期間に行うことによって、脳は最も変化します。
    どの分野で成功するにも、長年にわたる途方もない努力が必要です。

    正しいやり方で努力をすれば、誰でも一流になれる可能性があるということです。

    例えば筋トレは、ゴール設定、正しいやり方、適切な負荷、フィードバック、食事が重要です。脳のトレーニングも同様です。

    具体的な理想の姿と、現在の自分のギャップを明らかにします。
    居心地のいい状態は同じことの繰り返しという停滞と衰退を招くため、すぐに抜け出るようにします。
    ギャップを埋めるためのインプット、アウトプット、フィードバック、その繰り返し。
    プロでも練習は楽しくないので、集中して短時間で全力を心がける。
    学習が頭打ちになり、停滞する時期がきたら、手法の工夫によって克服したり、自分の躓きを明らかにするために探求したり。
    適した教師を頼るのもいいです。
    コーチの指導を受け、理想に近いところまで辿り着いた後、さらにコーチングと自らの高レベルな心的イメージ、そのギャップを埋める絶え間ない努力します。

    経験が豊富で最先端を走り続けている人は、心的イメージの持ち方、正しいフィードバックの得る方法、頭打ちを打ち破る引き出しを持っているから強いのです。
    コーチや指導をしてくれる教師は、持つべき心的イメージ、理論、フィードバック、躓いた際に乗り越えるための手法を持っているので、相談しましょう。
    教師がいない場合、構成要素を分解し、最小で具体的な課題を見つけて集中して取り組みます。
    自身を客観的に分析して原因を発見します。
    改善策を考案し、取り組みます。

    大事なのはモチベーション。
    意志の強い人などいません。
    継続する理由を強め、続けられない理由を弱くします。
    決まった時間を設け、外的要因を排除します。習慣であり、義務であるという意識が必要です。
    一流ほどスケジュールを明確にし、良く寝て体調を整えています。
    練習するうちに辛さに慣れます。

    今のところ、人間の能力に限界は見つかっていません。
    才能は伸ばせます。
  • あじさいさん

     文化資本と言う考えは知らなかったので興味深く読みました。
     親が何であるかと言うより、子が与えられた環境が主に影響力を持つと思われます。もちろん親が何であるか(上流なのか大衆なのか)で子に与える環境が違うのが「平均的には」そうで、だから階級が結果的に文化資本になるでしょう。では、親が無理をしてでも「上流階級的な」環境を子に与えたら子供の文化資本は養われるのでしょうか。養われるように思います。親ではなく社会、国とか、がそれをすることも可能なんじゃないか。義務教育の一歩先がそこにありそうです。ただ、全てのものを子の環境に入れるのは器の限界があると思います。そこで何を選ぶかが親や国の教育方針だと言えます。
     つまり、親の階級と環境が一対一対応ではなくて、そこに介入の余地があるのではないかと考えたのでした。
     これを発展させると、子供に付与したい素養をアラカルトで親が選んで、環境を設定する、と言うことが未来では起きるかも知れません。ちょっと社会学的SFみたいでわくわくします。

     新しい風を入れて頂いて、面白いを感じています。
     
     コメント、ありがとうございました。

    真花
  • snowdropさん

     コメントを最初に読んだとき、正直に言います、「本当か?」と思いました。
     そこで、もう一度読みました。
     筋トレが例になっていたために、スポーツでイメージして読んでいたのですが、多分それは間違いで、むしろ小説を書くことについて適応される話なのではないかと解釈しました。

     モチベーションが大事であること。
     人間の能力に限界は見つかっていないと言うこと。
     才能は伸ばせると言うこと。

     めちゃめちゃ強烈なエールじゃないですか。

     教えて頂いた方法を自分の努力の仕方に取り入れてみようと思います。

     コメント、ありがとうございました。

    真花
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