三、荒井和也

三、荒井和也あらいかずや


 ラボミーティングが終わった後、神屋かみやチーフに呼び出された。ミーティングルームからはスタッフがさかさかと抜けて行き、僕と神屋の二人だけになった。特に叱られるようなことはしていないはずだ。そう思っても、身が固くなる。

「荒井君、最近の様子を見ていると、ますます責任感強く、正確に作業をしているようだね」

「いえ、いや、はい。一生懸命やっています」

「それで、今度一つ重要な仕事を頼みたいのだけど、内容を聞いてからでいいから、やれそうか教えて欲しい」

「分かりました」

 窓からは西陽が射している。神屋がちょうど逆光になって、表情が見えない。だが、声は僕を責める調子ではない。

ひいらぎ君が前にやっていた仕事なんだけど、彼、退職しちゃったじゃない。だからぽっかり空きになっているんだ。その仕事と言うのは、病院で摘出された卵巣を、生体培養出来るような状態を維持したまま、第二ラボに運ぶ、と言うものだ。間の移動は車を出す」

「じゃあ、ノウハウは既にあって、やることは確立されているんですね?」

「そうだね。特別手当も出す。ただし、絶対に失敗してはいけない」

「失敗の出来ない作業は毎日やっています」

 神屋は一拍置く。

「出来そうか?」

「出来ます。抜擢ですよね」

「そうだね。抜擢だ。必ずシミュレーションを実際の道具を使って行うように。最初の本番は一週間後だから、それまでに練習を完成させておきなさい」

「分かりました」

「以上だ。よろしく頼むよ」

 僕はミーティングルームを出て、早速練習をしようとして、道具もルートも全然分からないことに気付いた。安請け合いだったのだろうか。いや、そんなことを考えている暇はない。もう受けてしまったからには完遂するしかない。柊の残して行った資料を漁ることからリスタートすることにした。物理的な資料ではなく、パソコンの中だ。

 すぐに、卵巣の運び方のマニュアルを見付けた。分かり易くデスクトップの真ん中に「重要申し送り」と書かれたファイルがあり、それを開いたらマニュアルが残されていた。

『卵巣の運搬方法』

・携帯型の恒温槽に神屋チームで作成している培養液を入れ、手術室で卵巣が摘出されるまで待機する。

・卵巣が摘出されたら恒温槽内の培養液に卵巣を直接落としてもらい、すみやかに第二ラボに移動する。

・その際車を使用し、運転はベテランのつじが行う。

・第二ラボに到着したら、神屋に恒温槽ごと渡す。

 焦って転ばなければ問題なく出来そうな内容だ。だが、万全を期す必要がある。生体から取る臓器は希少であるだけでなく、とてつもない金がかかっているのが普通だ。一日に一回、練習をすることにした。

 神屋チームと手術室にその旨を連絡して、承諾を得た。

 まず実際に使われた恒温槽を第二ラボで受け取り、そこに培養液を入れた。所定の温度になるまでに思ったよりも時間がかかった。本番では目的の温度に必ず達している状態でないといけないから、手術の開始時間から逆算して温める必要があることが分かった。

 恒温槽は思っていたよりも重かった。だが、一人で持ち運べないような重さではない。手術室に行くまでの時間も長めに取る必要がある。

 実際に運んでみて、運びながらの徒歩だと三十分かかった。よりによって敷地内でも遠い距離に第二ラボと手術室はある。行きにも辻に運転を頼むことに決め、練習の二日目からは付き合ってもらった。車だと五分だ。

 手術室には恒温槽を置けるスペースがあった。十分に広いので、蓋を置く場所もある。清潔なシートを敷いて、蓋を置くことにした。片手で蓋、もう片方で恒温槽と言うスタイルは避けるべきだと考えた。

 手術室から出るルートを確かめて、当日には辻に出口付近で待機してもらうことにした。元々そうしていたらしく、辻は嫌な顔はしなかった。

 第二ラボに戻ったら、神屋に直接渡す。それで完了なので、練習でもいちいち神屋に渡した。

「熱心だね。本番も頼むよ」

「はい。全力を尽くします」

 僕は自信を組み上げた。一週間後、本番の日が来た。

 九時から手術と言うことで、七時半には恒温槽を温め始めた。

 八時半に辻の車に乗り、手術棟まで行き、手術室でスタンバイをする。

 人間の手術なんて見たことがない。だが、似たようなものを解剖することは日常的なことだから、あまり抵抗を感じなかった。

 九時になり秋田医師が執刀医となって手術が始まった。腹腔鏡での手術だ。

 一時間半程度経ったとき、秋田医師に呼ばれた。

「培養液、構えて」

 僕はすみやかに蓋を取り、早足で秋田医師のそばに恒温槽を構える。

「はい」

 培養液に卵巣が落とされた。肌色と赤がぬめっている。

 僕は元の場所まで戻り、蓋をする。手術室を出る。

 十数グラムであろう卵巣なのに、恒温槽がずっしりと重くなった気がした。決して転ばないように一歩一歩を踏み締める。エレベーターに乗ったとき、膝が震えていた。大した距離ではない、間違いなく歩くことに集中する。

 辻に近くで待っていてもらってよかった。ドアは開いている。僕は後部座席に乗り込む。膝の上に恒温槽を乗せる。外から触れていても少しだけ暖かく感じる。辻がドアを閉めて、運転席に座る。

「お願いします」

 辻は、了解しました、と言った後何も言わずに車を走らせた。僕と辻の間の空気がどんどん緊迫していく。もう少しで呼吸を侵されそうになるところで、車は第二ラボの前に着いた。辻が回り込んでドアを開ける。

「ありがとうございます」

 それだけ言って、僕は第二ラボの中に踏み込んだ。辻との間で育てた緊張の全てを僕はまとい、第二ラボの中をゆっくりと進む。

 周りの視線も誰の存在も分からない。歩くことだけに集中する。

 予定の距離を踏破したら、神屋が待っていた。

「神屋さん、卵巣です」

「お疲れ様」

 神屋はすぐに恒温槽を持って奥に向かった。本格的な恒温槽に入れたり、何らかの処理をしたりするのだろう。渡したと同時に張り詰めていたものも神屋に行って、取り残された僕の一切が虚脱した。その場でへたり込みそうになるのを耐えて、自分のデスクへ行く。席に就いたら全く動けなくなった。頭の中だけが意志と関係なく回転する。

――ミスはなかったか?

 大丈夫。これと言ったミスはなかった。それに目的は果たしている。

――改善点は?

 特にない。強いて挙げるなら、このミッションの後はスケジュールを開けておくべきだった。今の僕はちょっと使い物にならない。

 仮眠室に行こうか。予定していたゲノム設計は集中力も発想力も必要な仕事だ。こんな状態でやるべきではない。いや、だったら今日はもう帰ろうか。足りない分は休日に出ればいい。

 手の中に卵巣の重みが蘇る。あの中にいくつもの命の種の半分が詰まっている。提供した人はあの卵巣が何に使われているのか知っているのだろうか。僕達がその人を知らないように、その人も使用目的を知らないかも知れない。……知らない方がいい。僕達は命を汚している。汚れた命を売っている。

――悔いはしないの?

 これは面白い仕事だ。他では出来ない。

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