二、秋田英治
二、秋田
医局に戻るとストライプレターが机に届いていた。席の位置からして、内容を覗かれる心配はないので、僕はすぐに封を切った。ストライプレターの二色は肌色と黒で、人とそうでないものを表現しているらしい。日常業務は比較的暇だが、レターが来たときだけはエクストラで仕事をしなくてはならない。だが、それを込みで高い給料を貰っているので文句はない。レターの内容を確認する。
『青木智子
十六歳女性
健康診断では異常なし
卵巣一つ(左右は任意)摘出、腹腔鏡
生体培養用
術前検査七月○日
手術日七月×日』
手帳を確認する。予定が一つ入っていたが、それをリスケする。ストライプレターに記された予定は全てに優先する。それはこの病院と僕が交わした契約に含まれるものだ。
手術の前日、術前検査の日、僕と伊藤は初めて青木に会う。青木は何も患っていないので患者とは呼ばない。被術者と呼んでいる。臓器を売る心性は正常とも言い難いが、ここは婦人科だからそこには立ち入らない。術前検査の婦人科領域については僕がするが、そのときには挨拶程度しかしない。人間が検査をしている実感がない方が気持ちを楽に検査を受けられるからだ。僕が僕の顔を出すのはインフォームド・コンセントを手術について取る段階でだ。
面談室に青木に入ってもらう。僕の後ろには伊藤が立っている。
青木が入室すると同時に僕達は立つ。青木は背が少し高く、若さが漏れている。後ろには鈴木が付いている。僕は会釈をする。
「こんにちは」
青木が、こんにちは、と返す。
「婦人科医の秋田と言います。確認のため、フルネームでお名前を伺ってもいいですか?」
「青木智子です」
「ありがとうございます。おかけ下さい」
青木が座るのを待ってから、僕も座る。僕は予め説明を印字した複写式の紙を青木の前に置く。術式や、合併症のリスクを説明する。もう何百回としている説明だ。青木は頷きながら聞いていた。もちろん、生体培養をすることは言わない。
「何か質問はありますか?」
青木は何かを言いたそうな顔をしている。
「いえ」
「ではこの内容でよろしければ、ここにサインをお願いします」
「分かりました」
青木がサインをするのをじっと見守る。完了したら、複写の一枚を剥いで青木に手渡す。
「ありがとうございます。以上です」
僕は鈴木に目をやって、鈴木はそれに呼応して青木を先導して面談室を出て行った。
ドアが閉まる。その音が消えた途端に伊藤が潜めた声で言う。
「十六歳で卵巣を売ろうって、どう言う気持ちなんでしょうか?」
「さあね。僕達がすべきことはちゃんと手術を行うことだよ。被術者の考えとか素性とは関係がない。見るべきは体であって、心じゃない」
「それは、……そうですけど。秋田先生は、お金積まれたらキンタマ、半分売りますか?」
僕は振り返る。伊藤は肩を竦めて見せる。
「値段によるかな。伊藤君はどう思うの?」
「絶対に売りません」
「まあ、そう言うと思ったよ。僕達は普通に生活出来る以上の稼ぎがある。被術者は大方、金に困っている筈だ。金が余っている状態と、金が足りない状態では、金の価値も臓器の価値も変わってくるんだろうね。そう言うところを突いて、卵巣を手に入れているんだよ、施設は。僕達はその機能の一つに過ぎない。体だけを見なくてはならない」
「でも秋田先生、病気もない人体にメスを入れることに躊躇はなかったですか? 今はもう先生も私も慣れていますけど、私は最初の日は迷いました。人の体に傷を付けていいのは、それを上回るメリット、主に病気を治すこと、がある場合だけだと思っていましたから」
「ストライプレターの被術者についてはそれには当てはまらない。分かっているだろう? 僕達がしているのは医療の技術を使った、医療ではないものだ」
伊藤は小さく頷く。自分を省みるように。
「分かっています。体を見て、それに手術をすることにはもう疑問はありません。これが医療じゃないことも分かっています。最初にあった葛藤も、ここに就職した時点で消すべきものだったですが、それでもあったものも、手術を繰り返す内にほどけて消えました。だからそこじゃないんです。十六歳と言う若さで、卵巣を売る、あの子の気持ちが分からなかったんです」
「僕達のするべきことが全部分かった上でなら、一考に値するかも知れない。でも、僕達には永遠に到達出来ない気持ちだと思うから、本人に直接訊くしかないだろう」
「でもそれは禁じられています。手術に必要最低限以上の接触はしてはいけない。私はそれは妥当なルールだと思います。彼女が患者だったとしても、そのルールを適用させることに賛成です。だから疑問は疑問のままになってしまいます」
僕は伊藤の顔を見る。雑談のための雑談で言っているのではなさそうだ。
「どうして、今日に限ってそんなことを言うんだ?」
伊藤は目をくすませる。
「私が、最初に助けられなかった患者とそっくりなんです。彼女は死にたくなかったのに死にました。もし、彼女が生きていたら、卵巣を売るなんてことを考えるのか。そんなことを思っている内に、青木さんの気持ちに気が行ったのだと思います」
「そうか。だとしたら話してくれて正解だ。手術中に迷いがあってはいけない。ここで払拭して、体のことだけに意識を向け直そう。僕達は職業で手術をしているんだ。職域を越えてはいけない。それをしっかり肝に据えよう」
「分りました。そうですよね。昔の患者に似ているなんて、雑念でしかないですよね」
「そうだね」
「青木さんの気持ちは、永遠に分からない。今、そう決めました」
僕は頷いて、立ち上がる。
「それじゃあ、明日、よろしく」
「はい」
面談室を出て、医局に向かう。伊藤は病棟に顔を出すらしい。
――気持ち、か。
窓の外はまだ明るく、遠くに施設がいくつも見える。あそこで使われるために卵巣を取り出す。僕は手を汚している。医療のために得た技術を別のことに使っている。
――僕達が見てはいけないのは被術者の気持ちではなく、僕達の気持ちの方なのだろう。
僕はそれ以上自分の中に立ち入らないようにして、医局で自分の席に少し座ったら、もう帰ることにした。他の科の医師は既におらず、誰にも挨拶をしないで病院の外に出た。車に乗り、施設に併設されたマンションに五分で行く。敷地外に出ることは禁じられてはいないが、手術の前の日は外出はしないことに決めている。いつもより多めに寝るし酒も飲まない。僕の存在意義は手術のクオリティだけだから、それを高めるためにそうしている。
手術当日。そう言えば別れた妻に、毎日手術ばかりしていて飽きないのかと、市民病院に勤めていた頃に言われた。今は手術が毎日ではない日々を送っている。僕は、手術が好きだから苦痛はない、と答えた。妻は理解が出来ないと言った。別れた原因の一つにはなっているだろうが、全部ではない。だから、妻は今はいらない。さようなら。
雑念を片付ける最適な方法は、結論を付けて、別れの言葉を言うことだ。僕は手術室に妻を連れて行かない。
手洗いをして、術衣を着る。手術室では青木に麻酔がかけられて、伊藤が待っている。緊迫はしていないが、ピリリとした緊張感がある。僕は所定の位置に立つ。
「これより、青木智子さんの左卵巣摘出術を始めます」
普通の手術と違うのは二点。青木が健康であることと、検体を培養液に入れることだ。だから、通常の手術ではいない、培養液を構えるためだけの人物が手術室の端の椅子に座って待機している。目的が卵巣なので、この場で一番重要なのはその培養液なのだ。
腹腔鏡を刺し、左の卵巣を同定し、血管を処理して、摘出する。
「培養液、構えて」
「はい」
口を開けて待つ培養液に青木の左卵巣を落とす。手術室に似つかわしくない、水の音がした。培養液を持った人物はすぐに手術室を出る。本格的な培養にすぐに回すためだ。だが、その培養した卵巣が何に使われるのかを僕は知らない。新鮮さが何よりも大切だと言うことへの説明でそこまでの範囲を聞いただけだ。
僕達は卵巣のあったところの出血がないことを確認して、腹腔鏡を抜く。抜いたところを縫合する。腹腔鏡を抜いた辺りから、少し気持ちが弛緩するのが分かる。だが手術は終わっていない、気を入れ直す。
「問題なし。終了です」
麻酔科医に宣言して、麻酔から起こして貰う。
僕は青木の姿を見守る。伊藤も一緒に見守る。
いずれ、青木は麻酔から覚醒した。後になったら本人はまず覚えていないが、やり取りをすることが可能になる。
「青木さん、終わりましたよ」
「あ、はい」
僕はスタッフに向かって声を上げる。
「じゃあ、終わりで」
青木はストレッチャーに移されて、手術室を後にする。伊藤が手術棟から病棟まで付き添うために先に着替えに行って、それまでの間は僕が付き添う。青木はぼーっとしたかと思うと、キョロキョロと周囲を見回したりする。
合併症が起きないかの観察と、回復のために数日間入院を継続したら退院をする。そこも大事だが、僕の存在意義の中心は送り出したこの瞬間に全うされる。僕は、青木が手術棟を伊藤に付き添われて出て行ったのを見送って、誰にも分からないくらい小さく、頷いた。それは完了のサインで、その瞬間から僕は通常業務の自分に戻る。
術後の経過観察や指示については伊藤に任せている。だから、普段術後の患者や被術者に僕が会うことはない。だが、術後一日に看護師から「青木が僕に会いたがっている」と言われた。理由は、「直接会って、お礼がしたい」とのことだった。
卵巣を取る機能である僕だが、青木の気持ちを蔑ろにする訳にはいかないと思った。
もしこれが術前のことであったら、何か理由を付けて断っていただろう。だが、僕の果たす役割は既に終わっているから、僕の手術のクオリティには影響がない。この点からも、会っていいと結論付けた。
青木の病室は最上階の特別室だ。エレベーターで滅多に押さない階を押すのには、未知のものに触れるような抵抗と感触があった。僕は努めて普通の顔をして、エレベーターから出て、ナースステーションに向かった。看護師から申し送りを受けた後に、病室へ歩を進めた。
個室なので、ドアをノックする。
「はい」
開けると、ベッドに青木が寝ていた。
「秋田です。僕と話がしたいと伺いました」
僕はベッドの脇に立つ。
「わざわざありがとうございます」
「傷は痛みますか?」
「そこそこ。我慢出来る程度です」
「それで、話と言うのは何でしょうか?」
「直接、お礼が言いたかったんです。私のために手術をして下さり、ありがとうございます。こうやって無事生きていますし」
「いえ。仕事ですから」
「私の卵巣って、何に使われるんですか?」
「それは知りません。知っていたとしても言えませんよ」
「ですよね。何にも分からない。だから、唯一現実として出会っている先生に、こうやって関わりたかったのだと思います。私のことをどうするのも先生の立場だったら出来たのを、約束通りにして下さった」
「契約以上のことはしません」
「卵巣……片方は残っているんですよね?」
青木の目が初めて濁る。
「もちろんです。一つと言う契約です。片方あれば月経も多少不順でも来るし、妊娠も出来ます。それが心配だったんですね」
青木は頷く。涙の雫が垂れそうだった。
「はい。何もかもが分からないことばかりで、もしかしたら卵巣を両方取られてしまっていたらと思ったら、不安で、不安で」
「しばらくしたら月経が来ます。それが証明です」
「ありがとうございます」
「他には何かありますか?」
青木は虚空を見つめる。その横顔にはまだ子供の影が残っている。
「大丈夫です」
僕の脳裏に、伊藤が言っていた「気持ち」のことが過ったが、今の青木を見ているとそんな過去のことを訊いてはいけない気がした。
「では、失礼します」
「本当に、ありがとうございました」
もう二度と会うことはない。それでも、青木の不安が一つ解消されたことに僕は満足していた。エレベーターを下り、医局の自分の机に就く。次のストライプレターはまだ来ていない。
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