一、青木智子(後)

 検査から二週間後、十時。小谷がやって来て、この前と全く同じ位置関係で座る。今日はお土産はなかった。代わりに、大きなカバンを小谷は持って来ていた。

「早速ですが、結論をお聞かせ下さい」

 私は頷いて、身を乗り出す。

「卵巣を渡すのはいいのですが、報酬をもう少し上げて欲しいです」

 小谷は前回から通じて初めて、目で笑った。

「きっとそう仰ると思っていました」

 小谷はカバンを開ける。そこから、札束を取り出して、ちゃぶ台の上に積み始めた。

「ひと束百万円です。……これで一千万円」

 みるみる二つ目の塊が出来る。

「二千万円。……これで三千万円。目の前にしてみてどうですか? これで足りませんか?」

「足りません」

「そうですか」

 小谷は五百万円を追加する。

「これでどうです?」

「足りません」

 小谷はさらに五百万円を追加し、塊が四つになる。

「これでどうですか?」

「足りません」

 言いながら、金の圧力がぐっと増したことを感じた。小谷が既にある塊の上にもう五百万円を積む。

「どうでしょう?」

「足りません」

 小谷は文句を言わずに五百万円を追加する。

「これで五千万円です。どうでしょう?」

 私は金に圧倒される。急に、こんなに貰っていいのかと言う考えが浮かんだ。

「ちょっと考えさせて下さい」

 ママが私に囁く。

「これ以上は無理よ。諦められたら全部がパァよ」

「ママ、うるさい」

 私の取り分は三千万円だ。ママにも二千万円入る。……金がそこに積まれていることによってだろう、呼吸がし辛い。小さくめまいもする。たくさんお金は欲しいが、これ以上の金は私には無理なんじゃないか。圧迫が強過ぎる。

 私は生唾を飲み込んだ。

 その音が金の山の上を舞って、金の上に落ちた。

 息の詰まるような沈黙が私を襲う。私以外の二人が私を見ている。

 私の鼓動が限界を伝えて来る。金に注いでいた視線は金に弾き返されて、私は敗北を察知する。

「十分です。……これで」

「分かりました」

 小谷はカバンから契約書を出して説明をする。私はそこにある金の気配で半分上の空で小谷の話を聞き、それでも前に話されたことと違いがないことを確かめて、サインをした。

「ありがとうございます。これで契約成立です。では、夏休みの初日に迎えに来ます。私が伺います。施設まで一緒に行って頂き、手術を受けて頂きます。もちろん、術後の回復も施設で行います。お母様にはホテル設備もありますのでそこに泊まって頂き、回復後、またこの家まで送り届けさせて頂きます」

 小谷は現金でこのまま置いて行くのと、口座に振り込むのとを選べと言い、私は現金の威力に耐えられそうになかったので口座振り込みを依頼した。ママもそうした。片付けられる現金に一抹の寂寥感を覚えた。


 施設へ行く当日の朝、小谷と運転手が迎えに来た。私達は入院と宿泊の準備を込めた大きなカバンを玄関に置いて待ち構えていた。卵巣を売ると決めたときからだって私は後悔していない。ママの方は右往左往していた。ママは金を貰うだけであって、この売買には関係がないに等しいのに、私よりも落ち着かなかった。三度、やっぱりやめたらどうか、とママは言った。その度に私は、そんなことをするなら最初から契約していないよ、とあしらった。私の考えは全く変わらない。契約をして完全に固定された。ママと私の差は、もしかしたらママは貧乏ではない時代を経験していて、私は清貧とだけ生きて来たからだと言うことはあるのかも知れない。貧しさから抜け出すことへの最後の一歩の踏み込みの甘さが、この違いから生まれているのではないか。

 だからなのか、現れた小谷達にママは、お茶はどうですか、と申し出た。いえ結構です、すぐに出発します、と小谷に断られてしゅんとしていた。私はママの背中を叩くように押して、カバンを運ぼうとした。すぐに小谷と運転手がカバンを受け取り、車のトランクに入れた。私達は後部座席に並んで座り、車は空港まで走った。

 飛行機はビジネスクラスで、まるで自分が価値のある人間であるかのように扱われた。ママはそれで気持ちよくなっていたが、私はこれが私の卵巣へのおもてなしであることに気付いていたせいで、なるべく普通の人間のように振る舞った。だがもし、この待遇が今後も続いたら、私も勘違いしてしまうかも知れない。それは何よりもみっともないことだ。

 空港に到着したら、やはり高級そうな車に乗せられた。小谷がアイマスクを持って来た。

「申し訳ありませんが、施設の場所がわからないように目隠しをさせて頂きます」

 私達にそれを断る牙はもうなくて、分かりました、と目を塞いだ。

 車はスムーズに進んでいるようだった。小谷も運転手も、こちらから何かを言わない限りは黙っていた。


 車が止まった。小谷の声がする。

「到着しました。智子さんは直接入院して頂きます。お母様は付き添われますか? それともホテルにもう行きますか?」

 ママは少し考える。

「付き添うって、何をするんですか?」

「特にないです。待っているだけですね」

 私はママがちょろちょろいることが煩わしく感じるだろうと思った。そこにいてくれる安心感はあまりない。

「ママはホテルでのんびりしていてよ。小谷さん、手術のときはどうするんですか?」

「緊急時の判断を仰ぐことがありますので、手術室の側の待ち合いで待機して頂きます」

「じゃあ、そのときにいてくれるだけで十分だよ」

 ママはもう少し考える。

「そうするわ。今日はホテルに行くわ」

 私は車から降りて、小谷が私のカバンだけを降ろす。久しぶりの地面に私は体を伸ばす。ママを乗せた車が走り去る。目の前にはきれいな病院。見渡す景色はだだっ広くて、遠くにいくつもの巨大な施設がある。何の施設かは分からない。これから会う全ての人が教えてはくれないだろう。

「智子さん、こちらへ」

 私のカバンを抱えた小谷に付いて病院に入る。中に入っても、臭くなかった。待ち合いには誰もいなくて、受け付けのスタッフだけが立っていた。

「貸し切りですか?」

 冗談で訊いた。

「そうです」

 小谷の答えの方がよっぽど冗談だった。

 受け付けの女性と小谷が二、三言やり取りをし、すぐに個室の病室に通された。ベッドに座ると、小谷は一礼する。

「それでは、私はここで失礼します。また帰るときにご一緒させて頂きます」

「ありがとうございます」

 小谷は額を小突かれたような顔をした後、こちらこそ、ともう一回頭を下げて病室を出て行った。

 入れ替わりに看護師が入って来た。名札には鈴木すずきと書いてある。ベテランっぽい女性で、動きがシャキシャキしている。

「こんにちは。今日は術前検査をします。その前に病棟のルールを説明します。分からないことがあったら何でも訊いて下さい」

「分りました」

 病棟のルールを一通り説明されたが、疑問はなかった。病棟から出てはいけないと言うことだけ、おや、と思ったが、自分がここにいる目的を考えたらそんなものだと受け入れた。

「質問いいですか?」

「はい」

「ここは何の施設なんですか?」

「それは答えられません。今後、誰に訊いても答えないですよ」

「そうですよね」

 鈴木が冷ややかにも怖くもならずに、小谷がそうであったのと同じように、普通のこととして答えたことに、自分が巻き込まれていることの重大さを感じた。いや、自分から飛び込んだ。もう逃げられない。どうなろうとも覚悟を決めなくてはならない。

「他にはいいですか?」

「大丈夫です」

「では、病衣に着替えて、検査に行きましょう」

 鈴木に先導されて、検査室を巡る。血液検査や、MRI、健康診断のときと同じ婦人科の検査もあった。麻酔科の先生の診察もあった。検査をする人と鈴木以外の誰にも会わなかった。小谷の言う通り貸し切りなのかも知れない。

 全ての検査が終わって、最後に執刀医の先生から手術の説明がされた。秋田あきたと言う先生で、後ろにもう一人秋田よりも若い先生が付いていた。秋田は小柄な男性で、手が厚かった。不快ではないが、気持ちのいい印象は受けない。もう一人はヒョロ長い男性だった。

 腹腔鏡を刺す場所は分かったが、それ以外のことは全然理解出来なかった。かと言って、詳しく説明を求めても結果は同じだろうと思った。私に選択権があるのなら、この秋田と言う先生を信頼出来るかどうかで手術を受けることを判断するのだろうが、選択権はない。普通の手術も同じなのかも知れない。最初から説明に同意することは決まっているのだ。だからこれは単なる儀式だし、最大限意味を見出すとすれば顔合わせだ。

 私はサインをした。

 秋田は、ありがとうございます。以上です、と言って、鈴木を促して、私を退室させた。

 執刀医と麻酔科医に会ったことが、私を手術を受けると言う現実に突き落とした。

 病室に戻る。鈴木は、また来ます、と言って離れた。病衣からパジャマに着替える。いつも着ているもので寝たかった。ちゃんとしているのだろう、とは感じたが、それでも最後の夜になるかも知れない。手術を受けるなんて初めてだ。手のひらがしっとりと汗ばみ、心臓がトクトクと早足に鳴る。鈴木がトレイを持って戻って来た。

「夕食です」

「あの」

 鈴木は夕食をセットする手を止めない。

「どうしました?」

「緊張して来てて」

「大丈夫ですよ。腕のいい先生ですから。もし眠れなそうだったら、さっきも言いましたけど、早めに睡眠薬を使って下さいね」

「私みたいな手術を受けて、死んだ人って、いますか?」

「この病院ではいないです。百パーセント大丈夫です」

「そうですか。初めての手術なんです。どうすればいいでしょうか?」

「誰でも緊張はしますよ。テレビ観たりして気を紛らわすとか、ご家族と話をするとかが、一般的ですね。それで、早く寝ちゃう。消灯が九時ですから、その時点で睡眠薬を飲むのがいいと思いますよ」

「分りました。ありがとうございます」

「いえいえ」

 鈴木は出て行って、私は食事を食べる。緊張していても食べられた。ママと電話をしたいとは思わない。当然、施設外の人とは電話をさせてもらえないだろう。

 本当に卵巣を売ってよかったのだろうか。

 いや、三千万円とママに二千万円、それだけの価値はある。

 私が恐れているのはそう言うことじゃない、手術の成功失敗についてだ。腕がいいとか言われても分からない。説明をされても分からない。手術を受けている間は眠っているから何が起きているのか分からない。ここの施設が何かも分からない。分からないに何重にも包まれている。そんなものに自分の命を預ける。

 私は金のために何をしているのだ。卵巣を一つ渡すことよりも、手術の方が恐怖を伴っている。これが最初から分かっていたら、もっと上乗せ出来たかも知れない。金の威力を相殺することが出来たかも知れない。だが契約は済んでいる。それに、金で恐怖は消えないだろう。

 私はテレビをつけて、画面を眺める。バカ騒ぎが箱の中で跳ねていて、それはとても非現実的で、非日常で、日常的に非日常を流すと言うのも変わった箱だが、その騒ぎの間は考えることを止めることが出来た。飲んだことのない睡眠薬を貰った。強制的に眠ることは怖さがあったが、テレビを消した後に一人でベッドの上にいて眠れないことの怖さの方が勝った。薬を貰ってしばらくしたら眠気が脳の中に噴出して、落ちるように眠った。

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