一、青木智子(前)

一、青木智子あおきともこ


 小谷が私達の家に来たのはゴールデンウィークより少し前だった。

 私が高校から戻ると、狭い家に来客を報せる靴があった。高級そうな革靴だった。およそ、私の家には似つかわしくない靴で、それがあるという事実だけで私の胸はざわめいた。

 中に入ると男性がちゃぶ台の前に正座をしていて、ママと話している最中だった。出されている茶菓子はうちでは到底買えなそうな、男性が持って来たのだろう、美味しそうなドライケーキだった。私が喉を鳴らすと同時に二人が振り向いた。ママの顔色が奇妙によくて、同意に悪くて、赤と青を混ぜたのに白になったみたいだった。男性は知らない人で、これから結婚式にでも出られそうなくらいに、手入れのされた髪、顔、服をしていた。誠実そうに会釈をした。

「小谷と言います」

「はい」

 私は印象にたがって、すぐに名乗ってはいけない感じを覚えた。ママが、隣のスペースをポンポンと叩く。

「智子、ここに座りなさい」

 私はカバンを部屋の隅に置いて、制服のままママの横に正座した。小谷が、崩して下さい、と言うので、すぐに横座りにした。私は二人の顔を順番に見て、何が起きているのか全く分からず、ドライケーキを見た。

「どうぞ食べて下さい」

 小谷が言うのが不思議な感じがしたが、私は手を伸ばした。ママもそれを止めない。二人は黙って、私はドライケーキを食べた。生まれて初めて食べる、だが深く染み入るような美味しさがあって、世界は広いな、と思うのと同時に、お金が欲しいと思った。

 それが顔に出ていないか急に気になって、小谷の顔を覗く。小谷は森の奥の湖のように平穏な表情をしていた。顔に出ていなかったか、小谷がそう言う顔に慣れ切っているのかは分からないが、恥ずかしくならずに済んだ。私がドライケーキを食べ終えるのを待って、ママが口を開いた。

「小谷さんがいらっしゃるのは今日で二回目なの」

 私は頷く。だから何なのだろう。ママはお茶を一口飲む。飲むと言うよりも乾き切った口を潤すような含み方だった。

「小谷さんから話を聞いたとき、どうすればいいか分からなかった。でも、丁寧に説明を聞いている内に、それをやる価値があると思った。智子には悪いと思う気持ちもあるわ。だけど、そうすることが一番だし、きっとこんなチャンスは二度とないから、前向きに考えて欲しいの」

「ママ、何の話だかさっぱり分からない」

「そうね。……そうかも知れないわ。私はやって欲しいと思う――

「私が説明します」

 遮った小谷の声はママのバランスの悪い風船みたいな物言いと対照的に、深く刺さった杭のような安定感があった。ママは、あ、と言って小谷の顔を見た。小谷はその視線を受け止めてから、ゆっくりと私に向き直った。

「私はある施設のエージェントです。施設の名称は言うことが出来ません。すいません。……私達は健康な卵巣を求めています」

 卵巣と言う言葉がこの部屋に場違いに響いた。ここには確かに卵巣が四つあるが、求めていると言うのは、つまり、くれ、と言うことか。私の体が脂汗を出す準備を始めた。心臓がぐっと押されて、逃げようとするように暴れ始めた。小谷は私の動揺をなだめるようなテンポで続ける。

「驚かせてすいません。ですが、そのためにここに伺ったのです。ただ、私達が求めているのはお母様の卵巣ではなく、智子さん、あなたの卵巣です。もちろん、両方じゃないです。片方。生殖機能にある程度低下は生じますが、子供を産めない体にはなりません。一度、健康かを病院で検査はして頂きますが、それが大丈夫なら私達の施設で手術を受けて頂きます。もちろん免許を持った経験豊かな医師が行います。腹腔鏡での手術なので傷は限りなく小さいです」

 私の理解を待つように小谷は言葉を切って、じっと私の顔を見る。説明は明瞭だった。理解することと、承諾することの差をこんなに感じたことはない。何より、私は卵巣を取られるだけで何もいいことがない。私の胸の内の反論が聞こえたかのように小谷は頷く。

「対価を、支払わせて頂きます。現金で三千万円。もちろん贈与税はこちらで持ちます」

 ママはつまり、金で私の卵巣を売る相談をしていたのだ。私のいないところで。勝手に。私の視線は自然にママを捉える。ママは血の気のない顔で俯く。

「こんないい話、二度とないわ。もうこんな生活嫌なの。智子と二人で暮らすなら、三千万円あればずっと余裕がある生活が出来る。いずれ智子は独立するでしょ? そうすれば残った分だけでも私は何とかやって行けるはずよ」

「私の卵巣だよ? そのお金、ママのものになる訳ないじゃない。そうでしょ? 小谷さん」

「そうですね。対価は、卵巣の持ち主のものと言うのが基本です。ですが、未成年の場合、責任を取る方、親御さんですね、と按分して頂くことにしています。比率は半々か、持ち主の分を多くするかですね。大体、半々になりますが」

 ママは希望と落胆を同時に顔に染めた。私は、金は欲しいと思った。卵巣は二つあるのだし、一つくらい減っても大丈夫な気がした。病気で取る人だっている訳だし。小谷はとても大変なことを喋っているようには見えない落ち着きがあって、そこには場慣れだけではない使命感でもない、扱っていることが「日常」である感じがした。ママが顔を上げないままで呟く。

「二度とないわ。売れるものは売っていいのよ」

 私はママの二の腕を掴む。

「私の卵巣。私が決める。お金の配分も私が決めるから」

「半分は頂戴。生活費は私が出すから」

「それは相談して決めよう。小谷さん、いつまでに結論を出せばいいですか? 健康診断はいつ受けられますか? 他に知っておくべきことはありますか?」

 小谷は緩やかに口角を上げる。

「健康かのチェックの結果が出てから二週間が期限です。健康のチェックは今週末に受けられるように手筈は整えてあります。他に伝えるべきことは三つあります。一つは、私達と関わったことは決して口外しない約束をして頂きます。法的拘束力のあるものです。違反すると懲役三年が相場です。もちろん執行猶予は付きません。守秘義務よりも重い設定です。二つ目が、卵巣が何に使われるのかについては詮索しないこと。絶対に今後の人生では交わることがないものですからご安心下さい。三つ目は、卵巣の摘出後に起きたことについては当施設は一切関与しません。そのためのお金だと思って下さい」

「値段の交渉は可能ですか?」

「こちらとしては適正な額を提示しています。納得頂けないのならば、契約しないのがよろしいかと思います」

 ママが軋む動きで私を見る。

「逃しちゃダメよ。こんなチャンス」

「私の体だから」

「だって、元はと言えば私から生まれたんでしょ? だったら私が決めていいじゃない」

 私はママの腕を強く掴む。握り潰すつもりで。

「勝手なこと言わないで。私の体は私のもの。……小谷さん。後は二人で相談するのがいいと思うんです。他に何かありますか?」

 小谷はゆっくりと首を振る。まるで、私達二人を全視野で睥睨するための動きのようだった。私達はどんな風に値踏みされたのだろう。愚かだと思われているのだろうか。

「特にありません。では、中央病院に土曜日の十時に行って下さい。結果は即日で出ます。健康と判定されたなら、それから二週間後にまたここに伺います。よろしくお願いします」

 小谷が頭を下げるのに呼応するように私も下げた。ママは下げなかった。

 玄関まで小谷を見送り、ちゃぶ台に再び就く。

「ママ。どうしてこのこと今日まで言わなかったの?」

 ママはまた俯く。いつになく弱気なのは、悪いことをしたと思っているからに違いない。

「だって、今日小谷さんが来るから、そこで話してもらえばいいかなって」

「嘘だね。ママはお金を独り占めしようとしていた。そうでしょ?」

「そんなことないよ。どうせバレるし。……正直に言うと、娘の卵巣を売ることに躊躇していたの」

「売る前提だったんだね。でもさ、ママ」

 私の呼びかけにママが顔を上げる。私のママはこんなに醜くて小さかったのか。

「何?」

 だが、女手一つでここまで育ててくれたのも事実。少し楽をしてもらってもいいと思う。

「私の取り分によっては、卵巣一個、あげてもいい」

「本当に?」

「取り分によってだよ。二千万。これ以上は譲れない」

「じゃあ、私が千万円。……いいわ」

「でも私、値段交渉しようと思う。増えた分は半々で分けよう」

「さっきは出来ないって言ってたわよ?」

「いや、出来る。小谷さんの余裕のある感じは、私達を説得する材料を持っているからこそのものだと思う」

「そんなものかしら」

「わざわざこんな家まで来るくらいだもの。空振りはしたくないはず」

 土曜日に中央病院に行くと、婦人科検診のようなものを一通り受けた。膣に手やエコーを突っ込まれたのが嫌だったが、金のためと考えて耐えた。婦人科の医者は欲情しないのだろうか。それともそう言うのとは別次元の興味があるのだろうか。そんなこと訊けないし、訊いたらおかしな女だと思われる。私はまさぐられるだけまさぐられて、結果を待つ。そこに痛いとか苦しいとかがあれば診られることに納得がいくのだろうが、健康であることの証明が目的だとやはりどこか奪われるだけの感覚がある。それが情報なのかプライバシーなのか、感情なのかは分からない。

 結果は健康。気さくな医者で、説明を一つくれた。

「今回検査した範囲では、と言う注釈が付きます」

 重点的に卵巣を調べたのだろう。それが売るものだから。この医者は、私がこれから卵巣を売ると言うことを知っているのだろうか。知っていたらこんな風に喋らないだろう。もう少し、気持ちが入ると思う。止めるかも知れない。だから、この医者は施設とは無関係だ。

 家に戻り、ママに結果を言っても、そうでしょうね、と言うだけだった。


 自分が売り物になる。健康な若い女性だから持っているものを売る。健康と言う診断を受けた今、私の商品価値が確立した。布団に入るとこのことが頭の中を巡った。

 だが、二千万円だ。もう一声くれるなら、釣り合いが取れる。私が売るのは未来を作る力の半分にも満たない。子供を産むことだけが未来ではない。卵巣に由来しない私の未来の方が多いはずだ。それに、その卵巣も全部を売る訳じゃない。私が持っているのは未来や可能性ばかりで、具体的なものは一切ない。そう言う曖昧なものは確かに大切ではあるけど、多少減ったところで、お金になるのなら、それは可能性や未来を具現化しただけだ。それでも、売る未来と同等のお金を貰わなくてはいけない。……二千万円では足りない。引き上げられるだけ引き上げなくては。だが、契約はする。不確かな未来より確実なお金だ。

 毎夜毎夜の考えは、毎回同じところに帰結した。

 学校に行けば、クラスにいる女子を見る度にそこに卵巣が二つあるのだと思うようになった。男子も精巣が二つ付いている生き物に見えた。だが、話してみれば相手は卵巣の付属物ではなくその人そのものであり、これまでと変わらない。一週間が経つ頃には、卵巣と人格が別であることが納得出来る事実になった。つまり、私も私の卵巣と同一ではなく、卵巣は私の一部であって、私そのものではないと十分に理解した。卵巣を金に換えても私が私でなくなることはない。私は卵巣を売っていい。ただし、相応の値段で。

 卵巣を売ろうと、私が私のままであると言う発見は、卵巣を売る決意をより強固なものにした。もう、売らない選択肢は除外されていた。私の関心は幾らで売れるかと言う点に集中した。

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