七、澪
七、
渚がいなくなって一週間が経った。ここ一ヶ月で
今日も私は教室にいる。私は教室の奥に座り、子供達は思い思いの場所に、絨毯の敷かれた床に直接、座っている。四人が座っていた場所がぽっかりと空いている。十五人が十一人に減ったのだ、教室がさみしくなるのは当然だ。
「澪先生、渚ちゃん達はどうしたんですか?」
「分からないわ。いなくなっちゃったみたい」
「いつかまた会えますか?」
「きっといつかまた会えるわ」
教室はざわついて、それは次は自分がいなくなるのではないかと言う不安を反映しているのだと思う、
「今日は、挨拶の復習をします。みんな、挨拶はもう完璧に出来るようになった?」
はーい、と声が揃う。ここにいる子の大半が実年齢が五歳だ。だが人魚は成長が早く、人間換算では十五歳になるらしい。人間の十五歳がどれくらいのものか分からないが、私にはここにいる子達がまだ幼いように感じる。他の先生のときもそうなのだろうか。私だけが同じ人魚だから、甘えているのだろうか。
「まず出会ったとき。どんな挨拶がありますか?」
「おはよう」
「それは朝だけだけど、それも正解。他には?」
「こんばんは」
「それは夜だね。でも正解。他には?」
「こんにちは!」
「そうだね。それが朝と夜の間の全部。他には、お疲れ様、とか、ごきげんよう、とか、おっす、とかいっぱいあるけど、今出た三つを中心に使いましょう」
教室がはーいと言う。
「じゃあ、次は別れるとき、分かる人」
今度は清が早くて、指す。
「さらば」
「古風だね。他には?」
泪が手を挙げる。
「バイビー」
「それもいいけど仲のいい相手だけね。オーソドックスなのを頂戴」
「さようなら」
「そうだね。あとは、失礼しますとかがあるね――
授業が終わると、人間のスタッフに交代する。若い人魚達はここで教育を受ける。赤ん坊のときは別の場所で、ここは小学校のようなものだ。私だけが特別な人魚で、教える側にいる。年齢も八歳で、人間換算では二十四歳だ。棲家も別で、プール付きの個室に住んでいる。他の子達は二人部屋だ。私も最初から個室だった訳ではなく、幼い頃は二人部屋だった。その頃に一緒に育った子達はもう誰もいない。挨拶も出来ないまま、ある日いなくなった。そして誰も戻っては来ない。それがここでの普通で、だから慣れるしかないのだが、仲間がいなくなる度に胸に穴が空いたような気持ちになる。
部屋に戻って明日の授業の準備をする。本も資料もふんだんにある。テレビもある。他の子の部屋にもテレビはあり、共通の話題になるし、世界のことを知るのにはちょうどいいので、テレビから題材を取ることは結構ある。
準備が出来たら本を読む。
恋の話が好きで、そう言う物語ばかりを読んでいる。
以前、「人魚姫」を読んだが、あれはおかしい。人間に恋をするまではいいが、声と引き換えに足が生える訳がない。ナイフで王子を刺して返り血で足が元に戻ることだってない。どうして人魚は人魚として胸を張らないのか。私は人間になりたいなんて思ったことはない。人魚なら人魚として人を愛せばいいではないか。
ドアをノックする音。
「どうぞ」
現れたのは神屋だった。私の胸がキュッとなる。だが、一緒に知らないおじさんがいて、胸の温度が下がる。
「こんにちは、澪。今日は同僚の南山を連れて来たよ。少し、いいかな」
「いいけど、何もないよ、私」
「澪は澪であるだけで、いっぱいがあるんだよ。じゃあ、南山」
促されて南山が一歩前に出る。私は神屋に褒められて嬉しくて、神屋の連れて来た客なら相手をしようと決めた。
「こんにちは、南山です」
全体的に四角い印象だが、声はそうでもなかった。
「澪です」
「ここでの生活はどうですか?」
「快適ですよ。子供達に教えるという役割もありますし」
「本を読むんですか?」
私は手に本を持ったままだったことに気付いて、それを机に置く。
「ええ。テレビも観ますよ」
「どんな番組が好きですか?」
聞いてどうするつもりなのだろうか。
「クイズ番組と、旅番組、あと、ドラマも観ます」
「私も旅番組は好きですよ」
「そうですか」
何か、検査をされているような感覚がする。私の知能を測っているような。
「ドラマも観るってことですけど、恋愛したりするんですか?」
神屋は黙ってやり取りを見ている。
「それは私の勝手です。答える必要はありません」
南山は、はは、と笑う。
「それはそうですよね。失礼しました。伝説の人魚の話がどうも頭にチラついて、つい訊いてしまいました」
「伝承にある人魚と、私達は根本的に違うものです」
「貝殻ではなく、Tシャツを着ているのもそう言う理由ですか?」
「それは合理的な服を着ているだけです。もっと華美な服だって着てみたいです」
南山は嬉しそうな顔をする。
「華美ですか。美しいから、どんな服でもきっと似合いますよ。あと、自分の生まれを知っているんですね」
南山の圧力が増した。
「ええ。それが正確な情報か分からないことも含めて、知っています」
南山は少し考える。
「色々と失礼なことを訊きました。すいません。最後に握手してもらってもいいですか?」
「いいですよ」
ごつごつした手がしっかりと私の手を握った。
「ありがとうございます。では、失礼します」
神屋が私に微笑む。
「ありがとう」
「いいえ」
二人は部屋を出て行き、私は手を洗った。
夜になり、神屋が再び訪ねて来た。
「昼は大変だったね」
「別に、大したことじゃないよ」
「南山は、きれいな敬語だったって感心していたよ」
「それくらい誰でも出来るよ。それよりも、いつもの、早く、頂戴」
神屋が近付いて来る。私の心臓は早足に甘くなる。
神屋が私の唇に口付ける。ゆっくりと時間をかけて重ねる。ふと、離れる。私の視界に神屋が入る。
「おかえり」
「ただいま」
「でもまたすぐに行っちゃうんでしょ?」
「そうだね。ずっとここにはいられない」
「短い逢瀬、か」
神屋は私の横に座る。
「でも毎日来ているよ」
「おかげさまで私は毎日、夜が待ち遠しい」
神屋は黙る。ちょっと不安になったが、手を握ってくれた。水に溶ける花のように不安がいなくなった。そうだ、今日こそ言おう。
「ねえ、神屋。私達がこうなって、もう一年は経つじゃない?」
「そうだね。一年と二ヶ月だね」
「あのね。……親密な男女なんだから、キスより先に進んでもいいんじゃないかって、思うんだ。夜のここなら他には絶対に誰も来ないし、だから毎日神屋は来てくれる訳だし、ねえ、しようよ」
キスだけでも濡れているって、自分で分かる。人間のそれと違って、私の生殖器は足ビレの間にある。だから濡れているかがヒレに伝わる。神屋に自分から声をかけて、もっと濡れる。神屋は黙っているが、興奮を抑え切れないのが見て取れる。
私は神屋の耳に唇を近付けて、囁く。
「しよう、セックス」
神屋は私に向き直り、抱擁する。
「いいの?」
「私は、したい」
神屋は一度離れて、二度目のキスをする。その手が私の胸をまさぐる。甘い液体が体の髄を走る。それは一方では脳を痺れさせ、もう一方ではあそこをさらに濡れさせる。
神屋は私の耳をやさしく噛む。胸の感触と相まって、私から、あ、と声が漏れる。
神屋は私をベッドに横たえる。
「入れるよ」
「うん」
位置関係が遠い。だが、感覚は伝わって来る。初めてなのに痛くないのは、人魚だからなのかも知れない。本で知るのと実際は、違うことがある。神屋がゆっくりと動く。きっと奥まで届いているのだ、私は段々気持ちよくなって、声が出て。
「イくよ?」
「うん」
神屋の動きが激しくなって、私も何か激しくなって、神屋の動きが突いたところで止まる。ドクドクと言っているのを感じる。神屋は脱力して、私の尾ビレの上に乗っかっている。私は手を伸ばして頭を撫でる。撫でて、上半身を起こせばもっと触れられると気付いて起きて、だが体に甘いものがまだ溜まっていて、それでも起きて、神屋を出来る限り抱く。
しばらく荒い呼吸の中にいたが、神屋が起き上がる。ティッシュを渡された。
「お互いに自分のところを拭こう」
私は急に恥ずかしくなって、壁の方を向いて足ビレの間を拭いた。私のものだけではない白い体液が出て来て、さっきよりも実感が湧いた。
「何だか、嬉しいね」
後ろに向かって言ったら、神屋は、そうだね、とこっちに向かって言った。
それから、週に一、二回、私達はセックスをした。
三ヶ月後、生理が来なかった。その次の月も来なかった。
私は夜の神屋に最初にそのことを伝えた。次の日、妊娠検査を尿でされて、陽性だった。
私は親を知らない。だから親になることなど出来ないと思っていた。だが、私は親になるらしかった。恋の先の子供とはおとぎ話のように幸せな響きだ。お腹の下の方と尾ビレの上の方が徐々に膨れて来た。妊娠が発覚してからは神屋とはセックスをしていないが、毎日来てくれることに変わりはなかった。私は幸せの絶頂を更新し続けている。この子が生まれたら、さらにその先に進むのだろうか。
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