八、神屋創太(中)
澪の腹はどんどん大きくなった。膨らむ位置は人間よりも尾側で、ちょうど人間的な腹とアシカ的な腹の境目辺りが膨隆の頂点だった。十三週目の秋田の診察で、そろそろ出産する必要があると判断された。診察が終わり、いつもは澪が下がるのを秋田が止めて、僕と三人で話したいと言う。
「出産は自然分娩は極めて危険です。児の命の保証がほぼありませんし、母体も命懸けのリスクを背負うことになります。医師としての意見としましては、帝王切開をすることが必要だと考えます」
僕は妥当な結論だと思った。澪は考えている。
「自然界ならその命懸けも当然ですよね?」
「澪さん、違います。人魚は自然界のものではありません。それに、人間についてもリスクが高い出産を帝王切開にすることで、母体と児の死亡や合併症を下げています。澪さんが人間だったとしても、同じ判断になります」
澪はもう少し考える。
「分かりました。海の命が一番大事です。帝王切開、受けます」
その週の後半に、手術が予定された。
当日は病院から麻酔科医と、秋田の同僚の婦人科医、看護師二人がラボ内の手術室に来た。いつも秋田が卵巣を採取するときのメンバーで、秘密を守ることをよく理解している面々だった。加えて、小児科医と助産師を呼んだ。この二人については、施設の行う手術に関わったことがなかったが、半ば強制的に説明・同意を行い、協力を取り付けた。
手術の直前に澪に会った。まず大丈夫だと思いながらも、会えるのがこれが最後になるかも知れないと胸をよぎって、だが、顔には出さないように、澪が安心するように、いつものように穏やかに接する。
「澪、がんばれ」
「うん。目が覚めたらもう海がいるんだよね。その瞬間に立ち会えないのは残念だけど、決めたことだし。がんばって横になる」
僕は澪の手を握りたかった。キスをしたら成功率が上がるんじゃないかと思った。だが、どちらも出来ない。僕は今、第二ラボの人間として澪を送り出している。
人魚の麻酔ってどうなのだろうか。麻酔科医曰く、臓器が基本的に人間と同じなら、同じように効くし抜けるはずだとのこと。麻酔科医の選択は全身麻酔だった。
僕達はガラス越しに手術を見る。
澪は眠らされ、消毒の後、秋田のメスが走った。
五分程で海が取り出された。海は、ちょっと泣かなかった。
息を詰めて見守っていたら、あー、あー、と弱々しく泣いた。
海の形は人間だった。だが、どこまで人間なのかは調べないと分からない。
澪は縫合も終わり、麻酔からちゃんと目覚めた。
澪は自分の部屋に運ばれ、海は保育器で小児科医の点検を受けている。僕達も海のところに行く。衛生のためにキャップとマスクとグローブを付けたが、これはまるっきり人工子宮から生まれた人魚に接するのと同じ格好だった。
「先生、どうですか?」
「診察した範囲では、異常はないです」
「それは、普通の人間と言うことですか?」
「普通の新生児と同じです。強いて言うならば、下半身の皮膚が厚い印象はありましたが、異常と言うほどではないと思います。神屋さんの言う『普通の人間』に入るのかどうかは分かりません」
「ありがとうございます」
差し当たって、人間の新生児として育てるので良さそうだ。人魚についても育て方は同じだから、問題なくラボで育てられる。
海は人間の新生児らしい、弱々しい小さな生き物で、目を開けない。ちゃんと小さな胸で呼吸をしている。この幼さで誰に似ていると論議するのは意味がないと思うのに、自分に似ている気がした。僕は父親なのかも知れない。だが、今だって第二ラボの職員として海に向き合っている。
安定していると判断し、澪のところに向かった。他のラボのメンバーも一緒だ。
澪は寝ていた。傷口を見ても分からないので、布団は捲らなかった。落ち着いた寝顔だった。
秋田曰く、手術は成功だとのこと。あとは合併症の管理だけをすれば問題ないだろうと。
僕達は日常業務に戻る。荒井のチームは海のデータを取ることを始める。
夜、澪の部屋に行った。
「今日はお疲れ様」
「がんばった」
「もう海には会った?」
「うん。でも、いつものを忘れているよ」
僕は澪にキスをして、そのキスがなかったことのように続ける。
「海と会ってどうだった?」
「なんか、可愛いのかよく分からなかった。お腹の中で蹴っていた方が海の実感がある。でも、きっと間違いなく海なんだよね」
「見ていたよ。出て来るところ。海だよ、あの子は」
「そうだよね。きっと会うことを重ねることで実感が湧くよね」
「人魚じゃなかったね」
「男の子。男の人魚は人間そっくりなのかな」
「どうだろう。そうかも知れない」
「私が育てる」
「もちろん。必要なときにはラボも手を貸すよ」
「いつから私と一緒に暮らすの?」
「先生は明日にもここに連れて来ていいって言っていたよ」
澪はまだ疲れた様子で、僕は早めに部屋を出た。
次の日から澪は海と生活を始めた。術後の経過は良好で、秋田の診察の頻度も徐々に少なくなり、なくなった。海はおっぱいとミルクの半々で育てられた。人間の三倍の速さですくすくと育った。
僕は父親にならないまま、毎日澪と海に会った。
海は僕になついた。それを澪はとても喜んだ。僕が海を可愛いと思い始めたのと、澪が海を可愛いと言い始めたのは、ほぼ同時だった。
海が立ったのを目撃した次の朝、荒井がやって来た。
「神屋さん、海のゲノムの解析結果が出ました」
「早いな」
「最優先でしましたからね。それで、結果は、アシカの遺伝子とその他の補助の遺伝子が、澪に比べて半分になっています。これは澪ではそれらの遺伝子が全てホモで作られているので当然のようですが、そうでもないです」
「ないってのは?」
「澪の卵子がちゃんと減数分裂をしていると言うことです。もちろんそれが出来ていなかったら、受精卵が人間の形に育つことは不可能ですから、海そのものが最初から証明しているとも言えますが。本題はここからで、まだ課題ですが、ヘテロでアシカと補助の遺伝子を持っている海が、どうしてあそこまで人間の形質なのかと言うことです。全体からしたら一パーセントにも満たない量ですが、単一の遺伝子が広範に影響することはよくあることです。むしろ、そうならないようにデザインしたのが澪であり人魚です。そこと、海の形質の関連性を調べたいところです」
「プランはあるのか?」
「海のクローンの作成と、細胞培養をしようと考えています。それで、色々条件を変えて実験をしようかと考えています」
「いつもの土俵だな」
「はい」
「たくさん生んで、たくさん殺す。人為進化にはそれが必要だ。海の研究も必ず次の妖怪の作成の糧になる」
荒井の顔は使命に燃える騎士のようだった。
僕のプロジェクトも前進していた。最新の卵巣をベースに作った人魚のシリーズが人工子宮から海と一ヶ月違いで二十人生まれ、順調に育っている。今回は澪と同程度の高いIQを持たせている。予定では四人が出荷まで生き残る。
海が最初にはっきり発語したのは「ママ」だった。部屋を走り回るようになって、プールに落ちないように衝立を設置した。よく泣いて、よく笑う子だった。荒井のチームは何度も海からサンプルを取った。僕は毎夜、二人の元を訪ねた。
一歳、つまり人間で言うところの三歳になった日から、幼稚園的な教室に昼間は預けた。教室には僕のプロジェクトの人魚の子供達も通っていた。初日、帰って来た海を見て、澪は「ちょっぴり逞しくなった」と僕に報告したが、逞しくなったのは澪の方じゃないかと思った。その頃から、澪も教える側として教室に復帰した。
荒井のチームによる解析は少しずつ成果を上げていった。澪由来の遺伝子の中でアシカと補助の遺伝子に突然変異による異常は発見されなかった。すなわち、偶然突然変異が起きたせいで海の形質が決まったと言うことは否定的だった。
多くのクローンやトランスジェニック人魚/人間を作成して解析をした結果、Y染色体の存在が形質を決定付けていることが分かった。Y染色体を抜き、澪由来のX染色体に置き換えた個体は、人魚になった。Y染色体を抜いただけの個体も人魚になった。荒井は決め打ちでY染色体が人間的形質の原因となっていることを突き止めたのではない。二十三対の染色体について全て実験した。相応の命が使われた。
Y染色体の中のどこが形質を決めているのかを次に荒井は探した。最終的に引っ掛かったのは、まだ名前のないタンパク質をコードしている遺伝子だった。荒井はその遺伝子にMMD1と名付けた。Mermaidからだ。この遺伝子の発見はラボ内で大きな議論を巻き起こした。正常な人間の染色体に、人魚化することを阻害する遺伝子がコードされていることが奇妙であり、現象が偶然なのか、もっと大きな何かの一部を見ているのかと言う論争になった。
当然、それは実験で確かめる。荒井は徐々にMMD1の正体を解き明かしつつある。
その間に海は五歳になった。人間なら十五歳だ。海は僕のことをおじさんと呼んだ。父親は分からないと言うことで澪は通しているらしかった。僕は毎日二人に会った。
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