「schmerzhaft」5

 クランの家は昨夜と変わらず、廃墟じみた佇まいで草木の中にあった。木々の翠影で敷地内は小暗い。鮮々と眩しい茜空の晩照も、樹葉に受け流されてしまって、ほとんど届かないみたいだった。木造りの扉を開けて中に入る。「クラン」と声を掛けながら薄暗い廊下を進んでいった。


 一階の食堂から光が漏れている。半分くらい開いたままになっていた扉から室内を覗き込むと、クランはソファに座って安閑としていた。その姿に安堵した。


 卓上には食べかけのプレッツェルが置かれており、食事中だったのが窺える。彼女は僕に気が付き、色素の薄い金髪を跳ねさせて童顔を持ち上げた。ビスクドールを思わせる顔先に色が差し込む。蕾が花弁を広げるみたいに、彼女は笑った。


「ライヒェ! 学校終わったの? お腹空いた? プレッツェル食べる?」


 ずっと一人で退屈だったのか、それとも寂しかったのか、クランは小鳥みたいに踊躍ゆやくして、ソファを飛び降りると悶絶していた。普通に歩くだけでも痛いと言っていたのだから、勢いよく飛び出した両足には激痛が走ったのだろう。膝を抱えて唸っている彼女のかたわらに屈むと、泣き出しそうな側顔に笑いかけた。


「大丈夫? 来るのが遅くなってごめんね。夜までは一緒にいるから、慌てなくていいんだよ」


「うん……」


「プレッツェル、残ってるけどクランが食べてたんだよね。僕はいいから、クランが食べて」


「もうお腹いっぱいなの。ライヒェが食べて」


「そ、っか。じゃあ、もらうね」


 クランはおもむろに体を起こしていく。錆びた人形みたいな所作は、彼女が動く度に関節の軋む音が聞こえてきそうなくらい、ぎこちなかった。支えたいが傷付けてしまうから手を伸ばすことが出来ず、ただただ軫憂を注いでいれば、クランがふわりと笑った。大丈夫と告げる容色に、僕も胸を撫で下ろして、座り直した彼女の隣に着座する。


 フリルを模しているのか、波打つ白い皿に手を伸ばす。シンプルなデザインながらも、綺麗で高そうな皿だった。彼女に半分ほど食べられたプレッツェルは、小文字のeみたいな形をしていた。生地には焼き色がしっかりついていて、香ばしそうだ。食い付くと芳甘な味わいが口内に広がっていく。生地の中にはクリームチーズが入っていた。甘さと塩気がほどよく、とても美味しい。


「あのね、昨日のこと、全部夢なんじゃないかって、怖かったの」


「え?」


 咀嚼をしていたプレッツェルを嚥下して、彼女を見下ろした。クランはどこか遠くを見ていた。残夢に漂っているような横顔。嬉しそうに、それでいて面映ゆいと言わんばかりに、赤らんだ頬が柔らかな笑みを象る。


「初めて会った時、いきなり泣き叫んだ変な子供なのに優しくしてくれて、ご飯作ってくれて、友達になってくれて。全部嬉しかったから、昨日は幸せな気持ちで眠ったの。だから目が覚めてから怖かった。ライヒェは夢の中の人で、私は幸せな夢を見てただけなのかもって」


 僕が今日ここにきて、クランの姿を見た時、とても安心した。それは、子供の殺人事件が起きていて心配だったから、という理由もあったが、彼女と同様に『昨日の出来事が夢だったら』という不安もあったのかもしれない。僕は彼女の吐露に共感していた。


「僕も、クランと同じ気持ちだったよ。それに貴方は変な子供なんかじゃない」


 こちらを見上げたクランの頭に、僕の影が落ちる。思わず撫でようとしてしまって、指先を丸めてから腕を引っ込めた。


 接触は、彼女にとって暴力と同義なのだ。触れてしまう前に止まれて良かったと思いつつ、空を掴んだ己の手を見下ろす。袖のボタンが部屋の照明を受けて光った。僕がいつも着ている飾り気のないシャツとは違う、綺麗な袖を見るたび、失態に頭を押さえたくなる。


「っ服、返そうと思ったのに、着替え忘れてて。着てきちゃったから、明日こそ返すよ」


「え、ああ……別にいいのに」


「良くないよ、学校にもこのまま行っちゃって。そういえば、クラン、学校は?」


 片手に持ったままだったプレッツェルを食べ進める。口を動かしながら意味もなく室内を見回した。


 僕達が座っている二人掛けのソファの他に、テーブルを挟んだ向こうにもう一脚同じソファがあり、それよりも奥の壁際には横長の棚がある。木目の美しい棚は花の彫刻が施されていて綺麗だ。けれどその溝にも、棚の上部にも、埃が溜まって見えた。棚の上に置かれている花瓶や鏡、裁縫箱、陶器の小物やランプ、装飾の美しい模型銃も、長い間触られていないような様相でそこにある。


 燭明が白い線を浮き上がらせて、虚空に模様を描いており、蜘蛛の巣が張られているのが分かった。目路はその糸の先を追いかける。一本の糸は倒れた写真立てに繋がっていた。


 プレッツェルの最後の一口を口腔に放り込んで、立ち上がろうとした時、クランの寒声が深閑を攫った。


「私、学校行ってない。行っても、みんな私に嫌なことばっかり言うし、痛いことされるから」


 僕は、軽く持ち上げた腰をソファに沈め直して、クランを見た。本来痛いと思わないことにも痛みを覚える、というのは、僕が思っている以上に辛いことなのかもしれない。友人と肩を叩き合ったり、腕を引っ張ったり、握手をしたり、彼女にとってはそれら全てのことに肉体的苦痛を伴う。公園にいた子供達みたいに、走り回ることもボール遊びも出来ない。だからきっと、馴染むことが出来なかったのだ。


 そっか、と呟く他に返す言葉が浮かばず、曖昧に微苦笑を浮かべた。気まずい空気が広がり始めたからか、クランが朗らかな緩声を上げてくれた。


「ライヒェは、学校ではどんなことをするの?」


 クランの赤い明眸がルビーみたいに輝き始める。知らないことに興味津々になる年ごろなのだろう。歳相応に無邪気な風采が微笑ましくて、僕は唇で繊月を描いた。


「色んな授業があるからね、色々勉強するよ。人体の構造を理解するための座学とか、薬をマウスに投与して反応を見たり、薬用植物を学ぶこともあるから身近にある植物について調べたり、煎じたりスケッチしたり……」


「スケッチ……お絵描きするの⁉ ライヒェの絵、見てみたい!」


 絵を描くこと、或いは見ることが好きなのだろうか。彼女は、眼窩に太陽を閉じ込めたのではと思うほど明るくなっていた。きらきらと閃爍せんしゃくする瞳から顔を逸らす。自身の絵を思い返して、遠くを見ながら頬を掻いた。


「ええと、僕は絵が上手くないから……」


「なにか描いて!」


「うーん……ちょっと待ってね。今日描いた絵があったはず……」


 傍に置いていた鞄を膝に乗せ、中を漁っていく。教科書などの紙の擦過音が耳をくすぐる。論文の用紙をめくってスケッチブックを引っ張り出した。僕が表紙を開くなり、クランの頭が視界に割り込んでくる。よっぽど絵が気になるみたいだった。


 開かれたページを眺める後頭部からは彼女の気持ちが読み取れない。そのまま少し経つと唸り声が漏らされる。彼女は首を傾げながら僕を振り仰いだ。


「なぁにこれ? 丸い足がいっぱい生えてる、虫さん?」


「えっ、いや、すずらん……」


 虫、という予想だにしていなかった単語が見えない拳となって僕を打つ。笑みを引き攣らせながら自身の絵を見直すと、クランも一緒に紙上のすずらんを見下ろした。その細い肩が、ふるふると揺れ始める。


「ふ、ふふっ、あはは! 言われてみればそう見える! すずらんだ!」


「む、無理に言わなくてもいいよ。どうせ下手だし……」


「無理してないよ。動物は? 何か動物描いて! あっ、なにを描いたかは言わないでね、当てたい!」


「クイズになるほど下手かな⁉」


 子供から見ても下手なのかと、次第に羞恥が込み上げてくる。スケッチブックを閉じてしまいたかったが、そうすることは出来なかった。なにせクランがとても楽しそうな顔をしているのだ。こんな絵でも喜んでもらえるのは、嬉しかった。


 鉛筆を取りだして穂先を紙に擦り付ける。何を描くか数秒悩んでから手を動かしていった。動物を思い浮かべ、丸い輪郭を柔らかいタッチで描いていく。少しでも上手く見えるよう、何回も線を重ねて形を整えた。


 そうして仕上がった絵の全体を眺める。僕は得意げに顎を逸らして、すぐさまクランに絵を見せた。


「クラン見て、さっきのすずらんよりは上手じゃない?」


 欣喜してスケッチブックを凝視したクランの目見が、みるみるうちに顰蹙していく。絵を細見すると、クランは震え声を落とした。


「こ、これ、ホントに動物?」


「動物だよ⁉」


「どこが目なの? もしかしてこれ? この一つだけしか、お目目ないの?」


「そこは口だよ。えっと、角度の問題で目は見えないかなって」


 雫みたいな形の胴体に、三角形に開いた口。口からは特徴的な前歯が覗いている。長いしっぽも含め、可愛らしく描けたつもりだった。けれどこの動物が何か、クランには分からないらしい。ひたすらに僕の絵とにらめっこをしていた。


「なんで変な角度で描いたの? お顔描けば分かりやすいのに」


「見慣れてるのがこの角度だったからつい……」


「うーん、でもコレがお口で……しっぽが長くて……っもしかしてネズミさん⁉」


 正解してもらえたことに感動して、何度も首を縦に振ってしまう。クランも大口を開けて悦喜していた。「次はお花描いて!」という要望に応えて、鉛筆と紙の合奏を響かせていく。


 植物は薬になる。とはいえ毒性を含有している薬用植物も多い。だから学校では、植物のどの部位に毒性があり、どう加工すれば薬になるのかなどを学ぶこともあった。


「僕は、この花が綺麗で好きなんだけど……分かるかな」


 小さく細長い花弁がいくつも広がり、幾本もの長いおしべが緩やかな弧を描いて天に向かう。まるでシャンデリアのような麗しい花だ。けれども僕の画力ではうまく表現しきれなかった。


 クランを窺うと、彼女の頭が斜めになっていた。


「分からない……見たことないのかも」


「えっ、僕の絵が下手なだけじゃなくて?」


「下手だけど特徴は捉えてるもん!」


「う、うん、ありがとう? これは、彼岸花っていう花なんだけど、知らないかな? 花の色は、赤か白が多いよ」


 クランは難しい顔をして数十秒黙考していたが、やはり見覚えがないみたいで首を左右に振った。僕は不格好な彼岸花を指先で撫でる。少しだけ鉛が擦れて陰影を広げた。


「この花、毒があるんだけど、皮膚病で荒れてしまった肌に根っこの汁を塗って、薬として使うこともあるんだ。あと、乾燥させた根っこを粉末にしたものも薬になるんだよ。異物とかを呑んでしまったとか、『吐き出させなきゃいけない』って時に、その粉末を飲ませるっていう使い方もあってね」


「えっと、つまりお薬なの?」


「お薬、になることもある。けど、毒性が強いからあんまり使われなくなってる。毒性を利用してネズミ避けに使われることの方が多いかも」


「綺麗で毒があるけど、実はお薬になるから、ライヒェはこの花がすき?」


「いや……好きな理由は単純に、綺麗だからだよ。天国に咲いてる花っていう話もあるんだ」


 花びらの一部を指で掻き消しながら、脳裏では、清寧の中で綻ぶ天蓋花が夢想されていた。


 美しい花に身を委ねて眠るのは、きっと幸せだ。なにしろ天国には痛みなんてないのだから。天上に暮らす全ての人は痛みを覚えないはずなのだ。だから僕でも、そこに行けば、おかしいなんて思われない。痛いと思わないのが当たり前のことで、誰もが僕を正常だと受け入れてくれる環境。


 そんな夢物語が現実になればいいと、いつからか想望し続けている。僕が天国に行けるかなど、分からないけれど。


「お花、見てみたい」


 情懐に沈みつつあった僕を、クランのささめきが引き上げる。真っ直ぐな眸子が僕を射抜いていた。赤い花が咲き乱れているような虹彩に視線を掴まれたまま、僕は深思した。


 痛みのない天上は、クランにとっても幸せな場所だろう。


 そう考えてすぐ、頭を振りたくなった。馬鹿げた意念を振り払い、彼岸花が咲く場所へ思いを馳せる。


 この街の植物園に咲いていることを思い出して、共に行こうかと誘いたくなったものの、園内を歩き回ることで彼女に苦痛を味わわせるのは避けたかった。


「今度、一緒に……ううん、道で咲いていたら、本物を持ってくるよ」


「咲いてると良いなぁ……! ねえ、次は私のこと描いて!」


「えっ⁉」


 クランが出し抜けに跳ね上がったものだから、互いの鼻先がぶつかりかけて咄嗟に身を引いた。だんだんと求められる絵の難易度が上がっている気がする。人の顔など、ひどい絵を描いて怒られるのが目に見えている。


「やめたほうがいいよ。クランは可愛いのに、僕の絵のせいで可愛くなくなっちゃうよ」


 温言で説得を試みようとするも、逆効果だったみたいで、クランの花瞼が大きく持ち上がった。彼女の欣幸が、丸い頬を桃色に彩っていく。上機嫌になった彼女は振り子みたいに体を揺らしていた。


「えへへ、ライヒェから見て、私って可愛いんだ……! じゃあ尚更描いてほしい!」


「ええ……不細工になっても怒らないでね……」


 新しいページを開いた音が、長閑やかだった空気を変えた。否、実際に僕達を黙らせたのは互いの眼差しだ。淑やかな少女らしく色を正したクランと、その姿色を真剣に観察する僕。線が生み出す像を視界に入れなければ、この瞬間の僕達の風情は画家とモデルだった。


 金色の長い睫毛が瞬くたびに、小さな蝶が羽ばたいているみたいだ。果実を思わせる丸いまなこ、陶器みたいな輪郭、小さな花唇。それらを、震える手で描き写していく。そこでふと、彼女の口端が笑みを深めていることに気付いた。


 クランは頬笑みを浮かべていた。それも無邪気な子供みたいに、ではない。僕の不安も、緊張も、すべて包み込んでくれるような、暖かい解顔だった。


 僕の手付きが、落ち着いていく。心地良い温度が、室内にあまねく弥漫びまんしていく。


 ようやく顔を描き終えて、僕は閉じていた唇をほどき、ふっと一粲いっさんした。鏡みたいに、クランも朗笑してくれた。スケッチブックを裏返して、描いた面を彼女に見せる。


「こんな感じかな。もっと可愛く描きたかったんだけど」


 クランは紙に息がかかりそうなほど顔を寄せていた。彼女が無言で絵と向かい合っている時間はとても長く感ぜられた。少しずつ自信がなくなってきて、やはりひどい出来だったのではと気分が落ち込み始める。


 彷徨わせた僕の黒目はテーブルを映し、棚を見て、窓を見る。いつの間にか外は暗く、幽冥が満ちる庭の形はようとして知れない。木々が影絵みたいに色濃い影で塗られており、揺れている様だけが見て取れた。


 僕は逃げるように立ち上がった。帰らなければ、というのは建前だ。本音はただ、絵が恥ずかしかったからだった。


「っそろそろ帰るね。また来るから」


「ライヒェ、その絵、テーブルに置いて行って」


 鞄にしまおうとしたスケッチブックを掴んだまま、クランを見返す。真面目な顔で懇願されていて、たじろいだ。


 僕の絵などただの紙屑だ。後で丸めてゴミ箱に投げ込まれるだけの、無価値なものでしかない。それなのに、彼女はそれを許してくれなさそうだった。


「こんな絵、人にずっと見られるのは恥ずかしいよ」


「でも、欲しいの。何回も見返したい。だってこんなに丁寧に描いてくれたんだもの」


 世辞でもなく、心の底から気に入ってくれたのが分かってしまって面食らう。彼女の胸中から清福が溢れ出している。そう思うほど綺麗な笑顔が目の前にある。僕が無価値だと定めたものに、価値を与えてくれる彼女が、眩しかった。


 スケッチブックからクランの絵を引き離す。一枚の紙になったそれを机上に置いてやった。


「……じゃあ、置いていくね」


「っうん! 嬉しい、宝物にする!」


 どんな楽器よりも綺麗な好音が耳朶に届くと、僕も嬉しくなっていた。笑窪を作る頬が、久しぶりに何度も笑ったことで疲れているみたいだった。手の甲で表情筋を軽くほぐしてから、「またね」と手を振り、きょうぜんと退室しようとした。


 靴音は四回ほどで止まった。帰り道を追想して、共に引き出された記憶には、小児連続殺人事件の話があった。


 ドアノブに触れかけた手を下ろし、振り返る。クランはテーブルの上の自分を眺め入っていたが、僕に気付くとこちらを見てくれた。


「クラン。しないとは思うけど、あんまり遅くに外出しちゃだめだよ」


「どうして?」


「最近、子供が……危ない目に遭ってる事件が起きてるって聞いたから、心配なんだ」


 殺されている、という言葉を子供に使うのは憚られた。それでも危険であることは伝えたくて、深憂を込めた眼勢を注ぎ続けた。クランは理解したのか、していないのか、和らいだ顔を向けてくれた。


「大丈夫だよ。私、あんまり外に出ないもん」


「そっか。それなら良かったよ」


「心配してくれてありがとう。ライヒェこそ、気を付けて帰ってね」


 首肯してからドアノブを捻る。冷えた金属は手の熱を奪っていった。幽暗な廊下を進む僕の風懐には、未だクランのことばかり巡っていた。


 クランは歩くだけでも酸痛に見舞われる。だから自発的に立ち歩くことも少ないのだろう。出歩かなければ事件に巻き込まれることもない。


 愁眉を開いて、玄関の扉を開ける。小夜風の肌寒さに唇を引き結び、公園に繋がる道へ踏み出した。なにげなく、彼女と初めて出会った景色を想起して、眉を顰めた。


 気になってしまったのだ。彼女が何故、あの時は痛みを堪えてまで外出していたのか。

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