第三章「──血のように赤い」
「so rot wie Blut」1
(一)
瞼を持ち上げた僕は、まだ夢の中にいる心持ちで広い食堂を見回した。窓枠の影が透けて見えるカーテンで、木漏れ日がまだらに泳いでいる。肘掛けに凭れていた上体を起こして、ようやく目が覚めてきた。目の前のテーブルには皿とパンが置かれている。夕食に食べようとして、結局手を付けなかったものだ。テーブルを挟んで斜向かいに置かれているソファでは、クランが小さな体を丸めて眠っていた。
意識がはっきりしてくると、昨日の出来事の方が夢のようだった。けれど、身動ぎした肋骨に小銃がぶつかり、引鉄の硬さをありありと思い出させてくる。
クランが男の子を殺していたこと。僕が警察を射殺したこと。クランと、手を取り合えたこと。泣き続ける彼女を見守るうちに、お互い眠り入ってしまったこと。僕と彼女、先に寝てしまったのはどちらだろう。そんなことを考えたのは、早鐘を打つ心臓に気付きたくなかったからだ。
僕達の殺人はあまりに杜撰だった。警察に見つかるのも時間の問題だ。これからどうするべきか、腕組みをして尋思する。一人で唸っていると、それに呻き声が重なった。
ソファのベロア生地に皺を刻みながら、ビスクドールみたいな少女が起き上がる。クランは涙目で顰蹙して、起床に伴われた痛みを噛み締めていた。数秒の間テーブルだけを見つめていた彼女が、はっと面を上げる。なぜかとても吃驚した目で僕を見て、それから頬を緩めていた。
「ライヒェがいる……! なんでなんで? おはようライヒェ」
「おはよう、まだ寝ぼけてるの? クランが泣き止むのを待っていたら僕もここで寝ちゃったんだよ」
いつもと変わらず微笑んでくれるクランのおかげで、体のこわばりが解けていく。けれど、人が亡くなるのを目の当たりにしても普段通りでいられる彼女に、僕の笑みは引き攣りそうだった。これでは駄目だ、と自身に言い聞かせて眉間を押さえた。
僕はジャムパンに手を伸ばして平常心でかぶりつく。溢れ出したいちごジャムが一瞬だけ血液に見えて、思わずため息を吐いてしまった。
「ライヒェ、疲れてる?」
「え、ああ……それより、これからのこと、考えたいんだ。クランは後何人殺したいとか、あるの?」
クランは僕の隣でレーズンパンを咀嚼していた。リスのように膨らんだ頬が、少ししてしぼむ。朝影をわずかに浴びている睫毛がまたたいた。果実を思わせる瞳は真っ直ぐに虚空を見つめていた。
「アデーレ、カミル、ペトラ……あと、おとうさん」
淡々と紡がれた名前を脳内で反芻する。子供は三人、そして、クランの父親。その顔は僕の眼裏に浮かぶ。モニカと親密な関係にあるあの男が、クランを一人ぼっちにしている父親だ。寂しさに包まれた家でただ一人、クランがどんな思いをしてきたのか、あの男は知らないし知るつもりもないのだろう。そう考えたら苛立ってきて、次に彼と会った時、冷静でいられないような気がした。
喉の奥に熱が溜まってくる。落ち着くために小息を吐き出した。
「じゃあ、その人たちは、僕がどうにかするから。クランはもう殺さなくていいよ」
「どうして? 私がやりたいの」
「その意思は尊重したい、けど、危ないから。昨日警察に見つかったでしょ。これからもそういう危険はあるし、クランの体だと逃げるのが間に合わない。全員仕留める前に捕まってもいいの?」
クランが殺したいのは後四人だけだ。それなら、その四人だけを早く片付けて終わりにすればいい。凶器を長期間保管しているのは危ない。物的証拠を早々に処分しておきたかった。
僕の手で殺害するのであれば、包丁は必要ない。包丁を処分するのなら、早めにした方がいい。
勘考している間、静まり返っていた室内に、クランの幼い声が
「おとうさんは、私にやらせてほしいの」
横顔は歳不相応なほど凛然としていた。赤い瞳の中に光を幻視する。炎のように明るく、けれど静物画のように揺らがない。彼女は初めから、いつか父親を殺す覚悟を決めていたのかもしれない。
「分かった。とりあえず、僕が先に三人の子供を……終わらせてから、ね」
殺す、という言葉を口にすることさえ、まだ躊躇ってしまう。乾き始めた口腔にパンを押し込む。心が揺らがないよう、日常を喉に詰め込む。人殺しの話をしながら食事をすることが、普通の日常だと思えるように、咀嚼して、咀嚼して、飲み下した。
「クラン、包丁は次に来るときに新しいのを買ってくるから、今のやつは僕の方で処分していいかな。もし警察に目を付けられて、家の中を調べられても、凶器が見つからなければ警察は貴方を捕まえられないから」
「包丁がなくなったら、なにで殺すの?」
「植物で毒殺しようと思ってたんだけど……」
刺殺や銃殺をするよりも、毒物の方が遺体に残る情報が少ない。毒を口に含んだこと、死因となった毒のこと、それらを突き止める為に専門家が必要になるし時間もかかる。遺族の判断次第では解剖や詳しい検死も行われずに埋葬されるかもしれない。なにせ、幼い子供の遺体だ。明確に殺人だと分からなければ、親は大事な子供の解剖なんて望まないだろう。
毒を含む食べ物を勝手に食べてくれれば楽なのだが、摂取させる方法を案出しなければならない。何の毒を使うべきか、身近にある植物を想起していれば、クランが唇を尖らせていた。
「それは、ライヒェにしか出来ないでしょ。私がおとうさんを殺す時の為に、刃物か銃がほしい」
頬を膨らませる様が子供らしい。なのに求めている物も言葉も顔に似合わないほど物騒で、苦笑してしまった。
「……そうだね。クランでも扱いやすいように、小さいのを探してみるよ。山菜採りで使ったナイフならウチにあったかも」
「銃は、お父さんが好きだったから、お部屋のどこかにあるかも。探してみて」
「そっか。それなら、後で見てみるよ。……どの部屋も覗いてみていいの?」
記憶の中でこの家の廊下を辿る。僕が入室したことがあるのは、台所と食堂、それから二階にあるクランの父親の部屋だけだ。
ふと、思い出す。シリングスに初めて会った時、自分が彼の服を着ていたことを。彼がやけに僕の服装を見ていたのは、彼がそれに気づいていたからかもしれない。だが服について、つばらに追及されることはなかったし、この家に戻っている様子もない。僕がこの家に出入りしている、とは、さすがに思い至らなかったのだろう。
シリングスとここで鉢合わせることがなければいい。そう祈っていればクランの気配が近付いた。彼女は座っているソファの端まで移動して、僕との距離を縮めていた。あのね、と、透き通った声が転がる。
「ライヒェに、見て欲しいものがあるの」
「見て欲しいもの……? どこにあるの?」
「えっと、気分、悪くなっちゃうかもしれないから、後でいいよ」
首を傾けてみせると、クランの瞳が不安げに揺れ始める。彼女の口ぶりから察するに、殺人に関連しているものか、この家のどこかで塵埃に塗れているものだろう。後者ならば気にしないし、前者だったなら見慣れておいた方がいい。
柱時計が数秒の沈黙を埋めてくれている間、顎に手を添えて思議したのち、クランに微笑んだ。
「僕は、今でも大丈夫だよ。おうちにあるの?」
「うん。一階のお部屋」
僕は席を立って、食堂の入り口で佇む車椅子に歩み寄った。車輪を転がしクランの前まで進ませる。乗りやすい角度に動かしてから、手の平で空席を示した。
「どうぞ」
「えへへ、なんだか馬車に乗せてもらうお姫様みたい」
「僕は執事か魔法使い?」
「ライヒェはどっちも似合わないよ」
「えぇ……」
クランの不健康なほど白い腕が車椅子に伸びる。室内光を受け流す肘掛けに小さな手が乗っかった。そのまま呻吟を漏らしつつ、彼女はソファから車椅子の座席に乗り移った。
座ってしまえば渋面もほどかれ、楽し気に頭が踊り始める。右に左にと傾いて、鼻歌を奏で始めた彼女を見つめていると、無邪気な顔様に僅かな影が落ちる。彼女は色を正して廊下の外を見遣っていた。
「廊下を出て、あっちに行って」
「わかった」
指示された方向は、台所や玄関に続く側ではない。食堂よりも少し先にある、二階へ続く階段を横目に、更に奥を目指す。心なしか暗がりが深まっていくような、通路の奥の奥。初めてこの家に来た時、一度だけ足を運んだ道。瞬刻だけ歩みを止めたくなったのは、あの時嗅いだ臭いを覚えているからだ。
車輪を鳴らし、跫然と進みつつ、唾を飲んだ。進めば進むほど、五感が刺激されていく。微かな明かりで蜘蛛の巣やほこりが白く浮き上がる。閉ざされている扉の傍に来た時、ひどい臭いが鼻腔を徹った。
気付けば、足を止めていた。充溢している空気が冷たく、だけどいやな温度で、ぬるりと表皮を這っていく。木造りの扉をじっと
「クラン、ここって」
「ここにね。お母さんが、いるの」
僕の位置からでは、クランがどんな顔をしているのか見て取ることは出来なかった。ただ、とても囁きに似た音吐だった。暗いわけでも、冷たいわけでもなく、まるで子守歌のような、響きだった。
「扉、開けてみて」
丸い、真鍮のドアノブに手を伸ばす。冷たいそれは埃をまとっており、ざらりとしていた。少しだけ、指先が震える。パンドラの匣を開けるように、決然と金具の音を響かせる。手首を捻ったまま扉を動かした。木材が軋む音に、飛び交う虫の羽音が重なった。
眼前に蝿が飛んできたものだから思わず身を引いた。半分ほど開いた扉から室内を窺う。何匹もの蝿が横切る室内は、物置みたいだった。木箱や布、陶器、楽器などが乱雑に置かれている。黒いピアノは雪化粧を施されたように埃まみれだ。正面の物を観察してから、半開きの扉を大きく開いて、死角になっていた部屋の中央へ焦点を移し──背筋が粟立った。
女性が、そこにいた。人形のように吊られたまま、そこにいた。
太いロープで括られた首は長く伸び、血の色を感じられない肌は蠢いていた。蛆だ。数え切れないほど湧き出した蛆が、女性を蝕む。皮膚がひどく
泡が弾ける水音みたいな、ぴちゃぴちゃとした音。蠢いてぶつかり合う蛆の音。女性の爪先から床に落ちていく、滴のような蛆たち。
乱れた呼吸音は、殷々たる扉の音に食いつぶされる。僕は、無意識の内に扉を閉めていた。思えば、腐敗した死体を見たことも、あれほど群がる蛆を見たことも、これまでになかった。
部屋から出てきた数匹の蝿が目の前を飛んでいく。煩わしい羽の音に眉根を寄せて、ゆっくりと息を整える。総毛立った肌は未だにざらついていた。はぁ、と咨嗟を吐き出してから、クランが横にいることを思い出した。
彼女の母親を目にし、扉を叩きつけるように閉めた挙句溜息を吐くなんて、失礼だろう。けれど弥縫することも難しいくらい、頬は熱を失ったまま、きっと蒼褪めていた。
「ご、ごめん、クラン……虫は、あんまり得意じゃなくて」
「ううん。嫌なものを見せてごめんね」
首を左右に振ってから、閉め切った扉を見つめた。耳をすませば、まだ虫の音が聞こえてきそうだった。鼻はもう慣れてしまったのか、死臭さえ分からなかった。
彼女の母親の腐敗状態からして、死後数か月は経っているはずだ。遺体を埋葬してもらったり、死亡届を出して貰ったり、どうにかした方がいい。けれど、殺人者である僕達が警察に接触するのは、出来れば避けたかった。あの亡骸はこのままにしておくしかないのだろう。
瞼を下ろす。交睫して、黙祷を捧げた。安らかな眠りが訪れることを祈り、睫毛を持ち上げる。
「クラン、貴方のお母さんは、どうして……」
「私のせいなの」
赤い眼差しが、僕を仰ぎ見た。車椅子の背もたれに旋毛を預けて、真っ直ぐに僕を見上げる彼女。僕が落とす影が、血のような虹彩に佇んでいる。それは泡の形に歪んで、真白な頬を滑り落ちていった。彼女は泣き笑う。その真情を気取らせてくれないまま、彼女は言った。
「私とお母さんの話、聞いてくれる?」
そこに返答は必要なかった。彼女は喃喃と語り始める。淡々とした声は次第に乱れていく。それは、愛し合っていたのに、傷つけあうことしか出来なかった親子の話だった。
まるで懺悔のようだと思った。クランは、自身を許したくて、自分を許されたかったのかもしれない。僕はただ、黙ってそれを聞いていた。涙の音が聞こえなくなるまで、そうしていた。
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