「wunde」6

     (五)


 クランに謝ろう。意を決して開いた扉の向こうに、クランの姿はなかった。食堂や台所にもいない。包丁も見つからなかった為、昨日告白された『殺人』という言葉がますます現実味を帯びていく。乾いたまな板を指でなぞってから、台所の扉を開けて廊下に出た。


 彼女はきっと、人を殺しに向かったのだ。それが分かっても彼女がどこに向かったのかは分からない。痛む足で歩くのだから、早くは歩けないだろうし、そう遠くまでも行けないはずだ。


 事件の被害者の子供はおそらく全員彼女の同級生。とすれば、通っていた学校の近辺や通学路に向かう可能性が高い。僕はこの街で育ったわけではない為、小学校がどこにあるのか分からなかった。


 地図や学校からの手紙など、どこかの棚に入っていないだろうか。手掛かりを探るべく食堂に駆け戻る。奥にある横長の棚に近付いて、ふと、棚の上に置かれている小物の中で、装飾の施された小銃だけが綺麗な状態でそこにあることに気が付いた。他の置物よりも埃が被っていない。試しに軽く弄ってみれば弾倉が外れて、レンコンのように穴の空いた薬室が露わになる。その造りは模造銃とは思えなかった。クランが『最初は銃で撃っていたが弾がなくなってしまった』と言っていたことを思い出した。


 これが、連続殺人事件の最初の凶器なのだろう。急に重みが増したような気がして、グリップを握る手が震える。一度棚の上に置き直し、棚の中を漁っていく。何かの書類が入っている戸や、布が入っている戸、手紙が入っている戸を開けたところで、僕は次の取っ手に手を伸ばすのをやめた。


 手紙を一通一通、差出人の名前を見ながら棚の上に出していく。やがて見つけた小学校からの手紙を持ち上げる。それがこの棚に入っていた最後の一通で、木製の底が見えたのと同時に、銃弾が隠すように収められていた。


 僕は手紙をよけておき、銃弾を摘まみ上げる。先程の空の弾倉にそれを込めてみた。一つ、二つ、計六つの鉛弾を押し込んで、弾倉をスライドさせて元の位置に収める。撃鉄に軽く触れてから扱い方を脳内で思い浮かべる。何かあった時の為に、僕はその小銃を懐に収めた。


 改めて手紙を見遣る。小学校の住所を確認してから何の気なしに裏返した。宛名を、呆然と見つめていた。


 クラウディア・シリングス。


 それが、クランの本当の名前なのか、それともクランの母親の名前なのかは分からない。それ以上に、そのラストネームが僕の喉を嗄らしていく。


 僕は弾かれるように顔を上げて、棚の上で倒れていた写真立てを起こした。蜘蛛の巣が千切れて空無を泳ぐ。家族写真に映っていたのは赤ん坊を抱いている女性と、彼女の肩を抱いて笑う男性。その笑い方は見覚えがあった。その眼差しも、数刻前に見たばかりだ。モニカがシリングスと呼んで慕っている男の姿が、色のない紙上にある。


 僕は写真立てを倒した。元の通りに倒したつもりだった。力を込めたのは自分だというのに、意外にも大きな音が響いたせいで心臓が跳ねていた。


 出しっぱなしになっていた手紙を全て棚の中に戻す。記憶した住所を頭に浮かべながら、通学路と思しき道を辿る為に家を飛び出した。


 外は薄暮れに塗れている。向かい来る夜はまだ遠い。閑散とし始めている街路を早足で進みながら周囲にも意識を向ける。買い物帰りの女性達や、公園の前で手を振り合う子供。すれ違う人々の気貌は穏やかで、新たな殺人が起きたという話は聞こえてこない。公園の木々が、静かな風の音を孕んで揺れていた。金銀木の赤い果実がクランの瞳を想起させる。


 もし、クランが人を殺しているところに遭遇したら、僕はどうするつもりなのだろう。彼女の傍にいる覚悟は決めた、つもりだった。けれど実際に何をするのか、想像がつかない。彼女が捕まらないように証拠となるものを隠したり、人を殺しに行く彼女に追随して、犯行現場を目撃されないように見張ったりすれば力になれるのだろうか。


 すべきことも意志も固まらないまま、気付けば駆け出していた。公園から離れた静かな道で、隘路に踊り入っていた。


 筒音が上がる。両腕を跳ねさせ、耳をろうしたそれは、逡巡を引き裂く響きだった。


「ライヒェ……?」


 余韻が薄れるにつれて、衝動で乱されていた意識が鎮められていく。震える銃口を垂下させた。足元には、後頭部を撃ち抜かれた男性が転がっている。その向こうには血塗れの少年と、包丁を握りしめる少女の姿が在る。彼女の眼窩で、瞳孔という灯芯に明かりが点いていた。


 喧騒と程遠い頭上の、天心から落ちてくる空寂に包まれて、僕は喘鳴じみた吐息を飲み下した。何故自分がここに飛び込んだのか、自分が何をしたのか、先走った体には数秒前の情報が遅れて届く。


 叫び声が聞こえた。子供の泣き声と、男性の咎めるような声。それにつられた諸目が捉えたのは、黒い制服に身を包んだ警察の男性で。少女の悲鳴が男性の怒号に打ちすがった。その哀哭は僕を呼んだ。僕の名前を象ったわけじゃない。僕の焦慮を引き摺り出した。飛び出さずにはいられなかった。なにせ、垣間見たのは探し人の音容だったのだから。


 小暗い細道に、絶え絶えの息ばかりが音を生む。クランは何も言わずに僕をじっと見つめていた。あの日、簡単にほどかれた視線は、結ばれたまま千切れない。僕は彼女に近付いた。


 跫然と音立てたのは靴と砂利だけなのに、踏みしめた羶血が水音を鳴らしたように感じた。


「ねえ」


 吐いた息吹は力なく揺れていた。かじかんだ両手がグリップから離れない。気抜けた顔で僕を見上げる彼女に微笑んだ。ひざまずいた足が血で濡れるのも構わず、彼女と目線の高さを合わせ、地面に片手を突いた。


 見知らぬ少年から流れた命が冷えていって、その熱が消えるのを手の平で感じながら、瞼を伏せた。


 それはただ、自身の怯懦きょうだを覆い隠す為の行為で、けれどクランの目には懇願として映っただろう。そうであればいいと願った。でなければ、彼女の中で僕は噓吐きのまま終わってしまうから。


「クラン。これで僕も、貴方と同罪だ。これで、貴方と同じ生き方ができる。だから、貴方の傍にいても、いいかな……?」


 心音が、沈黙を激しく揺さぶっていた。落ち着け、と自身に言い聞かせる。睫毛を持ち上げて、片手に握った小銃を見つめた。それから、亡くなっている男性と少年を、両目で辿る。


 これが、人を殺すということなのだ。どこまでもけざやかな赤が角膜を焼いていく。目の奥も、体中も、焦りと恐怖で熱を持っていた。それでも逃げ出すわけにはいかない。逃げ出さないために、引き金を引いたんだろ。


 僕は痙攣する手のまま拳銃を懐に収めた。深く、息が詰まりそうなほどに深呼吸をする。震える全身から力を抜こうとしたが、まるで零下の空気が漂っているみたいに四肢は凍えたままだった。


 人の声が近付いてくるのを感取して、鳥肌が立つ。僕は座り込んだままのクランに身を寄せた。


「ひとまず逃げよう。包丁貸して。誰かに見られたらまずい。ごめんね、痛むかもしれないけど抱えるから。少しの間だけ我慢して」


 声量を押さえた言葉が息無しに転がっていく。預かった包丁を外套のポケットに突っ込んで、情けないくらい震える手でクランを横抱きに抱き上げた。やはり痛んだようで、引き攣った悲鳴が胸元にぶつかる。泣き声を堪えるクランの姿は痛ましかった。


 なるべく早く彼女を下ろしてあげられるよう、息が荒くなるのも気にせずに駆け出して行く。両腕に力を込めればクランの呻き声が溢れる。人気のない街路に疾駆する靴音が高く響く。申し訳ない気持ちと焦燥感がひたすら呼吸を乱していた。


 何度か通行人とすれ違ったが、心配そうに見られただけで怪しまれた様子はなかった。はたから見れば、怪我をした妹を抱きかかえて帰る兄、みたいに見えたのかもしれない。少しだけ安堵して、そのまま走り続けた。


 クランの家は草木が生い茂っており、落ちる影が濃く、どこよりも早く夜が訪れているような場所だ。夕焼けに背を向けて夜気が漂う庭の中へ駆け込んだ。街の喧鬧から遊離した静けさに息衝き、玄関のポーチにクランを下ろしてやった。


 考えなければならないことはいくつもある。凶器である包丁をどうするか。まだ殺しを続けるにしても、いずれ隠さなければならない時が来る。この刃渡りでは処分するのが難しい。


 逃げる前に包丁で自身を傷付けてから、『犯人が僕を切ったところで警察が現れて、犯人は包丁を取り落としてすぐ銃を抜き、警察を射殺した』ということにでもして被害者を装った方が良かったかもしれない。けれど今更だ。


 靴や服など、血に塗れたものも処分しなければ、と思惟していれば、ポーチに座り込んでいたクランが立ち上がった。


「ライヒェ」


 雪肌は僅かな返り血で染まっている。それとよく似た虹彩は水紋を広げるように潤んで、斜陽に涙という形を与えていた。彼女が落涙すればするほど、幽かに射していた落日が夜の影に沈んでいく。


 クランの手が持ち上がった。蒼白いその肌はとても脆い。それを誰より知っているはずの彼女が、繊細な指で僕の袖を掴んだ。泣き顔は更に歪んで、大粒の雫を零していく。


 触ってはいけない。掴むのをやめさせようとした僕の手は、空気だけに触れたまま固まっていた。袖を引っ張っていた指が離れて、今度は僕の手首に絡みつく。痛いはずなのに、小さな手は骨が浮くほどの力を込め、僕の袖に深い皺を刻む。突き放すことは出来なかった。きっと彼女は、僕が無痛症でなければ痛みを覚えるくらい強く、握ってくれていたから。本当なら、痛みを分け合えたはずなのだから。


 僕は痛痒を感じないまま、同じ悲愴に目顔を歪めてクランと見交わした。ほんの少し口角を持ち上げて、彼女の言葉を待っていた。


 横切った風声みたいに、クランのしゃくりあげる息が響いた。


「ライヒェは、私が人殺しでも、傍にいてくれるの……?」


「傍にいるよ」


「でも、見たでしょ、本当に人を殺してるんだよ?」


「クランも見たよね。僕だって、人を殺したんだ」


 事実を平明に口に出す。はっきりと唇を動かして、自身の耳をも貫くほどの力で、僕は言った。現実逃避など出来ないくらい、自分の罪を噛み締める。あの時の死臭と、血と脂の色艶を、僕はまだ近くに感じていた。臭いは鼻腔に沁み付いて、色彩は瞼の裏にこびりついている。嘔吐感が込み上げるくらい身が竦むのに、笑うことしか出来なかった。


 赤らんだ視野に光が落ちる。クランは、ただの独りぼっちの少女の顔で、泣いていた。


「でも、でも。私と……こんな私と、まだ、一緒にいてくれるの……?」


 泣かないで欲しいと思った。孤独に呑まれて、七情を壊されていく彼女なんて見たくなかった。僕はただ、彼女の孤独を壊したかった。


 後戻りはできない。それで構わないのだ。


「そんな貴方だから、離れたくないんだよ」


 クランは笑う。とても綺麗に。とても、可憐に。植物園に咲くどの花よりも美しく、ふわりと咲笑う。


 この笑顔は彼女を糾罪したときに枯れてしまう。水を注ぐように、罪を肯定し続けなければ彼女は萎れてしまう。誰にも受け入れてもらえない、孤独という毒に蝕まれて、そうしていつかは──僕のようになってしまう。


 誰も、この苦しみを理解し得ないのだろう。僕とクラン以外の誰も、『当たり前だと思っていることを否定されて窒息していく感覚』を、知らないのだろう。


 だから僕はクランから離れられない。そうしなければ彼女が息衝けないことを、僕だけが知っているから。美しい観賞魚が水槽の中でしか生きられないことを、僕は知っているから。


 たとえ間違いでも、罪だとしても、僕だけは彼女の傍にいてあげなきゃいけないんだ。

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