「wunde」5
*(四)
いつからか、私は毎日痛みを感じていた。足元には見えない針が敷き詰められていて、衣服に袖を通せば炎を纏うみたいだった。人に触れられようものなら、どうして血が流れないのか不思議なくらい痛みが走る。
朝起きて、泣きながら歩いていって、お母さんにもっと痛めつけられて、泣き声がうるさいってお父さんに怒られる。お父さんは私に近付かなくなった。お母さんはどれだけ嫌がっても私に痛みを与えてくる。そのくせ泣き叫ぶ私に『ごめんね』とこぼすものだから、お母さんのことが分からなかった。
成長するにつれて、涙を堪えられるようになっていく。それでも痛い。痛いのを押し隠しながら学校に通うことになった。初めて登校した日は、お母さんと一緒だった。他の子供達も親と一緒に歩いていた。前を歩く親子は手を繋いで笑っていた。嬉しそうな子供の頭を撫でる親もいた。当たり前のように触れ合って、痛みなど感じていないように笑う彼らは、私から見たら異質だった。
変なの。あんなことしたら痛いのに。
そうやって白眼視していた私の目は、お母さんからしたら羨望しているように見えたのかもしれない。お母さんは私を呼んで、手を差し伸べてきた。
「手、繋ぎましょう」
目尻に皺を寄せた優しい顔。それが怖い。この人はいつも、敵意のない顔をして私を痛めつける。今もそうだ。彼女の手を取ったら、私の肌が焦がされる。
「やだ」
「でも、はぐれたら危ないわ」
「痛いからいやなの!」
伸びてくる手から逃げるように距離を開いた。すると後ろから走って来た男の子に突き飛ばされて、私は痛みに焼かれながら石畳に転がった。石畳は熱した鉄のよう。震えた喉から悲鳴がほとばしっていた。
痛い。痛くて堪らない。ぶつかってきた男の子とその母親が謝っているが、彼らの声すら私の叫びに掻き消される。泣き止まない私の頭に、熱が注がれた。お母さんの手だった。
「大丈夫よ、痛かったわよね。大丈夫……」
「っいたい……」
「血は出てないみたいね。良かった。大丈夫よ」
お母さんの影に包まれる。泣き声はその胸に受け止められて、強く抱きしめられた。私の体を締め付ける腕も、後ろ髪を撫でる手も、全て、火に油を注いでいくようなものだった。
「やめてよ、痛いの‼」
耐えられなくて突き飛ばす。バランスを崩して街路に座り込んだお母さんは、青ざめて吃驚していた。それからすぐに疲弊した顔で微笑む。傷付いた瞳が私を打ち守っていた。眼差しには温度も形もないはずなのに、私の肋骨をしかと突き刺した。
自分の目顔が歪んでいく。悲しみと苛立ちが溶け合っていく。お母さんは私の鞄を地面から拾い上げて、ひどく辛そうに笑っていた。
その日、私はたった一日だけで、たくさんの人に傷付けられた。廊下では何回もぶつかられて、教室では無理矢理手を握られて、肩を叩かれて、腕を引っ張られた。ずっと涙が溢れて、帰る頃には瞼が腫れていた。
私は部屋に閉じこもった。学校なんてもう二度と行きたくなかった。街を歩くだけでもぶつかられるから、外にだって出たくなかった。お母さんに痛いことをされるから、部屋からも出たくなかった。
真っ暗な部屋に、ノックの音が響く。お母さんは簡単に扉を開ける。簡単に、部屋の中を歩いてくる。その床は棘だらけなのに、どうして表情一つ歪めないでいられるのだろう。
「お腹空いたでしょ。ご飯、食べないとダメよ」
「……歩きたくない」
「……学校、辛かった?」
窓から差し込む月明りを浴びて、私の影が部屋の入口まで伸びている。お母さんはその影の中に膝を突いた。困ったように微笑む顔が、私の目線の高さにある。私は唇を引き結んだまま頷いた。もう行きたくないと告げたかった。だけどそうする前に、目界に落ちる陰影が色濃くなる。
お母さんの腕が持ち上がっていて、私の額を暗然と色付けた。何をされるのか分かると同時に、その手を払い飛ばしていた。
「っ、ごめんなさい、嫌だったわよね」
痛い。一瞬触れただけの体温が熱くて、じわじわと表皮を炙る。お母さんの目が、声が、私の心臓を潰そうとする。もう嫌だった。
「どうしてそんな顔するの」
掠れた泣き声が私の喉を引き裂いて飛び出す。お母さんは引き攣った笑みのまま凍り付いていた。そんな姿を見たら、更に感情を堪えられなくなった。
「どうして私に触るの? 痛いからやめてって何度も言ってるのにどうして分かってくれないの……! 痛いことをされて泣きたいのは私なのに、なんでお母さんが泣きそうな顔するの⁉ 私が悪いみたいじゃない……!」
お母さんに触られると体が悲鳴を上げる。お母さんが悲しそうな顔をすると体の内側が痛む。お母さんのせいで、全身が痛かった。ぼろぼろと涙が零れる。それでもお母さんを睨み続けた。うろたえる虹彩も、戸惑う唇も、全て私を非難しているみたいで嫌だった。
困り顔が目の前にある。お母さんが私のことを理解しようとしているのか、私には分からない。誤魔化しの笑みを漂わせた彼女は、落涙し続ける私に身を寄せた。
「違うの。そうじゃないのよ。ごめんね、クラ──」
「触らないでよ!」
金切り声みたいな拒絶は、私自身の耳に傷をつける。きん、と高く響いて、耳鳴りみたいに余韻が留まり続ける。お母さんは私に向けて伸ばしていた手を下ろした。諦めて下ろした、というよりは、糸が切れた人形みたいに、その手はふっと落ちて行った。
静まり返った暗室の中で、私は俯いていた。お母さんの影が揺れる。お母さんの影の中に、流れ星がちらちらと落ちる。
顔を上げてみると、お母さんは、両手で目元を覆って項垂れていた。悲しみで乱れる息遣いは、いつの間にか私のものではなくて、お母さんのものに変わっていた。
「私、どうして……娘を抱きしめてあげられないの……?」
お母さんは、呟いてすぐに、私の部屋から出て行ってしまった。私は一人きりの暗闇に残された。お母さんが零した涙の痕が、床に点々と残っている。なんで、と声にならない声が溢れた。
抱きしめるとか、撫でるとか、そんなことが親子の間でそんなに大事なのだろうか。私がどれだけ痛いか、どうして分かってくれないのだろう。触れ合わなくたって、ただ、優しく声をかけてくれるだけだったのなら、私もお母さんのこと、大好きなままでいられたのに。
お母さんは、毎日私の部屋にご飯を持ってきてくれた。「ちゃんと食べるのよ」とだけ言って、すぐに出ていくようになった。時折、家のどこかでお母さんとお父さんが喧嘩をしていた。部屋に閉じこもっていても聞こえてくるのだから、よほど大きな声で言い合いをしていたのだと思う。
ある日、私がベッドに座ってお昼ご飯を食べていた時、お母さんが部屋に入って来た。私の部屋のカーテンは閉まっていたけれど、隙間から溢れる天光は明るくて、久しぶりにお母さんの姿をちゃんと見た。
シャツから垣間見える鎖骨の形がはっきりしていて、腕も手首も細く、扉を閉めた手も骨が浮いていた。お母さんはこんなに痩せていただろうか、と、ぼんやり思っていれば、私の隣にお母さんが腰を下ろした。
「……美味しい?」
お母さんは、私の顔を覗き込んで穏やかに笑った。私は子供じみた意地を張り、お母さんから顔を逸らした。無言のままポテトサラダを頬張って飲み込む。空いた皿を、顔も見ずにお母さんへ差し出した。
お母さんはそれを受け取っても、立ち上がろうとはしなかった。すぐ傍から、気配が動かない。気まずくなって、私が折れた。お母さんのことを真っ直ぐに見た。窶れて落ち窪んだ目が、皺を作ってしなる。血色の悪い唇が震えていた。
私が待ち望んでいたのはきっと、ごめんねって言葉。それから、もう触らないからって、突き放すようにではなく、優しい声遣いで、そう言ってくれたなら良かった。触れ合わない距離を保って、それでも私の傍を離れないでくれるという、そんな類の言葉が欲しかった。
だけどお母さんは、ささめきくらいの細い声で言った。
「今日だけ……一度だけでいいの。貴方を抱きしめさせて」
私は耳を疑った。あれだけ痛みを訴えたのに、泣き叫んで拒絶したところで届かなかったことに、とても落胆した。同時に恐怖を覚えた。お母さんは私が受け入れてくれると信じて、片手を伸ばして来たから。
血の気が引いていくのを自覚していた。頬の熱が透き通っていき、自分は今、蒼白の顔をしているだろう。硬直するほどの怯えは、お母さんにも伝わった。お母さんは、私に触れる前に腕を引っ込めていた。
「ごめんね。なんでもないわ。……ごめんなさい」
吐息まみれの涙声が、私を俯かせる。私に罪悪感を抱かせる。私は悪くない。私に痛みを与えようとするお母さんの方が、悪い。そう思い続けていたかった。
お母さんのスカートが揺れて、すぐ傍にあった気配は遠ざかる。お母さんの靴だけが音を立てていた。一歩、二歩、遠ざかって、早くいなくなって欲しい気持ちと、引き止めたい気持ちが心を乱していた。
私は顔を上げることが出来ずに、自分の影を眺め入ったまま、扉の音差しに耳を傾けていた。
「お母さんね、貴方のこと、愛しているのよ」
温かい声に、私は泣き顔を持ち上げた。だけど、お母さんはもう、扉の向こうに行ってしまっていた。
お母さんは、それから私の部屋に来なくなった。食事を持ってきてくれることも、なくなった。家の中は静かだった。まるで誰もいないみたい。お腹が空いた時だけ部屋を出て、台所の食べ物を食べる日々。お母さんのことは好きじゃなかった。だけど、ずっと会えないのは、気がかりだった。
廊下を歩いている時、何かが軋む音が聞こえた。お母さんがいるのかもしれない。そう思って、音が聞こえた部屋の扉を開いた。
お母さんは、そこにいた。天上の
「おかあ、さ……」
お母さんのことは、好きじゃなかった。それなのに、涙が溢れて止まらなかった。お母さんの優しい声がまだ耳に残っていた。
お母さん、と呼びかけ続けて、青白い足を掴んで揺さぶった。両手が痛くて、熱くて堪らなかった。それでも冷え切った肌に触れ続けたのは、温めれば目を覚ましてくれるかもしれないと、思ったからだった。けれど、痛みを堪えて熱を注ぎ続けたところで、その睫毛はもう動かなかった。
床に座り込んでお母さんのことを考えた。学校に行ったとき、楽しそうに触れ合っていた親子のことを、考えた。どうして娘を抱きしめてあげられないのかと、泣き出したお母さんを思い出していた。
全部、私のせいなのだろうか。痛いのを堪えて、お母さんの抱擁を受け入れていたら、こうはならなかったのだろうか。お母さんの望んだ親子に、なれたのだろうか。
「愛してるなら、いなくならないでよ……」
突き放したのは、私だ。お母さんを苦しめ続けたのも、私だ。全部分かってる。でも、私だって本当に痛かった。痛くない愛が、知りたかった。痛みのない形で、愛して欲しかった。そうすればずっと一緒にいられたのに。
次の日から、私はお父さんを探して、痛い街を歩き回った。そうしているうちに、学校の先生に見つかって、学校に連れて行かれた。それからは暫く、普通の子供みたいに、学校に通う努力をした。
だけど日常的に味わう激痛が、普通の子供でいることを許してはくれなかった。痛くて堪らないのに、その程度で痛がる私が悪いと、私のせいにする全てのものが、許せなくなっていった。苦しくて、お母さんに会いたくて仕方がなかった。
自殺という大罪を犯したお母さんのところに、私も行きたかった。
そんな中で出会った彼、ライヒェ・カレンベルク。彼の眼差しはいつかのお母さんと同じくらい優しかった。葉っぱに留まる雫みたいな、透き通った翠の瞳。光を浴びると稲穂のような黄金に煌めく、柔らかな茶髪。瑞々しい草花を思わせる落ち着く香り。怯えさせないことを意識したゆったりとした仕草。私は、彼の全てに安らぎを覚えた。
ライヒェは、私に痛みのない愛を教えてくれる。
そう思い始めていたのに、結局彼も他の人間と変わらなかった。外側から痛みを与えられることはなかったものの、彼の言動は私の内側を寸断していった。優しい彼でさえ、私が悪いと口にする。その事実に私が壊れてしまいそうだった。
家から公園までの道を歩く私の眼路はぼやけていた。ライヒェと一緒に歩いた道は彼を思い出させる。一歩一歩痛みを確かめるうちに、車椅子の心地良さが恋しくなる。彼は、少しでも私を痛みから遠ざけようとしてくれた。彼の優しさは嘘でも媚びでもなくて、透明なくらい純粋に、私の為のものだった。
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