「wunde」4

     (三)


 人を殺すのがどういうことなのか、深く考えながらマウスの腹部をそっとなぞる。縫い合わせた腹の中で臓器が脈打つことはない。先程取り出してから元の位置に詰め直した内臓を軽く潰し、僕は机上のメスに指を滑らせた。あとはこのマウスを教卓で返却して帰るだけだが、肉を押しひしぐ感覚を少しだけ知りたかった。


 掌中に握りしめたメスを勢いよく振り下ろす。縫い目へ沈んだ鋭端は思いのほか強い力が込められていて、容易くマウスを貫通し、机を軋ませた。鈍い衝突音が響いて我に返る。まだ教室に残っていた生徒達が僕に瞠目を向けていた。


 ゆっくりとメスを引き抜く。手が震えるのは注目を集めてしまったせいなのか、生きていた物を貫いたせいなのか、判断がつかない。刃物を一度打ち下ろすだけでも緊張じみた強張りが腕に絡みついていた。クランは、何度も何度も包丁で人を突き刺して、慄然を覚えなかったのだろうか。


 メスに付着した血液を洗い流すと、僕はマウスを持ち上げて教壇へ向かった。そこで待っていたベルンハルト先生が、かすかな周章で黒目を揺らしていた。


「カレンベルク、君、どうしてマウスにメスを突き立てたんだ」


「あ……えっと、すみません。その、蝿が飛んでて……何かで仕留めないとと、咄嗟に……」


「そ、うか。そうだ、車椅子は気に入ってもらえたか?」


 昨夜のことを回想すると暗然とした気持ちに圧し掛かられる。それを振り払って、楽しかったことだけに目を向けた。車椅子に感動して喜色満面だったクランが、恋しくなった。


 首を傾げている先生に、僕は緩やかにうそ笑む。


「はい。昨日は、二人で植物園に行ったんです。とても楽しめました」


「それはなによりだ。気を付けて帰るんだぞ」


 卓上の箱の中にマウスの亡骸を寝かせて、先生に会釈をしてから教室を後にする。かからめく廊下に片耳を押さえたくなりながら、生徒の波を縫っていく。この数週間、放課後は毎日のようにクランの家へ向かっていたため、彼女のことをどうしても考えてしまう。


 クランに会って謝りたい気持ちと、今謝ったところで昨夜と何も変わらないのではという不安が心中で撹拌されていて、重苦しい大息を吐き出した。鬱懐が胸に広がるたび、僕にかかる重力だけがとても重くなっているみたいで、へたり込んでしまいそうだった。


 どうすればクランと一緒に居られるのか、繰り返し繰り返し熟思している。脳室を飛び交う善悪の定義は金属のように固く、ぶつかり合っては火花を散らす。知恵熱が出そうなくらい熱くなる額を押さえていれば、突然腕を引っ張られて瞠若した。


 僕を心配そうに見つめていたのは、モニカだった。


「ライヒェ、大丈夫?」


「……ちょっとぼんやりしていただけです」


「そうじゃないよ。君、いきなりメスをマウスに叩きつけてたって聞いたんだけど。頭がおかしくなったんじゃないかって、ついさっき噂されてたよ」


 モニカは僕の腕を掴んだまま廊下を進んでいく。振り払うわけにもいかず、渋々身を任せて、顔を顰めた。きっと同じ授業を取っていた生徒が、教室を出るなり話題の種にしたのだろう。隣を歩くモニカの碧眼が僕を咎めるように射抜くものだから、気まずくなって目を逸らした。


「ああ……虫が飛んできたから叩き潰そうとしたんです。打ち付けたら、たまたまマウスを置いていたところだったってだけで──」


 繊指が目の前に伸びてきた、と思うと、僕の頬を包み込んだ両手が、半ば強引に彼女と向き合わせようとする。互いの鼻先が触れ合う、その一歩手前、髪筋ほどの隔たりを挟んで僕達は相対していた。穴が空くほど眼窩を見つめられて息を呑む。まるで、眼球の状態を診ている医者だ。真っ向からぶつけられる憂慮に困り眉を作って見せれば、彼女の手は離れていった。


「ホントに平気? 疲れてない? ドラッグとか、手を出したりしてないよね?」


「してないですよ」


「ならいいんだけど、心配になっちゃって」


 その心配は、どの程度のものなのだろう。誰にでも好かれる彼女にとって僕は特別な存在でもなんでもない。


 この学校に来たばかりのことを、喚想する。同級生に自己紹介するとき、無痛症であることと、この病を治す術を探していることを、僕は語った。すると数人の生徒が『本当に痛みを感じないのか』と僕に興味を抱いた。最初は肩を叩くなどの、じゃれ合いじみた軽い接触を繰り返され、次第に胴や顔に拳を打ち込まれた。僕が痛みを感じないというのは、その頃にはもう証明されて、死体くんなんていう仇名を付けられていた。


 この学校でモニカと再会したのは、その後だ。彼女は『死体くん』と呼ばれ馬鹿にされている人間を、僕ではないかと予想して、僕の同級生に『死体くんに会いたいんだけど』と声を掛けたらしい。


 彼女は僕を殴った同級生と楽し気に話しながら、ガーゼと痣だらけの僕の前に現れた。


『やっぱり君のことだったんだね。無痛症って怪我をしやすいって聞いたけど、ほんとに傷だらけ』


 そう言って笑った彼女は、僕が人に殴られたなんて、思ってもいないみたいだった。死体くんと呼ばれていた僕を、心から心配したことなんてあるのだろうか。


 気分が落ち込んでいるせいで疑懼ぎくばかりが込み上げてくる。優しくされているのに信用できない。クランも、こんな気持ちだったのかもしれない。


 僕は自嘲しながら顔を上げた。


「モニカ先輩は……もし貴方の目の前で僕が酷い大怪我をして、骨が折れて、たくさん血が出ているのに笑っていたら、どうします? そんな僕を周囲のみんなが気味悪がってても、心配だからって、僕に駆け寄ってくれるんですか?」


 言問うことに何の意味があるのか、自分でも分からずに訊ねていた。確かめたいと思ったのは、どうしてだろう。声だけが先走って、モニカが吃驚している間、なぜそんなことを言ったのか自問する。


 クランなら、濁りのない、まさやかな眼で笑ってくれるはずだ。クランだけが僕の味方でいてくれる。けれどモニカの回答次第で、僕はその思いを砕くことができる。


 沈着と、味解してから苦笑する。僕は自分ですべき選択を、モニカに委ねたのだ。


 クランがいなくても再び友達は作れると、未来に期待してクランから離れるべきか。それとも、やはり僕にはクランしかいないのだ、と、彼女の元に戻るべきか。


 情けなく、狡い話だ。それでも、僕はもうクランに対してどうしたらいいのか分からなかった。


 モニカの整った玉顔が柔らかな空気を纏う。彼女は大きな二重瞼を弓なりに撓らせた。


「大怪我をしているのに笑っていたら、もっと心配になるよ。気が動転している人をそのまま置き去りになんてしない。手当てしないとダメでしょ? ……ってもしかして、どこか怪我でもしたの?」


 まじりけのない優しさを前にして、心音が落ち着いていく。僕はただ、人間不信をこじらせていたのだと思う。裏切られることが怖くて、信じたくなくて、気にかけてくれる人にさえ『どうせ上辺だけだ』なんて思っていた。自分で壁を作っていただけで、クラン以外にも、僕を軽蔑しないでくれる人はいるのだ。


 ふっと愁眉を開いた。けれど寂しさも湧いてくる。クランと過ごした日々は、本当に楽しかったから。


 クランに出会うまでの日常に戻ろう、と、自分に言い聞かせた。肩の力を抜いて、歩き出す。


「……変なこと聞いてすみません。怪我したわけじゃないので大丈夫です」


「そう? 困ったらいつでも言ってね」


 頭を軽く振って頷いた。校舎の外に出てすぐ、学校の敷地内で見覚えのある男性が立っていた。誰だったか思い出したのは、モニカが「あっ」と嬉しそうに声を上げてからだ。


 確か、モニカの知り合いの、シリングスという男性だ。知り合い、というには二人の距離が近かったことを思い出し、気まずさを覚えた。シリングスに駆け寄っていくモニカから顔を背けるも、意外にも彼に声を掛けられたのは僕だった。


「ライヒェくん、また一緒にいるんだな」


 やはり二人は恋仲なのだろう。棘を孕んだ呼びかけに笑みを引きつらせて、僕は会釈をした。改めて伺察してみると、シリングスは高価に見える衣服をまとっている。上品な艶のあるジャケットに、洒落たカフスボタンが煌めくシャツ。襟にも繊細な装飾が施されていた。


 僕が黙っていれば、モニカがシリングスに頬を膨らませる。


「友達だもの、会ったら話くらいするでしょ?」


「あの、僕はこれで」


「ライヒェくん。今日は質素な格好なんだね」


 引き止められるとは思っておらず、つい駭目してしまった。僕が彼の服を不躾に観察していたから、不快に思ったのかもしれない。彼はもうモニカを見ていると思っていたため、完全に虚を突かれた。


「服は……いつも、こんな感じです」


「そうかい? この前は良いシャツを着ていただろう? 服に着られているようだったよ。背伸びはしない方がいい。君には今みたいな恰好の方が合っている」


「え、と。ありがとうございます。シリングスさんはお洒落な服がよく似合いますね」


 愛想笑いはどんどん歪になっていく。寒気が背筋を下っていった。初めて出会った日、僕が他人の服を着ていたと見抜かれていたようで落ち着かなかった。だが恐らく単純に、愛人であるモニカの前で僕を馬鹿にしたいのだ。波風を立たせぬよう媚び諂う。笑み交わす僕達の間に、モニカが割って入った。


「シリングスさん、言い方が悪いから誤解させちゃうよ。つまりライヒェは着飾らなくたって素敵だ、ってことでしょ?」


「あの、気遣ってくださってありがとうございます、モニカ先輩」


「ちょっと、お世辞とかじゃないよ? 私も君は、煌びやかな服よりシンプルな服の方が似合うと思う。それに、私達より長く生きてる大人のアドバイスを聞いて損はないよ」


「ははっ、モニカ、年寄り扱いはやめてくれ」


「っごめんなさい、そんなつもりじゃなかったの」


 謝辞と共にシリングスへ詰め寄ったモニカ。その楚腰を抱き込んだ彼が、モニカの首に口付けを落とす。嬉しそうな吐息を漏らしたモニカに彼が囁くと、二人は体を離していた。


 こちらを振り返ったモニカが僕に片手を振り、シリングスと腕を絡める。


「じゃあ、またねライヒェ」


 二人が歩いていったのは、校門の方ではない。校舎の壁側に身を寄せて、密談を始めていた。行き交う生徒達の合間から見えたのは、学校の庭で堂々と接吻を繰り返す姿。僕は皺を寄せた眉根を押さえて、一度家に戻ることにした。


 校門を潜って街路を進む。同じように帰宅していく学生に続く足取りは、ふと縫い留められた。


 モニカの何気ない言葉が、耳朶に残っていた。大人のアドバイスを聞いて損はない。確かにそうかもしれない。頭に浮かんだ大人は、ベルンハルト先生だった。


 先生に、クランのことを相談したいと思った。勿論殺人については口にしない。悪いことを間違っていると教え、正しい道に引き戻すには、どんな言葉をかければいいのか、彼の意見を聞きたかった。


 踵を返した僕は早足で学校に戻る。校門をまた抜けて、だんだん小走りになっていく。下校をする生徒や部活動に向かう生徒達の間を通り抜け、校舎に入る手前で一度止まった。


 入り口前の柱の影で、上がっている息を整える。そうして踏み出そうとした靴音に、シリングスの低声が重なった。


「ライヒェくん、君とどういう関係なんだ?」


 一瞬、呼ばれたのかと思った。まだ帰っていなかったのか、と思いながら、僕は隠れるように柱へ寄りかかった。つい耳を傾けてしまう。モニカがどう答えるのか、気になったのかもしれない。けれど、聞かなければ良かったと、後悔することになる。


「ただの友達って言っているでしょう。もしかしてシリングスさん、妬いてるの?」


「君にとって彼が本命だったら困るからね」


「やだ、やめてよ。『死体くん』と付き合ってもなんのメリットもないもの」


 ふ、と、零れた息は嘲りに満ちていた。僕は、穴の開いた風船のように、そのまま萎れてしまいそうだった。自分の胸倉を掴んで、騒ぐ心臓を黙らせようとした。唇を噛み締めたまま、震える酸素を呑み込んだ。


「『死体くん』……ああ、なるほどね。それなら話しかけなければいいじゃないか」


「シリングスさん知ってる? 私、学校だと綺麗で優しいモニカ・シントラーなの。死体くんに構っているのも、いい子だと思われたくてしてるだけ。私が彼に優しくするとね、『あんな除け者にも優しいモニカさんって素敵』って言われるんだもの。先生達も良く思ってくれる。得しかないでしょう?」


 モニカの嬉笑が僕の首を締め上げる。酸素が足りなくて喘ぐ息は、雑踏に潰されるほど脆弱だった。モニカの回答にシリングスは気を良くしたのか、彼女の嬌声が聞こえ始める。僕は崩れ落ちそうな足を鳴らしてその場から離れた。


 ひさしから出ると、陽射しが不愉快なほど眩しい。僕は校舎から遠ざかっていった。


「……分かってたよ」


 愚かな期待を吐き捨てる。胃液の味がするくらい吐いてしまいたかった。ベルンハルト先生はモニカとは違う。そう思いたかったが、もしモニカと同じだったら、また肺腑を抉られる。


 信じて裏切られた時、どれだけ苦しくなるか、ずっと前から知っていたはずなのに、ひどく息が詰まっていた。僕を追い出したクランの心を想像してしまって、それが幻の声となり外耳道を埋めていく。


 僕は最低だ。他人に何をされたら息苦しくなるのか、分かっていながら何度も同じ苦しみをクランに味わわせた。彼女に二度と会わない選択をしたら、もっと苦しませてしまう。僕がいなくなって一人ぼっちになった彼女は、この孤独に蝕まれていく。


 孤独を癒せるのは、愛だけだ。彼女は、僕みたいになってはいけない。彼女の傍に居たかった。救いたかった。救われたかった。


 正しさなんてもう、どうでもいいじゃないか。心を救えない正しさなんて、正しさじゃないだろう。僕も彼女も、世間にとっての『間違い』でしか、救われない。


 僕は、どことなく僕に似た彼女を救うことで、死に果てたライヒェ・カレンベルクの心も、救えるような気がしていた。


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