「wunde」3

「……なんだ、これ……」


 掠れ声が咽喉から込み上げて、僕は包丁を取り落とした。鍋に落ちて、鐘声みたいな音ががらんと鳴り渡る。反響する金属音を片耳で聞きながら僕は食料を振り返った。肉類を切ったことで血に塗れたのだと思いたかった。けれどここにあるのはハムやソーセージなど加工された肉だけだ。クランが怪我をした可能性も考えてから、あ、と息が溢れた。


 白いワンピースが僅かな血を滲ませていたのを想起する。あの時洗っていたのは、恐らく両手だけだ。包丁も洗おうとしたところで、僕が来て中断したのだろう。


「……いや、だから、なんで包丁が……」


 まとまらない思考に頭を振った時、悲鳴を堪えたような呻吟とともに扉が開け放たれた。振り向くと、そこに立っていたのはクランだ。ひどく蒼褪めた顔をしていた。それは僕も同じだったのかもしれない。目が合うなり、彼女の相貌は歪んでいった。


「クラン、包丁……血が」


「……ライヒェは、ずっと一緒にいてくれるんだよね」


 まるで銃口を突き付けられているみたいだった。彼女の瞳を前にして、身動きが取れない。その眼が濡れていることに気付いて、ようやく息が出来た。彼女はひとえに、不安なのだ。


 僕は腰を屈めて、いつものように笑ってみせた。尤も、その端々に竦然が滲んでいて、指先まで震えているのも自分でわかっていた。


「クラン、怒らないから、誤魔化さないで説明して。怪我をしたの? 包丁でどこか切った?」


「ちがう」


「お昼ごはん、お肉を切って食べた?」


「違うの」


 クランの苦り顔と見合って、話を逸らしたくなる。彼女が話したがらないのなら、僕が糾問する必要なんてない。そう思うのに、引き下がりたくなかった。怪訝を抱いたまま、これまで通り接することが出来そうになかった。


 俯いた先で、クランの繊弱な両足が震えていた。僕は彼女と向き合いたくて、もう一度真っ直ぐに仰いだ。


「……教えて。だってすごい量の血だった。ちょっと切ったくらいじゃない。なにがあったのか、僕に話して──」


「殺したの」


 転がった鈴の音に、声を奪われる。それは、とても簡単な言葉で、端的にすべてを伝えていて、曲解することすら許してくれない。遮られた台詞は音にならないまま舌端に溶け、唇は錆びた玩具みたいにぎこちなく動く。口腔が乾いていくのに、返事をしたくて閉口することが出来ない。それなのに何も言えなかった。


 照明の明かりが、消えそうに明滅する。まばたきが出来ない僕の代わりに、何度も光が瞬く。クランはゆっくりと俯伏した。眩しさから逃げるみたいに、彼女は自分の影に閉じこもって、淡々と語った。


「男の子を、殺したの。この前も、男の子。その前は女の子、その前も……。痛いのは嫌だから、最初はお父さんの銃で撃ってた。でも弾がなくなっちゃったから、包丁でやるしかなくなったの」


 クランの語りに合わせて、僕の脳内で事件の噂が蘇っていく。最初は銃殺、最近になって刺殺。亡くなった少年の第一発見者は、少女の悲鳴が聞こえて現場に駆け付けた。


 触覚と痛覚が同じようなものであるクランにとって、刃物で刺し殺す際、自身にも痛みが走るのだろう。辻褄があう。それでもクランの言葉を信じない理由を探していた。彼女が殺人者である現実から、目を逸らしたかった。


 喉の底から絞り出した音吐は、当惑にまみれて震えていた。


「……嘘だよね。貴方が言ってるのは、最近起きてる小児連続殺人事件の話だ。誰かから聞いて、僕を驚かそうと、冗談を言ってるんでしょ?」


「冗談じゃないよ」


「じゃあ、なんで……どうしてこんなこと」


「どうして? だって、私に痛い思いをさせた人にやり返して、なにがいけないの?」


 垂下する髪の隙間から垣間見えたのは静かに燃える心火だった。彼女の怒りは透明に溢れる。それが細粒を象って流れ落ちた時、初めて出会った日の彼女を思い出した。


 ──毎日泣きたくなるの。怒りたくなるの。痛かった思い出が浮かんで、どうして私ばっかり痛い思いしなくちゃいけないのって、許せなくなるの。


 かすれた哀韻が耳の奥で反響する。あの時、僕は彼女を可哀想だと思った。それは今も変わらない。人を殺した事実があったとしても、目の前にいるのは頽れそうな子供だ。彼女の歪んだ瞼が激情を堪えて震えている。どうにか助けてあげたかった。


 人を殺したという、口だけの事実を意識の外へ追いやる。そうして一旦息を吐き、自若としてから微笑みかけた。


「やり返したい気持ちは分かるよ。辛かったよね。でも殺すなんて、そんなやり返し方はいけないことなんだ。クラン、見なかったことにするから、これで終わりにしよう」


 互いの息遣いが不規則に時を刻む。クランは顰めた顔を緩めてくれなかった。悲しみよりも色濃い怒りが、僕の諂笑てんしょうを突き刺す。彼女のまなじりが鋭く吊り上がる。仇でも見るかのような視線に惑う暇もなく、泣き声が上がった。


「どうして、そんな顔するの。どうして私が間違ってるみたいな言い方するの……! 私すっごく痛かったのに!」


「クラン、落ち着いて……」


「みんな私のこと噓吐きって言った! ちょっと触っただけなのに被害者ぶるなって! 私がどれだけ痛かったか分からないくせに! どうして痛い思いをした私がおかしいって言われるの? どうして私が悪者みたいになるの……⁉ じゃあなんでっ……私に痛いことをしてきた人たちは悪者にならないの⁉」


 哀哭が嗚咽に呑まれていく。犀利な目線は伏し沈んで、華奢な肩が震えだす。しゃくりあげる声が鼓膜を凍らせていく。体温が下がっていく。どうすればいいのか分からなくて、僕も泣き出したかった。クランの訴えが幻聴みたいに木霊して、僕の肺を押しつぶす。水分を失って罅割れていく唇が、科白を求めて思考を急かす。けれど声帯は動かない。このまま窒息してしまいそうだった。


 すすり泣きは止むことなく静寂を濡らし続ける。濡れそぼった童顔が持ち上がって、その傷悲が、凝然と立ちすくむ僕を打つ。僕の答えを待ち懸く姿がひどくせつない。突き放したくなどない。なのに正しい返答が分からない。


 僕は彼女を眼界に閉じ込めたまま、懇願する。非難しているのではないと伝えたくて、優しい息を紡ぐ。


「……貴方は、ちゃんと被害者だった。被害者ぶってるんじゃなくて、被害者だったんだよ。だから、被害者のままでいれば良かったんだ。でも、もう遅くって……貴方はもう、加害者で。このままじゃ、警察に捕まる。だから……これからどうするか、一緒に考えよう……? まだ、やり直せるよ。大丈夫だから」


 絡んだまま解けない視線が、互いを繋ぎ止めようとしていた。相手に縋りたいのは僕も彼女も同じで、互いに心の内側から手を伸ばし合っているのに、触れられないのはどうしてだろう。


 クランの泣き腫らした下瞼に力が込められ、目元の影が深くなる。苦り切っていく面立ちにつられて、鏡のように僕も顰蹙していた。


「ライヒェは、分かってくれるって信じてたのに……私達、分かり合えるって思ったのに、どうして……?」


 どうして? 同じ問いかけが喉奥に生じる。何故、届かないのか。悔しさに切歯して、苛立ちが舌の根に纏わりつく。感情任せに怒鳴りかけて開口し、寸前で留まって、乾声ひごえとなった息を全て飲み下した。


 僕は、クランとの関係を、壊したくなかった。彼女だって、同じ気持ちのはずなのだ。


 切願を込めて泣き笑う。今度こそ正しい方向へ彼女を導きたかった。


「クラン、違うよ。ちゃんと分かってる。さっきも言ったでしょ。やり返したい気持ちも、辛さを分かってもらえないのも分かってるよ。だけど、殺して解決っていうのは間違ってる。嫌なことをされたから殺していいなんて、おかしいことなんだよ。犯罪になってしまうんだ」


「……間違ってる……?」


「うん。でも、知らなかったのなら、それを教えなかった大人が悪い。貴方だけが悪いわけじゃない。これからは悪いこととか、間違ってることを、ちゃんと知っていけばいいんだ。僕が教えるから」


 ことのほか掠れた訴えは、雨上がりの零露ほど弱く、粛として零れた。けれど寂然たるこの場では十分すぎるくらい響動どよめいていた。水を打ったあとの緘黙が耳鳴りとなって蔓延する。直線上で結ばれていた彼女の目路は移ろい、紆曲した果てに逸らされた。


「出てって」


 呼吸が出来ない、そう思いながら僕は無自覚に片息を揺らしていた。ソプラノのかぼそい音容は、氷雪が割れる淅瀝せきれきに似ていた。視凝みつめつづけたところで眼差しはかえってこない。残響が冽々と溶けていくなか、訳も分からぬまま疾言を連ねていた。


「なんで……待って、誤解をさせてしまったなら謝るよ。責めてるわけじゃないんだ。ただ、これ以上罪を重ねたら戻れなくなる。でも僕はクランの味方だから──」


「出てってよ! 私のこと『おかしい』なんて言う人、だいっきらい‼」


 僕は、石のように硬直していた。最初に固まったのは口唇だった。次いで両腕が脱力して、後ずさることすら出来なくなる。冷え切っていく頭の中心で、脳梁だけが揺れ動いて軋む。


「おかしい」と僕はささめいた。凍えた息吹は出来損ないの声でクランの拒絶を反芻していた。


 頭蓋の深く、とても深い所から「おかしい」と詰るのは誰の声だったか。気がふれそうになりながら口元を押さえる。どういうわけか嘔吐感に苛まれていた。追懐が耳底をつんざいて、ああ、と理解する。臓物を締め付けているのは自己嫌悪だった。


「……ごめん」


 クランがどんな顔で謝辞を受け止めたのか、見ることが出来ない。僕はその場から逃げ出した。廊下へ出ても、建物の外に出ても、目の前は霞んだままだった。水晶体が曇り硝子になったみたいだ。ざらついた夜道を蹌踉と歩いていった。重い体を引き摺って、骨折した日の出来事を追思していた。


 あの日、僕は思ったはずだ。無痛症である僕を肯定して欲しい。否定しないで欲しい。間違っていないと、おかしくないと、そう言って欲しかった。


 先刻の自身をかえりみる。殺して解決するのは『間違っている』、殺していいなんて『おかしい』ことだ。僕は、そう言った。かつて僕を穿った言葉を、僕が使った。


 小夜風に苦笑が紛れた。泣きたいのか笑いたいのか分からなかった。何が正しいのか分からなかった。どうするのが正解だったのか今も分からない。


 僕は異痛症を抱えるクランのことは否定していない。けれど明確に、殺人者であるクランのことを否定した。『貴方は間違っているから正しい姿に変われ』と、そう押し付けた。


 正しいとは、普通とは、何なのだろう。クランにとって報復は正しくて、けれど僕や世の中にとっては正しくない。僕にとって痛みがない日常が普通でも、世の中の普通とは異なる。


 あの日の友と母さんの気持ちが今になって分かってきた。正しさも普通も、人によって違う。自分が正しくないと思うものを「正しい」と笑って受け入れるのは、簡単なことではないのだ。


 今の僕は、上辺だけでならクランを肯定できる。その上辺は、彼女の本質を知ったつもりになっている薄情なものだ。僕にとっての、先輩モニカのような──僕が無痛症であることを知っているが、実際に僕が平気な顔で大怪我をしている場面を、見ていないから嫌厭しないでくれる程度の──社交辞令じみたもの。人を殺しているクランを目の当たりにした時、それでも彼女を受け入れられる自信は、今の僕にはない。


 ふらつく足取りで帰路と思しき歪んだ帰路を辿りつつ、頭の中では何度も血を連想しようとしていた。理解した上でもう一度クランと話し合わなければと思った。


 僕は、友達だった人たちや、母さんや、モニカのようには、なりたくなかったのだ。


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