「wunde」2

     (二)


 行き慣れたクランの家の扉を大きく開けて、車椅子を廊下に進ませた。小暗い通路を車輪でなぞり、食堂を目指す。クランはたいていそこにいる。動くのが億劫だからか、ソファで寝ることが多いみたいだった。二階など他の部屋に行っている姿も見たことがなかった。


 台所の前を通り過ぎて、ふと聞こえた水音に立ち止まる。閉じた扉からは明かりが漏れていて、中に誰かいるのが分かった。念の為ノックをしてから扉を開けると、洗い物をしているクランの後ろ姿が見えた。


「クラン、ここにいたんだね」


「えっ、あ」


 少し寝ぐせのついた後ろ髪が、呼応して飛び跳ねる。彼女はすぐに振り向くも、急に足を動かしたことで痛みが走ったらしく、渋い顔で出迎えてくれた。濡れた両手をぱたぱたしながら「痛い……」と泣き笑う彼女に苦笑した。


「食器洗い? ご飯食べたの? 僕が代わりに洗おうか?」


「ううん、もう終わったからいいの。お部屋いこ」


「あ、今日はクランと出かけたいと思ったんだけど……」


 流し台に近付こうとする僕を押しのける勢いで、クランが詰め寄って来たものだから身を引いた。僕が避けると分かっているからか、最近は彼女との距離感が近くて戸惑う。触れると痛いのだから、無遠慮に距離を埋めない方が良いのではと注意したかったが、懐いてくれているのが嬉しくて口には出せなかった。


 見下ろした彼女の白いワンピースに、焦点を引っ張られる。華奢な太腿あたりで揺れている裾が、僅かに赤く色づいている。鮮やかで明るい赤ではなく、血のような赤褐色。怪我をしたのだろうかと考えてから、女性特有の月のものかもしれないと心付き、気まずさに目を泳がせた。


「ご、ごめん、もし、体調とか悪かったら、休んでていいから」


 今洗っていたのも食器ではなく、血が付着した衣服だったのかもしれない。男である僕には見られたくないだろう。どうしたらいいか分からない自分の無知と、デリカシーのなさに、見えない手で頭を抱えていた。


 クランは僕の気持ちなど露知らず、気抜けた顔で廊下に踏み出していた。


「別にいつも通りだよ。でも歩くのはあんまり……ねえ! これなあに?」


 白皙の指が示したのは、扉の外に置いたままだった車椅子だ。クランは知らないものを前にした猫みたいに、恐る恐る座席を覗き込んでいた。車輪までまじまじ観察する様が微笑ましい。僕は説明をするべく背もたれの方へ移動した。


「これは車椅子だよ。クランはここに座ってるだけでいいんだ。僕がこれを握って車椅子を押すと、車輪が回って進んでくれる。だから、これで一緒に植物園に行かない?」


 車椅子がどういうものなのか理解してくれたようだ。きょとんとしていた花顔が輝き始める。大きく開いていく唇は感嘆を吐き出していた。


「行きたい! 乗っていい⁉」


「その格好でいいの? 着替えてくる?」


「ううん、このままでいい。それより座りたい……!」


 明朗な音容から喜びが滲んでいて僕まで嬉しくなる。頭を揺らして雀躍する彼女に座るよう促すと、興奮を唾とともに呑み込んでいた。そうして緩徐な動作で座席に腰を下ろしていく。座った直後は顔を顰めていたが、数秒で触覚が馴染んだのか、彼女は喜色満面になっていった。


 柘榴の粒が艶めくように、クランの赤い瞳が爛々と光を込めて僕を見上げる。


「ライヒェ、押して、押して!」


「そんなに急かさなくても、今やるから……」


「はやくはやく!」


 車輪はがらがらと音なう。それにクランの鼻歌が重なっていく。彼女の頭は上機嫌に踊っていた。扉を潜って外に出た。庭に下りるまでポーチの段差があったため、「少し揺れるかも」と一声かけてから慎重に段の下へ下ろした。


 振動は痛くなかっただろうかと心配になり、相貌を覗き見る。クランの側顔は落ち着いていた。ふわりとした緩頬が僕を安心させる。車椅子を動かすと、彼女は通り過ぎていく景色を目で追いかけていた。その虹彩が上を向き、僕達は見交わした。


「クラン、座り心地はどう?」


「うん。楽しい。歩くより全然良いよ。痛くないもの」


「良かった。植物園まではそんなに遠くないから、少し待ってね」


 庭を抜けて整備された石畳に車椅子を乗せる。とはいえ、石と石の隙間などの僅かな段差が多いため、車輪の音はがたがたと響いた。クランはこのくらいの振動なら大丈夫みたいで、相好を崩したまま街並みを打ち守っていた。


 晩霞はまだ明るく、夜の気配は漂っていない。夕烏が鳴くのを視界の隅で捉えつつ、閑静な道を辿って行った。買い物帰りの親子や、学校帰りの子供とすれ違う。犬の散歩をしている人もいて、大型でふわふわの犬が車椅子を不思議そうに見ていた。


 クランと初めて出会った公園を横目に、公園の敷地内には入らず先へ踏み出す。すると、クランの緩声が夕風に乗せられた。


「この道、何度も通ってるけど、これに乗ってると違う景色みたい」


「高さが違うと見えてくるものが変わってくるのかな?」


「それもあるけど……自分の痛みしか見えていなかったから、街の眺めとか、匂いとか、気にしなかった。さっきから美味しそうな匂いがするから、なにかあるのかな」


 言われて、鼻を動かした。傍に並び立つ木の香りがして、それから甘いような、香ばしいような匂いが鼻腔を通り抜けた。それが何か分かると、僕は通り過ぎた道を振り返って指さした。


「あそこにパン屋さんがあるんだ。その匂いかも」


「パン……ほんとだ、パンの匂いだ!」


「帰りになにか買って行こうか」


「うん!」


 僕達はそれから静かに進んでいった。会話はなかったが、冷えた沈黙とは違う。そこにはクランの鼻歌が風韻に溶けていたし、僕は嬉しそうな彼女に穏やかな呼気を漏らしていた。


 しばらくして、目的の植物園に到着する。入口を抜けると薔薇のアーチがあり、草花の翠影に包まれる。馥郁たる薔薇の香りに心が落ち着いていく。青ばんだ影の中を抜けると、そこには薔薇園が広がっていて絵画みたいだった。色とりどりの薔薇が咲き誇る庭園に、斜陽の光がほどよく差していて美しい。


 一面を見渡せる道で立ち止まったら、クランが感動してため息を吐いていた。


「きれい……」


「そうだね。クランは、薔薇は好き?」


「綺麗なものは、なんでも好き。でも、ちゃんと見たことはなかったから、今すごく幸せ」


「よかった。ゆっくり見ながら進もうか」


 がらがらと車椅子を動かして、鮮やかな道を見回す。赤い薔薇や桃色の薔薇、黄色や橙など、様々な色彩で溢れている。赤や桃色、と言っても、その濃淡も一輪一輪異なって見える。暖色の花を縫うように飛んでいくアオスジアゲハが、晩景によく映えていた。


 白い薔薇だけが植えられているあたりに来ると、クランが小さくささめいた。他に人の声があったなら、聞き返していただろう。そのくらい、うわごとに似た響きだった。


「ねえライヒェ、天国って、こういうところなのかな」


 僕は皎潔の花々を回視した。シルクの布を丸めたような花弁は、汚泥を知らない顔で晩暉を浴びている。花びらと花びらの間に落ちる影も、微かな茜色を宿していて、まるで紅燭のように光っている。画家がこの花を描く時、青を使うことはあっても黒は使わないだろう。


 穢れを許さない天国のイメージに、この白い花はよく似合った。


「そうかもしれない。でも、天国はもっと綺麗かも」


「私……天国にも行ってみたい。お母さんには会えないだろうけれど」


 微睡むような吐息が悄然を引き連れてくる。僕は黙り込んでしまった。クランに母親がいない、とは聞いていたが、亡くなっている可能性を平明に突き付けられると言葉が出てこなかった。


 涼風が吹き抜けて、薔薇が清籟せいらいを奏でる。舞い散った白片を目で追いかけた。青々と茂る葉の中に落ちて、その白は見えなくなる。魂に色があったなら、あの花びらみたいに中空を漂って、天心まで上り、やがて雲霧に紛れるのだろう。


 深い緋色を充盈させていく空を見さくと、僕は温言を吐出した。


「……人は亡くなったとき、天国に行くから。大丈夫」


「そうだといいな」


「でも、まだ行っちゃだめだ。僕はもっと貴方と生きていたいよ」


 告げてしまってから、次第に恥ずかしさがせり上がってくる。熱くなる顔を陽射しのせいだと自分に言い聞かせ、気まずさを誤魔化すべく車輪を転がした。白薔薇のアーチを抜けると広場に出る。


 広場には、マリーゴールドやコスモス、桔梗が点々と咲いている。花を見に来た人の姿も多くあった。小さな子供を連れている男女や、スケッチをしている少女、穏やかに笑い合う夫婦。安寧を感じる眺めを流し見して先を目指す。


 絵の中を歩いている感覚にぼうっとしていれば、クランが「私も」とにわかに声を上げたものだから、呆けたまま目線を下げていた。


 僕が落とす影の中でも、クランの明眸は眩しい。眼窩に火を灯しているみたいだった。暗がりを跳ね除けて、その眼差しが僕を照らす。


「私も、もっとライヒェと一緒にいたい」


 クランの、どこか真剣で強張っていた表情が、言い果つとともに蕩けた。果実が熟れるように頬を染めて、無邪気に歯を見せる桃顔は可愛らしかった。僕が大きく頷いてみせれば、彼女は笑みを深めてから前に向き直っていた。


 サルスベリが赤々と眼路を綾取る。足元の黄色いオミナエシとのコントラストが綺麗だった。広場よりも奥へ進めば温室が見えてくる。その手前に備えられているガゼボの周りで紅白の花が揺れていた。三角屋根の下を覗き込み、人がいないことを確かめると、そちらへ向かって歩いた。


「クラン、これが彼岸花だよ」


 ガゼボを囲う柵の傍で、いくつも咲いている彼岸花を指さす。赤いものと白いものが同じくらいの本数で咲いていた。クランは、車椅子から落ちないか心配になるくらい腰を屈めて、目の前の花を凝視していた。


「わぁ……ライヒェ、絵上手だったんだ」


「えっ、ちゃんとこんな感じに描けてた?」


「うん。本物を見たことがあったら、ライヒェの絵を当てるゲーム、正解出来たのに」


 少しだけ悔しそうな口吻にくすりと笑ってしまった。細い花弁と長いおしべが風で踊る。クランはそれを眺め入っていた。僕も一緒になって無為に佇む。少しすると、クランが上体を起こして背筋を伸ばしていた。


「綺麗だけど、でも、白い方がすき」


「白い方が、天国に咲いてそうだよね」


「それに、赤いのは飛び散った血液みたい」


 先程までよりも陽が傾いて、彼岸花は暗らかな影を受け止める。木暗がりの中でも冴やかに赤い花弁の、その根元の陰影は黒ずむ。確かにそれは血紅色を思わせた。高い所から落ちて飛沫を散らした液体を、思い浮かべてしまう。


 けれど飛び散る血など、僕ですらほとんど見たことがない。何故そんなことを考えたのか、クランの思考を見解こうとしてから、頭を左右に振った。


 クランの亡くなっている母親が、もし、夥しい血を流して瞑目したのなら。もし、彼女がその光景を目の当たりにしたのなら。


 推し量った想像があまりに切なくて、『なぜ血液を連想したのか』など、問い質すことは出来なかった。


 僕は人知れず深呼吸をした。それから車椅子の背凭れに手を掛け、腕を引く。方向転換した車椅子を、帰路に向けて動かし始めた。


「暗くなってきたから、もう一回薔薇園を見ながら帰ろうか」


「うん、帰ろ。お腹空いた」


「そうだった。美味しそうなパンを買いに、パン屋さんに寄らないとね」


 植物園を出る頃には、既に夜の帳が下りていて、道も薄暗くなっていた。藍色の街路に靴音を響かせていく。車輪も夜音に負けないくらい響いていた。


 パン屋に着くと、クランは一つ一つ何のパンなのか知りたがった。どれも食べたそうにしている明るい声を聴きながら、財布と睨み合い、ドライフルーツの入ったパンや、ゴマのかかったパン、粉砂糖がかかったジャムパンを買った。食べるのが楽しみなようで、夜道には彼女の鼻歌が流れていた。聞き覚えのあるメロディーに、曲名を思い出そうとしながら夜天を見上げる。頭上で光る星を見て、きらきら星の旋律だとわかった。


 同じメロディーを何周も繰り返す彼女に、飽きないのだろうかと苦笑する。それでも彼女が楽しそうだから、僕も鼻歌に合わせてほんの少し頭を揺らしていた。


 クランの家に着いて明かりを灯す。夜ごもった暗さに慣れていたから、室内光が眩しく思えた。食堂まで車椅子を運んでやり、テーブルの傍で車輪を停めると、クランは呻きながらもソファに座り直していた。僕はパンの入った紙袋を持ち上げる。


「ご飯の準備してくるから、待ってて」


「車椅子ありがとね、ライヒェ」


「いえいえ。パン、すぐに切ってくるよ」


 隣室に行くだけだというのに、控えめに手を振ってくるクランが微笑ましい。食堂の扉を開閉し、台所に踏み入った。洋燈を点けて流し台に歩み寄る。一旦まな板の上に紙袋を置いてから、ふと、シンクの端で置き去りにされている鍋と包丁が目に付いた。


 蛇口から離れたところにある鍋には水が溜まっていない。鍋の中に刃先を収めている包丁も、同様に濡れた形跡はなかった。けれど刀身は赤黒く染まり、鍋の底も錆に似た猩紅がこびりついていた。


 そっと、包丁に手を伸ばす。柄を握って持ち上げた。腥い臭いが鼻腔を徹ったような、気がした。


 照明を受け流す刃金が、さやに見せつける赤。乾き方が絵の具のそれとは違う。誤魔化しようがないほどに、それは膏血だった。



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