第二章「──傷口」

「wunde」1

     (一)


 クランと出会ってから数週間が経過していた。僕は彼岸花を探して、通学路を日によって変え、足元を注視してみているが、やはり路傍では見つけられない。色鮮やかな庭を見かけても、求めている花はそこになかった。


 曈曈たる日の出を見たばかりなのに、日輪はいつの間にか高く昇っている。朝影が街路を光らせていた。鳥の鳴き声に顔を上げると、すぐ傍のパン屋から店員が出て来る。偶然目が合ってしまった。女性が寝ぼけ眼をまたたいて、怪訝そうに僕を見つめた。道端でしゃがんでいた僕はゆっくりと体を起こした。


 石畳の隙間から伸びている百合の花を軽く撫で、その場から立ち去る。朝の散歩はこのくらいで切り上げ、そろそろ学校に向かわなければならなかった。


 頭上は夜の名残さえ消えていて、落ちてきそうな碧だけが広がっている。碧落には雲一つなかった。飛び交う鳩の白さだけが青いキャンバスを乱していく。太陽を直視してから目を眇め、進行方向に向き直った。


 仕事を始める人や出掛ける人が増え、寂び返っていた道も賑わってくる。元気な子供が民家から出て来て、家の前に配達されていた二本の牛乳を両手で抱えていく。僕を追い越した子供達のかけっこを横目で捉えつつ、未だ解決していないらしい殺人事件のことを考えた。


 一週間に一人、くらいの頻度で子供が殺害されているらしい。最初の三人は銃殺、先日は刺殺だったと、通行人が話しているのを聞いた。被害者は何度も刺されていたようで、銃殺の時に比べて残虐性が増している、なんて言われていた。凶器は見つかっておらず、目撃者もいないらしい。殺害された子供たちの年齢は全員十歳だという。クランもそのくらいの歳に見えるから、彼女の傍にいない時間は心配だった。


「この前の事件、ウチの旦那が最初に遺体を見つけたんだけれど……」


 通りかかった果物屋で、二人の女性が苦り顔を突き合わせていた。会話が気になって歩調を緩めてしまう。視線は向けず、耳だけをそばだてて、彼女らとすれ違った。


「女の子の悲鳴が何度も聞こえたから路地に駆け込んだんですって」


「可哀想ね……。でも、亡くなったのって男の子じゃなかったかしら?」


「そうなのよ。だから、もう一人被害者がいたんじゃないかって言われてるわ。ウチの旦那が駆け付ける足音を聞いて、犯人は焦って女の子を攫って立ち去ったんじゃないかって。見つかると良いわね……」


 男児の遺体が見つかったという、それは数日前の事件の話だろう。クランとは昨日も会っている。だから大丈夫だと思うのに、もし彼女が傷付けられ攫われていたら、なんて考えだすと、学業を放り出して彼女の家に向かいたくなってしまう。


 乱れそうな心を取り鎮め、鞄の紐を肩にかけ直した。眼路で鮮やかな果実が揺れている。まだ開店していない酒場の敷地内で、小さな葡萄に似た植物が、質素な通りを綾なしていた。丸く連なった実は夜空を丸めたような紫紺、軸は紅紫に染まっていて視線を惹きつける。


 インクベリー、という植物だ。もし僕がこの植物を描いてクランに見せたら、また虫とか言われそうだった。すずらんよりも虫みたいな絵になってしまうだろう。つい微笑してしまったことにハッとする。一人で笑っている不審者、と思われる前に、早足でその場から立ち去った。


 学校に着くと普段通りの授業が始まる。教科書を捲って、板書を書き写すだけの時間に眠気を覚えながら、どうにか意識を保っていた。毒にも薬にもなる植物の話を書き留め、そのたびに思う。僕の中で死んでいるような痛覚を、毒によって起こすことは出来ないのだろうか。


 この学校に来てから、同級生に毒性のある植物を食べさせられたことがあるが、痛い、と思った記憶はない。気持ち悪くなって嘔吐しても、ざらついた喉から「痛い」という言葉は込み上げなかった。痙攣や麻痺、嘔吐を促す毒よりももっと、激痛を覚えるような毒を試してみた方がいいのかもしれない。


 乱雑に書かれた、毒、という自分の文字を嘱目していれば、教室のあちこちで椅子の足が擦り鳴らされる。顔を上げるといつの間にか授業は終わっていた。途中から全く話を聞いていなかったな、と自分に小息を吐いてから席を立つ。


「ライヒェ・カレンベルク。ちょっと来なさい」


 昼休みで賑わっている廊下に踏み出した途端、呼び止められて目を丸めた。僕が教室から出てくるのを待っていたのだろうか、ベルンハルト先生が真剣な顔でこちらを見下ろしていた。頷いた僕を確認すると、彼は歩き出してしまう。怒られるようなことをした可能性に身構えながら彼の影を踏んでいった。


 ロッカーや教室の近辺から離れ、人通りの減った階段に差し掛かったら、彼が一度だけ僕を振り返った。


「説教をするわけでも授業の話をするわけでもない。安心しなさい」


「え……」


「一応確認をしておくが、君、午後の授業はエルマー先生の授業だったよな?」


「あ、はい。今日はエルマー先生お休みみたいで、休講になったそうですが……」


「なら問題ないな」


 一階に下り、中庭を進んでいく彼の足取りに迷いはない。だがどこに向かっているのか見当もつかなかった。彼の踵を、細めた視界に映す。踏み通ったあとの草が音立てて揺らぐのをぼうっと眺め、答えを待ちきれずに思議を繰り返す。


 授業に関する話でないのなら、僕の素行に関するものだろうか。友達が少ないことや、陰口をたたかれていることを心配してのことかもしれない。


 まだ白光とも言える明るい日差しに睫毛を跳ねさせ、俯くのをやめた。ベルンハルト先生の肩越しに行路の先を窺う。そこには倉庫があった。先生は上着のポケットから鍵を取り出して、鉄製の扉を開いていく。薄暗い倉庫の中に光が注がれたことで、埃が星のように舞っていた。


「そこで待っていなさい」


 暗らかな倉庫の中へ入っていく背を見送って数秒、何かが転がるような音に首を傾ける。宛転と陽の下に現れたのは椅子だ。脚は車輪で、背もたれからは持ち手が伸びている。それを僕の前まで進ませたベルンハルト先生は柔らかに顔を緩めた。僕は陽光だけが坐っている空席に呟いていた。


「車椅子……?」


「そうだ」


 高い鼻を得意げに逸らしている彼に、僕はそれでも首を傾けていた。何故、と問いたいのを感取したのだろう、彼はどこか照れくさそうに、はにかんだ。


「この前、君が言っていただろう? 異痛症の友人がいて、歩くだけでも辛そうだ、と。車椅子なら、歩くよりは辛くないんじゃないかと思ってな」


 自身の両目が、どんどん瞠られていくのを感じた。持ち上がった瞼は先程よりも天光を強く浴びて、僕に眩しさを抱かせる。強く吹いた風で木々が揺れて、その風籟ふうらいが静まるまでの暫くのあいだ、僕は言葉を返せなかった。


 クランのことを彼に話したのは数日前だ。それを覚えていて、車椅子を用意してくれたことが信じられなかった。


 無意識下で踏み出していた爪先が、庭の草をひとたび鳴かせていた。もう一歩、今度は意識的に歩き出した。僕は込み上げる情動を理解できないまま、車椅子の肘掛けに指を滑らせた。木製のそれは落ち着いた焦げ茶色をしていて、表面は艶やかに加工されており、するりとした手触りだった。


「これ、僕に、貸してくれるんですか……?」


「貸すんじゃない、あげるんだ。君と、君の友人にプレゼントだよ。たまたま知人に貰ったんだが、私は使わないからね。持って行きなさい」


 彼の温顔と向き合って、返事をしようとした唇は吐息しか零さない。言葉に迷ったまま、思考だけは廻り続けていた。


 たまたま貰った、というのはきっと嘘だ。僕の為に探してくれたのではないかと考えたら、絞り出した声は震えてしまった。


「どうして、親切にしてくれるんですか。先生にとって生徒なんてたくさんいて、僕は優秀でもない、目立ちもしない地味な生徒でしかないのに」


 僕は今、嬉しさを感じているのだと思った。それなのに言葉尻は嗄れて、遠くから微かに聞こえてくる学生の笑声にさえ、負けてしまいそうだった。掠れ声の余響はすぐに透き通って空空に溶ける。


 真っ直ぐに先生を視一視した。満月みたいに丸くなった双眸の中に僕がいる。その表情は分からない。その姿は彼の瞳孔に紛れた。彼の睫毛がまたたいて、それから持ち上がった瞼は繊月のような弧を描く。視認することの出来ない慈愛が知覚出来てしまって、息が詰まりそうだった。


「『友人を助けたい』と子供に頼ってもらえたのに、なんの力にもなれないまま、聞いた話をなかったことにするのは大人として格好悪いだろう。私は、私に声を掛けてくれた君の力になりたかったんだよ」


 喉の奥で、呑み込んだ息が跳ねた。泣き出しそうに引き攣った気吹が、乾いた唇の隙間から落ちていく。僕は先生の優しい声を聴いた時、一瞬だけ幼い頃のことを思い出していた。昔は優しくしてくれた父さんのことが、頭に浮かんだ。伏せた眼裏を染めたのは、父さんが帰ってこなくなった空っぽの部屋の情景だった。


 僕が無痛症であることを隠し通せたなら、僕の悩みを聞いてくれて、力になってくれたのは、父さんだったかもしれない。


 追悔と欣快が同時に押し寄せて、目の前が掻き曇っていく。ベルンハルト先生は困ったような片笑みを浮かべて僕に手を伸ばした。大きな手が頭にのせられ、気恥ずかしいのに、堪えていた涙が幽咽とともに溢れ出してしまった。


「っ、すみません……ちょっと、動揺してしまって……」


「いいんだ。君の友人も、喜んでくれるといいな」


 暖かな熱が髪筋の隙間からしみこんでくる。彼の莞然たる面立ちを見上げた。日光が涙に留まるものだからひどく眩しかった。彼の手が離れて行って、頬が乾き始めてくる。彼は深呼吸をしている僕から目を逸らすと、零落する木の葉を眺望していた。僕も何の気なしに黒目を動かす。青々とした木々を横切る、すがれた朽葉は鮮やかに見えた。緑に映える黄土色が、やがて草の中に沈んで見えなくなる。


 上風の流れを観視していたら先生が言った。


「病を患っている人は、『人と違う』と思い……或いは思わされ、孤独感を抱くことが多い。病を治すためには薬や治療が必要だが、孤独を癒せるのは愛情だけだ。君や、君の友人の病を治す薬はまだ見つかっていないが、せめて、併発する孤独を君達が助け合えたらいいと……私は思うよ」


 孤独、という単語を唇の裏で繰り返した。それは音にならなくて、僕自身の耳にすら届かない。けれど、脳室でもその言葉をあざかえす。孤独というものは、意識してみなければ自覚できない、とても大事なことのような気がした。


 僕はずっと孤独だったのかもしれない。それはクランもそうなのだろう。


 自分を孤独だと思うには、独りきりの環境に慣れすぎていた。寂しいと思うことすら忘れるくらい、僕にとってそれが日常だった。だのに気付いてしまうと息苦しくなる。寂寥がいくつもの過去と結びついて込み上げてくる。


 孤独はきっと一種の病だ。じわじわと肺腑を蝕んで、脳を乱壊させ、表情を削ぎ落して感情を埋葬していく。思えば、深く、深潭まで埋められた真情を引き出してくれたのは、クランだ。彼女に出会うまでの僕は、もう何年も心から笑っていなかった。


 クランにも笑っていて欲しいと思う。『独りぼっちで寂しい』なんて思いを、彼女には味わわせたくない。


 僕は車椅子を撫でる。この椅子に腰かけた時、クランは笑ってくれるだろうか。解語の花が綻ぶような、彼女の笑顔を想起する。記憶の中のそれにつられて僕も笑っていた。


「……先生。ありがとうございます」


「ああ。友達を大切にしなさい、カレンベルク。もちろん、君自身のことも、大切にしなさい」


 赤ら引いた太陽が、空を夕紅で満たしていく。橙で賦色され始めた碧霄は青さを保ったままで、溶き合わせた絵具みたいに綺麗だった。


 蒼然とした逆光の中でも先生の恩顔は温かかった。


「っ、はい……」


 笑い返して会釈をする。僕は先生にもらった車椅子の背に立った。持ち手を握って転がすと、車輪は軽やかに回る。茜色に染まる中庭を見はるかして、花壇に咲く鮮やかな花々が、僕の足を急かした。


 車椅子があれば、クランと一緒に植物園に行ける。彼女に、色とりどりの花を見せてあげられる。


 足早にクランの家を目指した。まだ明るい時間だ。夜が降るまで、彼女と美しい植物を眺めたかった。




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