「so rot wie Blut」2

     (二)


 クランは僕に全てを披瀝して、心が軽くなったのかもしれない。かわらかに笑った彼女に促され、僕達は食堂に戻っていた。車椅子に座ったままの彼女と、ソファに腰掛けた僕は作戦会議を始める。


「クラン、一人ずつ殺害していこう。まずは誰からがいい?」


「順番はどうでもいいんだけど……じゃあ、アデーレから」


「アデーレって子は、クランに何をしたの?」


「……私とあの子、背格好が似てて、一回同じような帽子を被ってたから先生に間違われたの。それから『あんな頭がおかしい子と似てるなんて言われたくない』とか馬鹿にして、すれ違うたびぶつかって来た。そのせいで転んで泥だらけになったり、嫌がらせで砂をかけられて……そんな私のことを何度も汚いって言った酷いひと。大嫌い」


 何も置かれていない机上に、クランの深怨が注がれている。そのまなじりは次第に吊り上がって、過去を思い返している彼女の怒りが、はちきれそうなほどに膨らんでいるのを視認できるようだった。


 話を聞く限り、クランがアデーレに与えられた痛みは偶然のものではなく、無自覚なものでもない。意図的な嫌がらせは、虐めとも言える情景を想像させた。クランが命を奪ってきた他の子供も、同様に彼女を虐げたのだろうか。


 精神的な痛みだけでなく、肉体的な痛みにも穿たれる。それがどれほど苦しいものなのか、僕には分からないが、クランにとって激痛を堪えてでも復讐したいほどのものなのだ。それはけだしく、僕が味わった痛みと比べ物にならないくらいの痛楚だ。


 クランの胸をおおう暗影を取り去ってあげたい。僕は人知れず息を吐いて、今一度、気を引き締めた。


「その子の住んでいる場所とか、好きなものとか、趣味とか、分かる?」


「家は、知らない。でも通る道は知ってる。酒場のところ。大人ぶってるから、お酒なんて飲めないくせに、よく酒場を外から覗いてる。年上の男の人とか好きだから、ライヒェみたいな優しそうなお兄さんも好きそう」


 聞きながら、虚空に透明な地図を思い描いて道筋をなぞる。人が疎らな朝の街路を連想したのは、ごく最近の記憶を引き出したからだ。石畳の隙間に咲いた花、開店したばかりのパン屋、鳩が朝空に飛び立った先で、夜色の果実が揺れていた。


 インクベリー、或いはヨウシュヤマゴボウと呼ばれる植物。染料として使われることが多く、酒場の敷地内に植えられているのも、ワインの着色料として使用しているからだろう。


 いつか読んだ植物図鑑の留記を脳内でめくって、インクベリーが含有している成分について考えながらクランに問いかけた。


「酒場に、木の実が生ってるの知ってる?」


「小さな葡萄みたいなの?」


「そう、それ。それを採りに行こうと思うんだけど、僕が採りに行くか、クランにお願いしようか、悩んでるんだ」


 それは存外な発言だったのか、クランは団栗眼を大きく広げていた。長い睫毛が羽ばたいて、二つの赤果実がぱちぱちと見え隠れする。彼女は双眸を丸くしたまま首を傾けた。


「ライヒェなら、私にはお留守番しててって言いそうなのに」


「そうしてて欲しいけど、貴方も何かしたいって言いそうだし……それに、アデーレって子と貴方の容姿が似ているのならそれを利用したい」


「利用? どういうこと?」


「僕が考えている殺害方法は、酒場のインクベリーをアデーレに食べさせること。だけど可能なら、彼女が亡くなった時に『アデーレは自分でインクベリーを採って口にした』と思わせたい。それに必要なのは、アデーレがインクベリーを採っている姿を誰かに目撃させること。だからクランには、服装や髪型をアデーレに似せてもらって、インクベリーを採れるだけ採ってきて欲しい。酒場の店員とか、誰かに声を掛けられたら黙って逃げて」


 できる? と、視線で訊ねた。クランは僕の言葉の一つ一つを小声で繰り返し、噛み砕いている。数秒間の咀嚼を経て、作戦を味解したらしい彼女は得意げに笑った。と思うと、出し抜けに車椅子から降りたものだから、今度は僕が目を皿にする番だった。きょとんとする僕を置いて、クランは呻きながら蹌踉と歩き出す。


「アデーレが好きそうな服に着替えて、行ってくる」


「え、今行くの?」


「お昼過ぎぐらいに行くよ。酒場が賑わう時間になってからじゃ遅いでしょ。下校時間だとアデーレと鉢合わせるかもしれないし、下校時間より少し前のほうがよさそうだもの。一人で大丈夫だから、ライヒェは待っ……そういえばライヒェ、学校は大丈夫なの?」


 食堂の扉を開けたクランが、僕を振り返る。僕はしばらくのあいだ質問の内容が分からなくて、固まってしまった。殺人事件のことで頭が埋め尽くされており、学校のことをすっかり忘れていた。


 食堂にある柱時計を慌てて見遣る。時計の針はもうじき真上を向く。失態に苦り笑うしかなかった。


「今日は……休むことにするよ。今から行ってもとっくに遅刻だし。だから僕も一緒に」


「だめ。ライヒェに全部任せて、ライヒェに頼りっきりになるのは嫌。一緒にやるんだから、採ってくるくらい私に任せて。いっぱいあった方がいいよね、可愛い鞄持ってく」


 まるでピクニックにでも行くような目顔で、クランは雀躍と廊下を歩いていった。彼女の影が見えなくなるまで呆けてから、はっとして廊下に飛び出し、階段へ向かっている後ろ姿に大声で呼びかけた。


「っでも、気を付けてね! 痛かったら、中断して帰ってきてもいいから!」


 クランは階段を上る前に一度だけ振り返って、ピースサインを作ってくれた。本当に大丈夫だろうか。憂慮が面様の端々に滲んでくる。眉間を押さえてから、クランを待っている間にしなければならないことを考える。


 台所に向かった僕は、包丁を手に取った。どうするべきか思索しながら材質を確かめる。だいぶ年季が入っているのか、木製の柄を凝視してみると、ほんの少し罅隙かげきが窺える。柄と刀身を分離させることが出来そうだった。台所を見回して、壁の突起に引っ掛けられているキッチンバサミを掴んだ。地面にしゃがみ込み、包丁を足元に置いた。


 刃を開くことなく握り込んだ鋏を包丁の柄に叩きつける。一度、二度、三度と繰り返していれば、罅は広がって、やがて木片が散らばった。がらん、と鋼が音を立てて震えた。


 包丁をどこに隠すかは考えた。だが、あまり厚みのある大きなものや、複数のものをそこに隠せる気はしない。柄の部分と刃はそれぞれ違う場所に隠したほうがいい。


 一般的に考えられる凶器の捨て場は、木々の中、水辺、土の中。警察はどこも捜査するだろう。だからそのどれも選択肢から排除しなければならなかった。


 僕は包丁を床に置いたまま扉を開けて廊下を眺めた。食堂、クランの母親の遺体がある部屋、部屋、部屋、階段、二階、シリングスの部屋、部屋、部屋。入ったことがある部屋の構造を思い浮かべて、入ったことがない部屋にも思いを巡らせて、熟考する。


 一点に意識を凝集させるあまり、止めてしまっていた息を、吐き出した。酸素を取り込んで台所に戻る。包丁を持って食堂に向かった。奥の棚に歩み寄り、棚の上に置かれている裁縫箱の埃を払う。蓋を開けて中身を確認した。鋏、針、糸、必要なものは揃っている。食堂の鍵を閉めた。凶器の隠し場所はクランにも見せたくなかったからだ。


 ソファに置きっぱなしになっていた自分の鞄を持ち上げ、食堂を見渡し、包丁を隠す場所に目を向けた。


 ──それから、どれだけの時間を凶器の掩蔽えんぺいの為に使ったのか、集中していたせいで時間の経過は分からなかった。刀身を隠した後、食堂を出て建物の中を回り、柄を別の所に隠してから手を洗い、もう一度食堂に戻っていた。使い終えた裁縫箱を元の位置に戻して、ようやく心を落ち着かせられた。廻し続けていた脳味噌が軽くなると、反動みたいに体が重くなったような気がした。


 心身の疲れのままに腹部を押さえ、首をかぶす。今の僕に出来ることは終えた。僅かな手の震えも、微かに重く感じる重力も、罪科がまとわりついている証みたいだった。


 クランはどうなったのか、心配になって食堂を出ると、ちょうど玄関の扉が軋みながら開いた。否、それは開扉の音差しではなくて、クランの呻き声だったのかもしれない。


 眩しい天光を背中に浴びて、布製の鞄を持ったクランが肩で息をしていた。いつもの白いワンピース姿ではない。ベージュのフリルブラウスに、赤茶のタフタスカート。つばの広い帽子が赤い瞳を蒼然と染めていた。


「クラン! 大丈夫?」


「へいき……ほら、ちゃんと出来たでしょ?」


 小さな体の向こう側で、扉がひとりでに閉まる。クランは自慢げな顔で鞄を持ち上げた。受け取って中を覗き見れば、インクベリーが何房も入っていた。


「ありがとう。誰かに話しかけられた?」


「お店の人に。でも、ライヒェに言われたことを守って、何も言わないで走って逃げたよ。だから、足、いたい。鞄持ってたから手も痛いし、服もぴりぴりする。着替えたい」


「頑張ってくれてありがとう。あとは僕に任せて、着替えておいで」


 疲弊しきった様子のクランに微笑みかけて、僕は台所に向かった。クランの足音は、遠ざかることなく近付いてくる。流し台の前に立った僕が背後を見遣ると、クランは付いてきていた。着替えるために二階に上がるのも面倒なのかもしれない。鞄からインクベリーを出していく僕の手元を、彼女が覗き込んでいる気配があった。


「ライヒェ、それ、どうするの? ジャムとかにするの?」


「ジャムは……駄目だな。インクベリーの毒性は確かサポニンやアルカロイドやレクチン……熱で分解される類の成分だ。煮沸して薬にすることはあるけど、今回は毒として使うから……下手に加工しないで使いたい。となると、ジュースがいいかな。試飲みたいに渡せば飲んでくれるかも」


 僕はポケットから手袋を取り出した。授業で使うこともあるからいつも持ち歩いているものだ。けれど、インクベリーで赤く染まってしまうから、これも使用後はどこかに隠さないといけない。


 ボウルを手繰り寄せて、丸い果実を中に落としていく。すりこぎ棒を使い、果実も種も潰していく。種は潰れなければ取り除こうかと思ったが、潰れないほど硬くはない。果実より種の方が毒性が強いはずだから、そのまま使うことにした。


 潰しては実を追加し、潰して追加してを何度も繰り返す。


「それ、飲んだらすぐに死んじゃうの?」


「すぐには死なないよ、効き始めるまで数時間かかるんだ。だから死因が分かりにくくなる。ただ正直、殺せるかどうかも分からないけど、ターゲットは小さい子供だ。体重が軽い分、大人よりも毒殺の致死量ハードルは低い。ちなみに人が飲み物を一口飲む時の量は、およそ二十ミリリットルと言われている。ジュースが例え不味くても、子供なら一口で致死量に達する可能性は高いと思う」


 クランが持ってきてくれた数房で、試飲と言える量の果汁が採れるかは不安だったが、数口ほどの量にはなった。種が残っていないか念入りに押しつぶしてから、適当なグラスに赤紫の液体を注いだ。鞄の中にいくつか葉が混ざっていたため、それも細かく刻んで磨り潰し、グラスの中に混ぜ込む。


 手袋を裏表逆になるように外してから、グラスを持ち上げてみた。ぶどうジュースやワインと偽っても遜色のない色水が、透明なグラスの中で揺らいでいた。どうにか完成したインクベリーのジュースに、胸を撫で下ろしてクランを窺った。


「アデーレって子の外見の特徴とか、分かる? 今クランが着てるような、そういう服の子を探せばいい?」


「あ、写真あるよ。同級生全員で集まって撮ったの。食堂にある棚の、学校から届いた封筒の中に入ってると思う」


「あれか……持ってくるよ」


 手紙の位置は把握している。封を開けて見なかったから、中身までは知らなかった。僕はすかさず食堂へ向かい、封筒が入っていた棚を開ける。差出人の名前を確認して、学校からの手紙を持ち出した。レターナイフで綺麗に切られた紙端から中身を抜き取ってみると、子供達や教師と思しき大人が映っている写真が、便箋と共に同封されていた。


 台所に戻り、退屈そうにしていたクランに色彩のない写真を見せた。


「どの子がアデーレ?」


「この子。髪の色は私に似てる。瞳の色はヘーゼル」


 その少女は、クランの隣に映っていた。背の順で並んでいるのか、確かに背丈はクランと同じくらいだった。利発そうな眼差しをした少女の相貌を記憶に刻んで、写真を懐に収める。インクベリーの揺蕩うグラスを手にして、クランと目を合わせると、僕は相好を崩した。


「ありがとうクラン。今日出会えるか分からないけど、酒場のあたりに行ってみるよ。駄目だったら、また明日探してみる」


「私も……」


「駄目だよ。インクベリーを採りに行くのを貴方にやってもらったんだから、これは僕だけでやる。待ってて」


 不満げにくちひそむクランだったが、文句は放たれない。どうやら諦めてくれたみたいだった。


「じゃあライヒェに任せるけど、お父さんの部屋にある服、着てって。あの子は高そうな服を着てる人に媚びるタイプだから、良い服を着た方が話してくれるはず」


「そ、っか。わかった」


 シリングスの服に再び袖を通すのはあまり気が進まないが、確かに質素な服を着た不審者よりも、身形の良い人間の方が信用されやすいだろう。インクベリーのグラスを流し台に置いたまま、クランに「飲んじゃ駄目だよ」と念のため言い置いてから、二階に向かった。


 一度だけ訪れた部屋は、以前と何も変わらぬ配置で、僅かな埃だけが日付の経過を見せていた。長机に本や書類が整頓しておかれており、様々な種類のランプや壺、洒落た銃や時計が飾られていた。


 クローゼットを開けるために腕を持ち上げる。水滴みたいな音を立てて、袖から何かが落ちて行った。


「……あ」


 足元には、小さな蛆。クランの母親の部屋に行ったときに付着していたみたいだった。僕は靴底を擦り鳴らして、その蛆が床に染み込むくらい潰した。




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