「so rot wie Blut」3


     (三)


 アデーレ、という少女には、幸運にもその日のうちに会うことが出来た。酒場から少し離れたところで、さりげなく周囲を窺いながら、人との待ち合わせをしているような風采でしばらく待っていた頃だ。あまり長時間待っていると不審がられる為、そろそろ諦めて帰ろうかと思っていたが、その少女は学生鞄を背負って、一人で歩いてきた。


 長いプラチナブロンドの柳髪に、深い森を思わせるヘーゼルの瞳。吊り目気味の瞳も写真で見た通りで、僅かに心臓が跳ねた。緊張を咽喉の底に、見えない深さまで呑み込んで、僕に気付かず通り過ぎた後ろ姿へ声を掛ける。


「お嬢さん、ごめんね、ちょっといいかな」


 怪訝そうな童顔が振り向く。明昼の太陽光を浴びて金糸が輝きながら風に流れた。僕が人好きのする笑みを浮かべて歩み寄ると、彼女の表情は少しばかり和らいだように思えた。


 緩やかな動作で片膝を突いて、彼女と目線の高さを合わせる。丸い瞳は僕の頭の先から爪先までを一度だけ観察して、僕と視線を絡めた。


「なあに? お兄さん」


「良かったらこれを飲んで感想を聞かせてくれないかな。大学の研究で、子供でも美味しく飲めるワインを作ろうとしてるんだ。子供の正直な感想が聞きたくて……」


 鞄に布製の蓋をして入れていたジュースを取り出し、蓋を外して見せる。アデーレはグラスの中身を覗き込んで、唇をたわませた。どこか自信ありげな表情でグラスに手をのばして来た為、渡してやった。


「いいわよ。でも私、お子様じゃないから普通のワインでも美味しく飲めちゃうと思うけど」


 そう言うと、彼女は躊躇うことなくグラスを傾けた。赤紫色の液体が透徹を色付けて流れ、彼女の桜唇に落ちていった。一度だけ喉が上下する。口に含んだジュースを飲み込んだ彼女は、苦虫を噛んだような顔をしてグラスを下ろし、残りの液体を睨視げいししていた。


「やっぱり、子供は苦手な味かな」


 用意した量の半分は減っている。アデーレの背格好から致死量を考えてみると、このくらいでも十分な効果はあるだろう。


 苦笑しながらグラスを回収しようと手を伸ばした。けれど、アデーレはもう一度グラスに口付けて、残りの全てを飲み干した。空になったグラスは薄紫の痕跡だけを玻璃に塗りつけていた。アデーレは僕に向けて両手を持ち上げる。幼い顔は誇らしげな笑みを湛えていた。


「子供じゃないから、飲めたもん。でも、お子様は飲めない味だから他の子だったら捨ててると思うわよ」


「そうだよね……もう少し改良してみるね。飲んでくれてありがとう。助かったよ」


「いいえ」


「あ、それと、このことは二人だけの秘密にしてくれないかな。不味いワインを作ったお兄さん、なんて思われたらちょっと格好悪いから」


 僕はグラスに布を被せ、紐で縛って蓋をする。鞄にグラスを仕舞ってから、人差し指を立てて唇に当てた。微笑みかけた先で、アデーレも嬉しそうに笑う。


「分かった、内緒ね。今度は美味しいワインを作ってね、お兄さん」


「ありがとう。気を付けて帰ってね」


 歩き去っていく背中に手を振った。鼓動する心臓に一人で苦笑する。ひとまず目的は果たした。安堵の息を吐き出して、顔を上げる。幸い、人の通りはあまりなかった。彼女と同様、下校中と思しき子供が何人か通りかかったが、皆僕達に気付かず進んでいった為、僕と彼女が接触したところを目撃した者は恐らくいない。仮に子供が見ていたとしても、柔らかな表情で向かい合っていた僕達を不審には思わなかっただろう。


 アデーレという少女の性格に救われたな、と思いながら、僕はクランの家に戻った。


 クランは食堂にいるのか、玄関から台所までの道すがら彼女に会うことはなかった。台所で犯行に使ったグラスを砕いて、蓋にしていた布で包みこむ。包丁を隠した時のように人目に付かない場所へ仕舞うつもりで、一旦それを自分の鞄に収めた。


 食堂に向かうと、クランはいつもの服に着替え、ソファで船をこいでいた。眠たげだった瞼がぱちりと持ち上がって、輝いた瞳が僕を捉える。


「ライヒェ、おかえりなさい! アデーレには会えた?」


「うん。全部飲ませることが出来たよ。なんだか、プライドが高い子なのかな。ブラックコーヒーを頑張って飲みたがるような感じで、全部飲んでくれた」


「そっか。うまく飲ませられて良かった」


 クランの斜め前にあるソファへ腰を下ろして、何気なく袖を捲る。上品な光沢のある生地と、煌めく銀のカフスボタンを見て、僕がシリングスの服を着ていたことを思い出した。後で着替えなければな、と心中で呟いていたら、クランが少しだけ僕との距離を縮めた。


「次はどうやって殺すの?」


 毒を使って殺害する、という方法は、クランにとって興味深いことなのかもしれない。楽し気な口舌には悪意が欠片も含まれていないのに、僕を穿刺した。笑い返した頬が引き攣りそうだった。


 毒殺は、刺殺や撲殺、銃殺に比べて、『殺した』という実感を味わうことがない。亡くなる姿を目の当たりにしていないから尚更だ。そうやって、少しでも殺人者である自覚を意識の外へ追いやっていたかったのかもしれない。


 ジュースを飲ませただけ。その気持ちを、クランが純粋に砕く。『僕は人を殺して来たのだ』と、思い出させる。


 慣れなければ。まだ繰り返すのだから、慣れていかなければ。殺人者であるクランのことだけでなく、殺人者である僕のことも、受け入れなければ。


 息をした。肺腑が何かに圧迫されているような気がした。脆弱な意志ぼくが肋骨の内側で擦り切れていく。これでいいのだと言い聞かせて、僕は事もなげに笑った。


「次の子は、どういう子なのか、教えて」


「次は……カミルね。彼は病弱で、病院に通ってるの。私が病気だって知ると、どんな病気なのか知りたがった。不幸比べしたかったみたい。自分の方が可哀想だって思いたかったんだよ。でも私は、友達になれるって勘違いして教えたの。カミルが、自分が通ってる病院はいいところだから、行ってみてって言ってくれたりしたから。数日は、友達みたいに話しかけてくれてたし」


「それなのに、仲良くはなれなかったの?」


「うん。私の症状、触られるだけで痛いし、歩くだけで痛いし、服が触れるのも痛いって。そう教えたらすごく馬鹿にされた。『そんな変な病気はないから、頭の病院に行った方がいい』って、肩を叩かれて。痛かったから泣き叫んだら、私のこと軽蔑したように見て、どっか行っちゃった」


 自分の病気を軽んじられるのがどれだけ苦痛か、僕にはよくわかった。病の苦しみに理解を示されず、変だと思われるのは、辛い。クランに頷きながら、僕は自分の過去を思い出して、顔を顰めていた。


 しん、と掻い澄んだ部屋が、クランの語りが終わったことを告げている。僕ははっとして、現在に思考を戻した。


「その子は何の病気だったの? 病院に通っているってことは、薬を貰っているか、なんらかの治療を受けているんだよね」


「なんだったかな……不整脈……?」


 小児不整脈に使われる薬剤は学校で習ったことがある。数か月前の授業のことを思い起こす。恐らくキニジン硫酸塩だ。その特徴を思い浮かべて、僕はささめいた。


「それならジギタリスがいいな」


「じぎ……なぁにそれ?」


「植物園にある植物だよ。薬局や病院で薬としても置かれている強心剤で、心不全とかの治療に使われる。ただ、不整脈の患者が使う薬剤とは相性が悪くてね、一緒に使うと両方の薬剤の効果が増幅してしまう。だから併用を禁じられているんだ」


「併用? をすると、死んじゃうの?」


「その可能性は高い。子供だと尚更ね」


 そもそもジギタリスは毒性が強く、薬として使う際にも注意が必要な植物だ。もともと体が弱い子供に投与するのなら、毒としての効果は期待できるだろう。


 学校の植物園にもあるかもしれないが、授業をサボった僕が今から学校に向かうのは気が引ける。街にある植物園への道を思い浮かべて、それから時計の文字盤を見た。夕方といえるほど遅い時間ではない、昼過ぎ。これから陽が沈むことを考えると、実行は明日以降にした方が良さそうだった。一旦自宅に戻り、犯行に使ったグラスと手袋を隠し、それから翌日植物園に向かう予定を脳内で組み立てていく。


「後で植物園に行って採ってくるよ。乾燥させて薬にしないといけないから、ターゲットと接触するのは明日以降かな」


「そっか」


「日光に当てて乾燥させるために僕の家に戻るね。明日は学校にも行かないといけないし……」


 僕の話を真剣に聞いているクランの向こうで、食堂の窓が翠影に絵取られている。ここは木々に囲まれていてあまり日光が届かない。眩しすぎない明るさは居心地が良いが、植物を乾燥させる場としては不向きだった。


 カミルという男の子の容貌を確かめておこうと思い、僕は足元に置いていた鞄を手に取って、かぶせを開く。クランの同級生の写真を探していると、クランが僕の手元を伺察していた。


「鞄、破けちゃったの?」


「え?」


 クランに言われて、僕は鞄の中身から鞄自体に目を向け直す。捲っているかぶせの裏側は黒い革が剥がれ、内側の焦げ茶の生地が露出していた。それは数刻前、僕自身が切り取ったものだ。内側の生地も暗色だが、それでも目に留まるようだった。


「これは……革の布が欲しくて、少し切り取ったんだ」


「ライヒェが自分でやったの? よかった、嫌がらせでもされてるのかと思った」


「ふふ、こんな変な嫌がらせはないと思うよ」


 心配してくれたことが嬉しくて頬が緩んでいく。少しだけ口元を押さえて笑ってから気を取り直し、教科書の隙間に挟まれていた一枚の写真を摘まみ上げた。


「クラン、カミルって子はどの子? 通っている病院はこの街にある?」


「えっとね、この子。病院はこの街の病院。場所も分かるよ、カミルが私にも通院を勧めてきたから」


 クランが指さしたのは、短いくせ毛が特徴的な男の子だった。男子生徒のなかでも一番小柄な子だ。丸い眼鏡をしていて真面目そうな印象を受ける。眼鏡の向こうの目つきや顔立ちを観察していると、クランが補足をしてくれた。


「髪の色は栗色、目の色は青。あそこの棚の、一番下の段に病院の手紙が入ってるはずだから持ってきて」


「病院の手紙?」


「招待状みたいなの。地図が書いてある。私は通いたくなかったから行かなかった」


 革靴を鳴らして食堂の奥まで行く。棚の一番下の段を端から開けていくと、確かに手紙が入っている棚があった。数枚の封筒を一枚一枚確認し、病院からの手紙を開く。招待状に書かれている地図を見つめた。僕の家からこの病院に行くには、大学に繋がる道よりも手前で左折すればいいだけだった。迷う心配もなく、行きやすい場所にあって良かったなと思いつつ、手紙を念のためポケットに収めた。


「クラン、病院に行って検査をしてもらったことはある?」


「あるよ。すぐ痛がって泣き叫ぶから。お母さんが病院に連れて行ったの。でもお医者さんも分からないみたいで、異痛症の症状みたいだけど治し方はないって。色んな病院にも連れていかれたけど、お医者さんによっては私のことを『構って欲しいだけ、幼い子にはありがちだ』って、噓吐きみたいに扱って。そうされるのが嫌だから、もう病院は行きたくないってお母さんに伝えた」


 どこを見ているのか分からない瞳を転がして、クランは静かに話してくれた。彼女の思い出は僕の経験とも結びついて、簡単に映像を形作る。僕も無痛症で病院に行ったことはあるが、扱いは同じようなものだった。


 ソファに戻った僕は歎声を呑み込むと、そのまま背もたれに沈めた。


「それでよかったのかもしれないよ。だって、治し方も原因も分からない病気なんて、適当にあしらわれるか、モルモットみたいに色んな薬剤を投与されて苦しませられるかのどっちか。だから、クランがそんな風に苦しまなくて良かったと、僕は思う」


「ライヒェは、ひどいことされたの? 苦しいこと、されたの?」


 宙に漂っていた眼差しがふわりと飛んで僕に留まる。憂わしげに僕の返事を待ち懸く童顔から、僕は苦り笑って目を逸らした。振り返ってみた既住の中に、ひどいことと呼べるものがあるのかどうか、分からない。ひどい、苦しい、それらの基準は僕にとって曖昧だった。


「色んな薬を打たれたり、殴られたり、何度もされたけど、僕は、痛みを感じないから大丈夫だよ」


「……ライヒェ、違うよ。きっとライヒェも痛かったんだよ」


「痛くないんだ。そういう病気だから」


「ねえ、ライヒェは、もし私がいなくなったら悲しい?」


 長い金糸がさらりと流れて、クランの頭が傾いていた。僕は、クランが人を殺していると明かしてくれた日を思い起こしていた。僕を信じてくれていた彼女を傷付けて、拒絶された時。冷たい夜気に喉頸を締め上げられて、窒息してしまいそうだった。頸椎が砕けそうなほど息苦しくて、ひたすらに酸素を求めていた。


 あれは、悲しいという感情で間違いない。僕は頷いた。


「……うん。だから、クランを怒らせてしまった後も、こうして戻って来たんだ」


「悲しいとね、胸がぎゅってなって、苦しいよね」


「そう、だね。息が、出来なくなる」


「それが、痛いってものじゃないかな」


 澄んだ声はどこまでも透明で、僕には、クランが何を言いたいのか、上手く解釈出来なかった。痛みとは、傷や痣や骨折などに伴われる、肉体が衝撃を受けて損傷した時に抱くものだ。悲しいと感じる心には触覚さえ働かない。けれど、無痛症ではない人ならば、心にも痛覚があるというのだろうか。


 白皙が視界で揺らぐ。クランの腕が僕に伸びていた。それは僕の胸元に近付いて、シャツに触れそうなくらいすぐ近くで、ぴたりと止まった。白いシャツに影を引く指先が、僕の意識を惹きつける。自分の心音が聞こえ始めた時、クランが言った。それは春陽のような緩声だった。


「ライヒェは、痛いって言葉をどういう時に使うのか、分からないだけだよ。心は、きっとずっと痛がってたんだよ」


 クランの明眸はあたたかく僕を包み続けた。鮮やかな赤は炎よりも血のようで、僕を焦がすことなく、人肌の温度を注いでくれていた。どうしてか、彼女の手をとって抱きしめたくなる。僕は今、悲しいのか、嬉しいのか、痛いのか。自分の感情に名前を付けられなくなっていった。


 僕から離れていく指先を辿った。愁いを孕んだ微笑みが僕を見守っていた。


「……よく、わからないや。多分、痛いって思うくらい悲しいことなんて、今までになかったんだよ」


「ライヒェが悲しくないのは、私も嬉しい。でも『痛い』が分からなくて、ライヒェが悲しそうな顔をするのは、私も悲しい」


 ざらついた自分の指紋が、頬に擦り付けられる。自分の表情を、僕は五指で確かめようとしていた。震えた手が、口端に跡を刻んで、目尻と眉まで這い上がる。


 僕は『痛み』が分からない時、いつも悲しい顔をしていたのだろうか。


 不可視の糸がぷつりと切れて、僕の手は落ちていった。胸元に引っ掛かった指が、心臓を抉らんばかりに布帛を歪める。いくつもの感情が撹拌されていく。僕の意識とは裏腹に、弱さが下唇を伝っていった。


「僕は……痛覚がないから、心が痛いってことも、一生分からないのかな」


 それは、とても悲しいことだと思った。息が詰まっていく。肉体の痛みを知らない自分が、人間ではないもののように思えたのと同じく、心の痛みも分からない僕は、やはり人ではないみたいだった。


 おかしい。言われた言葉が、いつまでも僕に追従してきていて、僕を後ろへ引き摺り倒そうとする。やはり僕はおかしいのだと、僕が僕を貫こうとする。


 伏し沈んでいく僕は、クランの朗らかな声に引き上げられた。


「ライヒェ、今、息苦しい?」


「……うん」


「それを、ライヒェにとっての『痛い』にしよう? ライヒェ、それが、『痛い』だよ」


 彼女の笑顔が眩しい。僕に圧し掛かる暗翳が晴れのいていく。それでも、僕にとっての『苦しい』は、やはり『痛い』の定義に結びつかず、あきらめたように笑うことしか出来なかった。


「ありがとう、クラン。今日はもう帰るね。ちゃんとご飯食べるんだよ。明日、また来るから」


「うん。気を付けて帰ってね」


 鞄を手に提げて、空いている手をクランに振る。僕を励ますためか、クランは満面の笑みで、無邪気に両手を振ってくれた。少しだけ元気付けられた気持ちで、僕は靴底を鳴らした。


 木々の合間を歩き、暄暖の満ちる方へ進んでいく。


 悲しくて、胸が痛い。それは、どういう感覚なのだろう。母さんに背を向けられて、モニカに裏切られても、ただ、空気が薄くなったようにしか思えなかった。


 それは僕が、初めから母さんのことも、モニカのことも、信じていなかったからかもしれない。父さんは何も言わずいなくなったから、悲しいと思うタイミングがそもそもなかった。いつか帰ってくると、思ってたから。


 クランがいなくなってしまったら、本当に、痛いと思うような苦しさが襲ってくるのだろうか。僕はクランを誰より信じている。彼女に裏切られたら、痛みを感じるのだろうか。


 痛みは僕の皮下に横たわったまま、寝返りさえ打たなかった。



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