「so rot wie Blut」4
(四)
その日、僕は授業が始まる前に植物園へ向かい、ジギタリスの葉を採取してきた。一度家に戻って、日光の当たるベランダに葉を置き、乾燥するのを待つ間、学校に向かった。通常通り学校で授業を受け、いつもと変わらない日常を過ごした。モニカやシリングスと顔を合わせることもなく、歩み慣れた帰路を辿っていく。
街路を進む人の会話からは、小児連続殺人事件の噂は聞こえてこなかった。アデーレという少女が亡くなったかどうかはまだ分からない。今朝届いていた新聞には記載がなかった。まだ記事になっていないだけか、他殺ではなく事故として扱われて大事にはならなかったのか、アデーレが死ななかったのか。
生きているのなら、また殺さなければならないのだろうか。クランはあの家からほとんど外出をしないし、アデーレと出会う頻度も少ないだろう。これから殺害しなければならない二人の子供も『殺した』ということにして、クランに満足してもらうことは、出来ないのだろうか。
そこまで考え、僕は首を振った。少なくとも僕が警察を殺したのは事実で、もう後戻りはできない。それに、クランの味方でいると、クランを裏切らないと決めたのに、そんな情けないことを考えてどうする。
赤らんできた空を眇目した。自分の弱さで顰められていく表情を片手で押さえる。強張る頬をほぐしながら靴を鳴らしていった。
アデーレの生死を知りたいが、誰かに聞けば不審がられる。自然と耳に入ってくるまで、僕が殺害したのだと認識したまま、気に留めない方がいい。
僕は帰宅するなり、乾燥させていた葉の状態を確認し、水分の無くなったそれを粉末にしていく。磨り潰していくと草の匂いが漂った。
不整脈を患っている標的にこれを飲ませるのなら、どうするか。どうにか接触して薬をすり替えることも考えたが、それよりも普段飲んでいる薬と併用させたい。医者に紛するにしても、担当医ではない人間がこれを薬として与えた場合、怪しまれて病院に報告されるだろう。薬ではなく、飲み物か食べ物に混ぜた方がいい。
彼が水筒を持っていたなら、それをすり替えればどうにかなりそうだが、僕は彼の所持品も行動パターンも分からない。そのため、薬を造ったあとは、ひとまずカミルという少年の家を探る予定だった。
住所が分かればいいが、流石に子供の住所を記載している資料など手に入らない。学校や病院の周辺を歩き回って、写真で見た少年に出会えれば、と思うものの、その確率も低い。通院の曜日も分からない為、アデーレの時よりも遭遇するのが難しそうだった。
クランの家から持ってきた手紙を眺める。差出人名は病院の名前。宛名は書かれていなかった。おそらく手渡しで渡されたものなのだろう。
カミルとの接触方法を考え、封筒をしばらく眺めて、中身を取り出す。便箋には病院からの言葉と、紹介者であるカミルの名前が書かれていた。カミル・シューマン。僕は、自室の机の中から筆記具を取り出す。白紙の宛先に『カミル・シューマン』と丁寧な文字で書き記す。便箋を裏返し、病院名の下には『小児科』と書き足した。
薬にしたジギタリスは一旦容器に移しておいて、僕は手紙を懐に仕舞いこみ、小学校の通学路に向かった。
茜色が広がる街並みの中、下校している小学生は見当たらない。小学校の授業が終わるのは昼過ぎのため、この時間だと既に帰宅している子供が多いだろう。
ふと、通りかかった公園で足を止める。滑り台やブランコで遊んでいる子供に、追いかけっこをしている子供、ボール遊びをしている子供が目を射る。すると、見覚えのある二人の子供と目があった。
砂場で遊んでいた少年少女は、クランと出会った日に助けた兄妹だ。助けた、と言っていいのかは分からないが、僕が不良少年を公園から遠ざけたあと、僕にお礼を言ってくれた子達だった。改めてみると、二人はクランと同じくらいの年ごろに見えた。この公園で遊んでいるということは、通っている小学校も同じなはずだ。
僕は柔和な笑みを湛えて、二人に歩み寄った。兄と思しき少年がお辞儀をし、妹だろう少女がきょとんとしていた。
二人の前まで歩いて、腰を屈める。ポケットに仕舞っていた手紙を出して、二人に尋ねた。
「ねえ、カミル・シューマンっていう子、知らないかな? これ、落ちてたんだけど……小児科からの手紙だから、君達くらいの子が落としたんだと思って。病院の手紙ってことは、失くして困ってると思うから」
少女が波打つ茶髪を揺らして首を振る。それから少年の方を見上げていた。
「お兄ちゃん知ってる?」
「カミルくんなら、同じクラスだけど……家分かるし、届けてこようか?」
「場所を教えてくれたら僕が行ってくるよ。だって、砂のお城、作り途中でしょ」
少年は口を開けたまま足元を見遣った。少女は既に砂遊びを再開しており、白い手が汚れるのも構わず、砂を掻き集めていた。僕に向けて頷いた少年だったが、その視線はさまよう。小学生の住所を訊いたことを、やはり不審がられているのかもしれない。
そんな僕の不安とは裏腹に、少年の問いかけは僕の虚をついた。
「お兄さんって、いつもそうやって人助けしてるの?」
「え?」
「……俺も、お兄さんみたいに怖い人に立ち向かえないと、かっこわるいよなって」
少年は、僕と出会った日の自分を睨めかける。苛立ちを垣間見せる眼差しは僕に向けられない。
あの日、どれほど蹴られても悲鳴一つ上げず、苦笑さえ零していた僕を、不良少年達は気味悪がって去っていった。この兄妹も、お礼を言いには来たが、明らかに僕のことを怖がっていた。だから、この少年があの日の僕に、憧れのような気持ちを抱いていたなんて思いもしなかった。
少しだけ、空気が澄んだように思えた。僕は少年に手を伸ばし、柔らかな髪を撫でてやる。少年は瞼を大きく持ち上げて僕を瞠視していた。
「あの日も今日も、妹と一緒に遊んであげてるってだけで、貴方は良いお兄ちゃんだよ。格好悪くなんてない。あの時貴方が怖いお兄さん達に向かって行ったら、妹さんまで危ない目に遭ったかもしれないでしょ。立ち向かうだけが正しいわけじゃないよ」
「そう、かな。……お兄さん、ありがとう。この前も、今日も」
「うん。砂のお城、綺麗にできると良いね」
少年はこくこくと点頭して、顔を上げた。公園をぐるりと見回したかと思うと、彼は出口の方を指さす。
「カミルくんの家は、あっち。病院がある道よりも進んで、左に曲がったらおっきい学校がある道を右に曲がっていったところ。白い壁に緑の屋根の家は、あの通りだとカミルくんの家しかないから分かると思う」
彼の言っている大きい学校、というのは僕の大学のことだ。そのため、どの道の話をされているのか、僕にはよくわかった。家の特徴も分かりやすく、カミル・シューマンの家は簡単に見つけられそうだった。
「ありがとう。またね」
少年に手を振り、カミルの家を目指す。公園から大学の通りまではどこまでも見慣れた景色で、けれど通学時とは時間帯が違うため色彩は異なっていた。昼間の喧噪を吸い込んで、音を失くしていく夕刻の道は、些細な物音さえ響かせる。僕が病院からの手紙を懐に収めると、紙と衣服の擦過音がさざめいた。
学校に続く道を素通りし、右折する。住宅地らしいその道は閑散としていた。立ち並ぶ家々が四角い暖色の明かりを灯していて、夕食の気配を漂わせていた。
白い壁の建物は数軒、そのうち、緑の屋根の建物は一番奥にあった。歩む速度を落とすと、二階建ての民家を観察する。カミルの通学前に待ち伏せをして接触をするべきか、思案する僕の黒目が、玄関前に縫い留められる。
ポストの傍に置かれている木箱は、配達される牛乳を入れるためのものだ。つまり、この家には毎朝牛乳が届けられる。蓋はコルクの為、一度開けて閉め直しても、開けられたという痕跡は残りにくい。
牛乳配達の時間は早朝。通学時間よりも早く、ほとんどの人が寝静まっている時間だ。配達された後に、この家に届けられた牛乳にジギタリスを混入させる。
計画を組み立てて立ち去る僕の脳内に、公園で少年に言われた『人助け』という単語が浮漂する。少年に言われた『ありがとう』が、僕の足付きを重くしていく。
僕は、少年の善意を利用して、人を殺すのだ。それがどれほど酷い行いか、切歯して噛み締めていた。
全部終わったら、早く、裁かれてしまいたかった。
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