「so rot wie Blut」5
(五)
早朝、カミルの家に配達された三本の牛乳全てにジギタリスの粉末を注ぎ込み、僕はそのまま大学へ向かった。運動部の生徒が朝早くから校舎の周りを走っているくらいで、他に登校している生徒は見受けられない。朝の冷やりとした空気を吸い込むと、呑み込んだそれは少しだけ僕の眠気をさましてくれた。
誰もいない教室の、適当な座席に腰を下ろす。通学中に買った新聞を鞄から取り出して、記事を一つ一つ読んでいく。この街で起きた事件や事故について書かれているページをじっと細見した。
アデーレという少女の死亡記事は、紙面に小さく記載されていた。記事によると、夕食後に腹痛を訴え、嘔吐を繰り返したのち、亡くなったらしい。食中毒とみられており、夕食に使われた食材に原因があったのではないかと書かれていた。
警察がどう思っているかは分からないが、毒殺が疑われていないことが記事から読み取れる。安心して新聞紙を閉じようとしたら、安閑としていた教室内に落ち着いた低声が響いた。
「カレンベルク、こんな時間にどうしたんだ?」
吃驚した僕の両肩が恥ずかしいくらい持ち上がる。顔を上げると、ベルンハルト先生が教室の扉を開けてこちらを眺めていた。僕と目が合うと、彼は切れ長の目を柔らかくしならせて、革靴を鳴らす。
いくつもの空席を通り過ぎた彼は、僕の席まで歩いてきた。
「ベルンハルト先生、おはようございます。ちょっと、早く目が覚めてしまって」
「疲れてるんじゃないか。この前は珍しく無断欠席までして」
「あ……すみませんでした」
「別にいいさ。授業が分からなくて困るのは君だ。ところで、車椅子の友人は元気か?」
先生は、僕に車椅子をくれてから、とても気にかけてくれる。病気である友人を心配してくれているのか、僕を実子のように見守ろうとしているのか。彼の真情は分からないが、父親然とした彼との掛け合いは、僕にとって心地の良いものだった。おかげで自然と穏やかな声が流れ出す。
「そう、ですね。車椅子は、気に入ってくれて」
「友人は同い年なのか?」
「いえ、全然。公園で出会って、仲良くなったんです。小学生の……」
言いさしたのは、それを明かしていいのかどうか、不安になったからだ。大学生の男が幼い女の子と親身になっていることを、いかがわしいと思う人もいる。けれど、先生は顰蹙することなく首を傾げていた。彼が気になったのは、僕とクランの年齢について、ではなかったらしい。
「その子の親はどうしてるんだ? 親が車椅子を用意してやりそうなものなのに」
「彼女の母親は、亡くなっていて。父親は帰ってこないって言っていました」
大人は、同じ大人のことが気になるものなのかもしれない。クランの家庭環境を思い浮かべてか、彼は不興げな顔になっていった。顎に手を添えて唸ったかと思えば、額に手を当てて溜息を吐き出す。彼の百面相に僕は目を白黒させていた。
ベルンハルト先生は眉間をつねって、それから困り顔で笑った。
「ひどい父親だな、と思ったんだが……私も似たようなものかもしれないから、人のことを言えないな」
「ベルンハルト先生は、良い父親だろうなと思いますけど……」
「いや……昔、当時付き合っていた女性が妊娠してね。彼女は子供を産んだが、その子が病気だと知ると、私に押し付けて別れを告げてきたんだ。当時の私は……突然告げられた別れと、静かに死んでしまいそうな赤子に耐えられなかった。だから、その子を友人に養子として渡したんだ」
彼は、寂しげな顔を微笑で隠そうとする。生徒である僕に情けない面を見せたくないからか、とも思ったが、そうだとしたらそもそも語ってはくれないだろう。
少し考えて、僕は思った。この人は、実子を養子に出した自分を責めている。自分が寂しいと感じることを、罰している。噛み締められた彼の唇を見つめて、彼の生真面目さに僕は困り笑うしかなかった。彼は歯型の付いた唇を緩やかに動かす。
「養子に出したのは、私よりも友人の方が優しいだろうし、何より母親がいる方がいいと思って……なんていうのは、綺麗事だな。ただ、逃げたんだよ。小さな命を育てるのが怖くて」
「先生も……逃げてしまうことがあるんですね」
話に耳を傾けながら、僕は愁眉を開いていた。僕よりもしっかりしていて、生徒が慕うような大人である彼も、人並みに失敗をする。その事実に、僕の思う『情けない僕』が救われたような気がした。
「ああ。情けないことにな。人は逃げる。けど、後悔してるよ。だから薬について学んだ。病気の子供を救いたかった」
「……もう一度子供を望むことはなかったんですか?」
「望んだよ。だから今は小学生の娘がいる。まぁ、その妻とも離婚していて……毎朝娘よりも早く家を出て、娘が寝る頃に帰宅をするから、寂しい思いをさせているかもしれないな」
僕に優しくしてくれる彼は、少なくとも僕の目には良い親として映っていた。忙しくとも、寂しがっていないかなど気にかけているのなら、その優しさは彼の娘にも伝わっているはずだ。
大丈夫ですよ、と安心させるように笑んでいれば、彼の面差しは急に険を孕む。
「そういえば、最近はそのくらいの子が亡くなる事件が多い。一緒にいる時は気を付けてあげるんだぞ」
僕は笑窪を深くして頷いた。そこに狼狽が漂わなかったか、
クランのターゲットである小学生の親は当然、いつまでも解決しない事件に目を光らせて、その情報をかき集めては我が子を守っているのだろう。少しでも口を滑らせれば、僕と事件の繋がりが見つけられてしまいそうで、つい噤口してしまった。
ベルンハルト先生は無言で笑う僕を気にせず、黒板の傍にある時計を確認していた。窓硝子をすり抜けた旭日が、彼の短い茶髪を金糸のように染めている。彼はジャケットの内側に手を入れていた。煙草でも取り出すみたいな仕草で、革表紙の手帳を抜いていた。手帳を括るベルトを外して、彼は挟んであった紙を摘まむと、僕に差し出してくる。
一見して名刺と見間違えたそれは、招待状のカードだった。
「来週、私の娘の誕生日パーティをするんだが、よかったら君と、君の友人も誘ってウチに来ないか? 知人に頼んで美味しい料理をたくさん用意してもらうつもりだ」
「えっ、でも、せっかくの娘さんのお誕生日に、ご迷惑じゃないですか」
「迷惑じゃないさ。賑やかな方がペトラも喜ぶ。よかったら、来てくれ」
招待状の文字は恐らく先生が、招待状の絵は彼の娘が描いたのだろう。読みやすい文字とカラフルな風船のイラストに頬が緩む。僕がそれを受け取れば、彼も満足そうに笑っていた。
授業の準備をする、と言って遠ざかっていった背中を見送り、僕は招待状を眺めていた。
ペトラ、と、彼の娘の名を胸中で繰り返す。どこかで聞いたような名に、しばらく首を傾けていた。賑やかになり始めた教室でぼんやりと授業を受ける。けれど思考は全く筆を動かしてくれない。白紙のノートや、睡魔を誘う時計の音を朧げに捉え、ようやく意識が醒めたのは、放課後にクランと合流してからだった。
「──あとはペトラだね。次のターゲットで、子供は最後」
食堂に入って、ソファに腰を下ろそうとしている僕を横目に、クランはそう言った。二人だけの室内は相変わらず悄然としていて、僕が黙り込むだけでしんと寂び返る。
背もたれの木造装飾を指でなぞったまま、間の抜けた顔で固まる僕に、クランは首を傾けていた。ぽかんと隙間を生んだ唇から、僕の無意識下で小息が零れる。
「……え?」
「カミルは殺したんでしょ?」
「あ……うん。牛乳にジギタリスを混ぜてきたから、きっと亡くなってる」
「だから、次はペトラだよ」
頷きながらソファに座るも、心を落ち着けることは出来なかった。胸元にある招待状が気になって、ジャケットに手を伸ばす。けれど襟を正しただけで、ポケットには触れなかった。
クランはいつものように、思い出に冷眼を向けていた。
「ペトラは、廊下で私にぶつかって、私が泣き出したら怒鳴ったの。『そこまで痛くないでしょ。早く泣き止んでよ』って。それでも私が泣いてたら、先生が来て、ペトラのこと叱ったの。それからあの子、私のこと噓吐きって色んな子に言いふらして、あの子のせいで色んな子に嫌われた。『噓吐き
現前には何もないのに
今になって『そのくらいで』と言いたくなってしまうのは、僕の覚悟が罅だらけであることを明らかにしていた。
「……ねえ。ペトラの、フルネームを、聞いてもいい?」
「ペトラ・ベルンハルト。写真にも映ってるよ」
僕は、さりげない仕草で口元を隠して俯いた。同姓同名、ということはないだろう。次に殺さなければならない少女は、僕に優しくしてくれた先生の、娘。それは、揺らぐことのない事実なのだと、その名が告げていた。
クランに促されるまま、胸ポケットへ手を入れる。少しだけ指が硬直したのは、写真と共にベルンハルト先生から受け取った招待状が入っていたからだ。指の腹で分厚さを確かめて写真を取り出し、テーブルの上に置いた。
「この子。明るい茶髪で緑の瞳をしてる」
「……クランは、本当にその子を、殺したい? 殺さなきゃいけないほど、その子が憎い?」
赤い瞳は果実のような丸みを帯びて、室内光で艶めく。見えない氷刃で胸間を貫かれるようだった。余計な質問をしたと感じ、自身を叱咤していたが、クランは相貌を歪めることなく、ただただ吃驚していた。純粋に、僕の問いが不思議だったみたいだ。
「あの子がいなかったら、学校中の笑いものになんて、ならなかったもの。……どうしてそんなことを訊くの?」
逃げ道が欲しかったと、そう白状したら彼女は僕に失望するだろうか。今度こそ彼女の傍にいられなくなって、追い払った孤独が彼女のもとに舞い戻るのだろう。
想像した。彼女から離れて、普通に暮らして、ベルンハルト先生の招待状を持ってパーティに参加する僕を。優しい先生に歓迎されて、美味しい物を食べて、笑う僕の姿を。その隣にクランはいない。そう考えたら寂しくなった。情けなくなった。
この世にはたくさんの人がいて、味方や家族が誰か一人は傍にいる。それなのにクランはたった一人なのだ。
手が届く範囲に孤独な子供がいる現実を、僕は知っている。なのにまた突き放そうとしたのか。突き放される苦しみを知っているのに、また逃げようとした。曖昧な覚悟で歩み寄って期待させて、それから離れた方が辛いことも、分かっているのに、また揺らいだ。
いい加減にしろ。自分にそう言い聞かせて
僕は写真を懐に仕舞い込んで、クランに笑ってみせた。
「なんでもないよ。クランがそう言うのなら、ちゃんと殺害してくる。任せて」
細めた瞼が暗闇を覗かせる。眼裏にはずっと僕がいた。幼い日の、母の鏡に映る僕。鏡越しに見た自身の寂寞がいつまでも僕を責め立てる。ほの暗い部屋の硝子に反射した眼差しが、クランに背を向けようとする僕を射し穿つ。
独りぼっちの子に、背を向ける生き方はしたくない。僕は母さんとは違う。モニカとも違う。友達だった人とも違う。
クランの傍にいることでしか、それを証明する術がなかった。
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