「so rot wie Blut」6



     (六)




 パン屋で二つ購入したフルーツタルトを、僕は自宅の台所で取り出した。果物を全て別の皿に移し、タルト生地には公園で採取してきた赤い果実を敷き詰めていく。赤く丸いそれは、クランの眼子のようだった。


 毒を含む植物には様々な毒の成分があるが、金銀木の果実に含まれる毒の成分は判明していない。毒というものは使い方次第で薬となる。詳細の分からない毒を研究することで、新たな治療薬の発見に繋がる可能性もある。だからベルンハルト先生は東洋に生る金銀木をいくつも取り寄せた。


 金銀木の毒の強さはトリカブトと同等と言われている。トリカブトに含有されているアコニチンの致死量は二ミリグラムから約六ミリグラムで、葉を一枚食べるだけでも猛毒だ。金銀木の果実も多量に摂取すれば人を死に至らしめる。


 ただ、苦い果実を多量に食べさせるにはどうにか甘味を感じてもらわなければならない。上手くいくことを願いながら、もう一つのフルーツタルトには、元の果実をいくつか残したまま、細長い木の実を乗せていく。


 二つのタルトを丁寧に包装して、僕は招待状に書かれていた住所に向かった。


 昼光が満ちる街路には、帰宅していく子どもの影がいくつも通り過ぎる。大学はまだ授業中だが、僕は朝から学校には行っていなかった。


 昨日クランの家で覚悟を決め、公園と植物園で材料を集めて、先程購入したフルーツタルトを手に提げてペトラと接触をする。ベルンハルト先生と顔を合わせない為には、平日の方がいい。


 大通りの殷賑さに背中を向けて、住宅地を進んでいく。ベルンハルト先生の家は、白く低い柵で囲われていた。広い庭は整備されており、小さな花が揺れていた。煉瓦造りの家を見上げながら庭の中心を進んでいく。


 叩き金を鳴らせば、少しして小柄な少女が顔を覗かせた。真面目そうな顔つきに、鋭さのある目元は先生によく似ていた。


「どちらさまですか?」


「えっと、ベルンハルト先生の大学で、彼にお世話になってる、ライヒェって言います。はじめまして。ペトラさん、だよね」


 先生の名前を出したからか、彼女の警戒心は緩んだようだった。扉から半分だけ覗いていた顔は強張りを緩め、扉を大きく開いてくれた。


「はじめまして、ペトラです。お父さん、夜にならないと帰ってこないんですけど……」


「今日は貴方に用があってきたんだ。今度誕生日なんでしょ? 招待状をもらったんだけど、当日は行けそうにないから、今日お祝い出来たらなって。タルト、持ってきた」


「タルト……!」


 お菓子が好きなのか、翠玉が爛々と光り始める。彼女が犬だったならしっぽを振っていたかもしれない。そのくらい欣喜して僕に飛びつくと、急に恥ずかしくなったのか俯いていった。咳ばらいを落とした彼女が玄関に戻っていく。


「上がってください。お茶出しますね!」


 彼女の影を追いかけて廊下を進んでいく。壁には絵がいくつもかかっていた。ペトラが描いたものだろう。何が描いてあるのか分からない子供の落書きは、奥へ進めば進むほど輪郭と色彩が整っていく。公園のスケッチをちらと瞥見したのち、僕はリビングに入室した。


 台所で食器を鳴らすペトラが、僕に座るよう促す。四人掛けのテーブルの奥にある座席へ着座して、流し台越しに彼女を見遣った。手際よく紅茶を入れる彼女は僕を見て、にこりと笑んでいた。


「ライヒェさんって、お父さんに車椅子をプレゼントされた人?」


「えっ、知ってるの?」


「お父さんが話してました。いつも誰とも喋らないような子だけど、お父さんに相談してくれて、頼ってくれたみたいで嬉しかったって。だからつい車椅子買っちゃったとか笑ってました。お父さん怖そうな顔してるくせに単純だから、頼られるとなんでも買っちゃうの」


 タルトを渡すために鞄を開けていた手が、動きを止めてしまった。ベルンハルト先生の顔が脳裏を過ぎる。切れ長の鋭い目に、眉間に刻まれた皺、不機嫌にも聞こえる低い声。怖そう、という形容はとても彼に合う。それに苦笑してから、やはり車椅子が偶然入手したものではなく、僕の為に買ってくれたものであることが明かされて、喉が詰まりそうだった。


 タルトの包みが音立てて、その擦過音は陶器の音柄に消されていく。机上にはティーセットが置かれていた。ソーサーもカップも、淡い猫が描かれていて可愛らしい。僕の正面に腰掛けたペトラが、小さな両手で自分のティーカップを持ち上げていた。


「このティーカップもね、可愛いから欲しいってねだったら買ってくれたんです。ほんと甘い人で、休みの日は沢山ショッピングに付き合ってくれるし、私がちょっとでも見つめてると買おうとしたり……ってごめんなさい、一人でいっぱい喋っちゃって」


「ううん、良いお父さんだね。学校でも、優しい先生だよ」


 僕は、苺やキウイなど様々な果実が乗ったフルーツタルトと、金銀木の赤一色のタルトを机に出して、彼女の方へ寄せる。ペトラは二つのタルトを嬉しそうに見比べ、まず金銀木のタルトにかぶりついていた。


 僅かな不安が僕の息を引きつらせる。毒が効くのは摂取してから数十分後の為、すぐに死に至るものではない。とはいえ、その味への違和感から警戒される可能性は高いはずだ。


 案の定ペトラは苦虫を噛んだような顔で咀嚼をしていた。僕は苦笑して、もう一つのタルトを指し示す。


「こっちから食べた方がいいかも。その後こっちを食べた方が美味しく感じると思うよ。僕も味見したんだけど、赤い方は大人の味だったよね」


 ペトラはこくこくと頷いて、言われるままに色鮮やかなフルーツタルトを口に含む。美味しい、と半分ほど食べてから、もう一度金銀木の果実を咀嚼し始めた。目を皿のようにした彼女は、嚥下するなり感嘆を上げていた。


「っほんとだ、甘い……! なんで⁉」


「そっちのタルトに乗ってる、これ……ミラクルフルーツっていうんだ。糖タンパク質であるミラクリンっていう成分が含まれていて、レモンとか、酸っぱい物や苦い物が甘く感じるようになる」


 フルーツタルトに混ぜた細長い赤果実は、僕が植物園で採取してきたミラクルフルーツだ。薬剤の苦みも抑えられることから、医者もその成分に目をつけていたりする。苦い薬を拒む子供に与えることもあるだろう。


 笑顔で食べ進めてくれる姿に胸を撫で下ろし、紅茶を啜る。暖かなダージリンは柑橘の香りを纏って、僕の喉を潤した。


「っふふ、タンパク質とか成分とか、お父さんもそういう話好き」


「そ、うなんだ?」


「私にお兄ちゃんがいたら、ライヒェさんみたいな人だったかもしれないですね」


「僕は先生ほどしっかりしてないから……」


「お父さん、ライヒェさんと話すのも楽しくて好きみたいだから、これからもいっぱい話しかけてあげてね」


 まるで、普通の食事の時間を過ごしているみたいな、穏やかな安閑に寄りかかりそうになる。このままゆったり居座って、帰って来た先生とも閑談したくなる。


 けれども眼路にある鮮らかな赤が、僕の罪を思い出させる。血のように赤い、クランの美玉を想起させる。


 それなのに、ペトラの手からタルトを払い除けたくなった。いつか聞いたベルンハルト先生の優しい声遣いが蘇って、いつまでも意識の中に佇み続ける。


『友達を大切にしなさい、カレンベルク。もちろん、君自身のことも、大切にしなさい』


 先生は、僕とクランが仲良くいられるように、願ってくれた。楽しく過ごせるように、車椅子を贈ってくれた。彼の言葉には背いていない。僕はクランと僕自身を優先する道を選んだ。だから間違っていない。


 間違っていないのに、その選択の先で、先生が苦しまなければならないのはどうしてだろう。


 僕は、紅茶を一気に飲み干した。咽喉をしつこく漂っていた葛藤を、臓腑まで深く深く沈める。ソーサーに戻したティーカップが、からん、と響いた。その響きは、ひどく冷たかった。


「…………うん。用事あるから、僕はもう、帰るね」


 ペトラに手を振って、席を立つ。礼儀正しく「さよなら」と会釈をしてくれた彼女に、僕も軽く頭を下げて、家を後にした。


 ベルンハルト先生は、授業以外のことでも僕に話しかけてくれることが増えていた。僕のことも、クランのことも、気にかけてくれていた。僕と話すのを楽しんでくれていたなんて、知らなかった。クランの他に、僕と好き好んで話をしてくれる人がいるなんて、知らなかった。


 父親のように、僕に優しさを向けてくれた先生。険しい面貌が暖かく緩む様を思い出す。ふ、と溢れた僕の息が、震えて消える。


「もう、話しかけられるわけ、ないじゃないか……」


 痛みがなくても、生きている証明は出来るのだと、クランは僕に言ってくれた。今ならそれがよく分かる。


 心の痛みすら分からないのに、ぐらぐらと揺らぎ続けるこの心は、生きている。だから殺さなきゃと思った。死んでくれと願った。優しい人の娘に毒を喰わせて、それなのに戻りたいだなんて、甘えるな。


 蹌蹌とした足付きで、賑やかな街を歩きながら、胸臆に吐き捨てる。僕の心に、何度も何度も呪詛を吐く。クランの隣を求めて、優しい先生まで求めるのは愚かしい望蜀ぼうしょくだ。僕はどちらかしか選び取れない。


 全ての人に好かれる食べ物がこの世に存在しないのと同様、全ての人にとって救いとなる薬も存在しない。誰かを虐げることでしか、誰かを救えないこともある。誰も傷付けずに人助けをしたつもりでも、誰か一人は必ず傷付いているものだ。


 僕は何人もの子供を殺した。クランの心を救う為に。それは正当防衛にはなり得ない。その事実が、きっとまたクランの心を傷付ける。彼女は加害者でしかないと、誰もが非難する。世間的に被害者になれない彼女は、彼女が味わった痛みを考えもしない人々に延々と傷付けられる。


 痛みが目に見えたなら、彼女はもっと、世間に守ってもらえたのだろうか。彼女が人殺しになってしまう前に、誰かが、彼女の病気を信じて親身になってくれただろうか。噓吐きだなんて、その病と人格を否定されるようなことは、なかっただろうか。


 過去に出来た傷は二度と治らない。彼女の傍にいる僕は、彼女の傷が増えることのないよう、祈るしかなかった。そのために、僕が傷付いている姿など、彼女には見せるわけにいかなかった。


 嗚咽が漏れる首に手を当てて、呻く。クランだけの為に生きたい。だから、他人に揺さぶられる心はいらない。死んでほしい。早く、僕の心が、動かなくなって欲しい。痙攣すらしない痛覚みたいに、心も何も感じなくなればいい。


 涙が溢れる前に、僕は、無数の感情が混然していく心を必死に殺そうとしていた。償うべきだ。違う、クランを救わないと。まだ殺すのか。急いで戻ればペトラを助けられるかもしれない。いや、僕は殺す道を選んだんだ。もう戻らないって決めたのに。もう迷わないって決めたのに。


 クランの為に。クランが僕みたいにならない為に。言い訳を重ねて罪を正当化していることは分かっている。罪が罪でしかないことも分かっている。そうでもしなければ、クランを否定せず救ってあげることが出来ない。


 だけど、嗚呼。


 揺らぐな、と、自身に言い聞かせる。善人ぶった僕を、うるさいと黙らせる。騒ぐ胸を拳銃で撃ち抜いてしまいたかった。二度と迷わないように。二度と、誰からも幸せを奪わないように。銃口を胸骨に突き立ててしまいたい。


 どれほど強く願っても心は死んでくれないのだと、涙ぐんで思い知る。間違っていることを正しいことだと、心から思えるように変わることは、僕には出来なかった。人は簡単に壊れられない。どれだけ殺しても、開き直れない。壊れた方が何も感じなくて済むのに。


 自身の為人ひととなりを理解して、しゃくりあげる。殺してしまった子供達を思い出して頭を掻きむしる。


 もう、死んでしまいたかった。

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