第四章「──銃声」

「Schussgeräusch」1


     (一)


 授業が行われている時間のトイレには人気がなく、静かだった。吐出した胃液の音が未だ反響しているように錯覚するほど、誰の音骨もない。蛇口をひねって水を出し、僕は両手でそれを掬い上げると、自身の顔に押し付けた。


 冷たい。滴る水滴が睫毛に絡む。濡れた前髪を見上げれば、精彩を欠いた瞳が玻璃に浮かび上がって僕を射る。鏡に映る肌はひどく青ばんでいた。それは、ペトラ・ベルンハルトを殺害した昨日と何も変わらない。


 ベルンハルト先生が娘を亡くし欠勤しており、午後の授業は休講になったことを、今しがた他の先生から告げられた。僕のせいだと、僕は分かっている。だからこそ、罪悪感が僕の臓物を抉っていた。


 あの後、クランとは顔を合わせていない。彼女が眠っている時間に家へ向かい、置手紙を残してきた。手紙にはペトラを殺害したことと、クランの父親と会う予定をどうにか作ってみる、という内容が書かれている。直接話しても良かったが、顔面蒼白の今の僕では、クランを心配させてしまうだろう。


 口端を拭ったら、付着した液体が一瞬血液に見えた。蛇口の水と混ざり合った滴は無色透明で、腥臭を放つことなく排水口へ吸い込まれていった。やつれた精神は洗い流されず、内臓に溜まっている感覚があった。どす黒い塊がまだ嘔吐感を催すものだから、数秒のあいだ口元を押さえて俯伏していた。


 前髪の先から滴が零れなくなった頃、呼吸も落ち着きを取り戻して、心音も秒を刻む程度の速さになった。廊下から笑い声が聞こえてくる。腕時計を確認してみると、ちょうど授業が終わる時間だった。


 僕は教室へ戻って自身の鞄を回収すると、一階の廊下に寄りかかって、通り過ぎていく生徒達を眺めた。黒目をせわしなく動かし、探し人の特徴に意識を向ける。僕よりも少し低い背丈、波打つ飴色の髪、大きなはざめに収まっている蒼玉。彼女だ、と踏み出した僕の瞳孔と、晴れ空を思わせる碧眼の視点は直線上で結ばれる。


 モニカは僕に気が付くと、悪戯っぽく笑って、生徒の間を縫いながら彼我の距離を縮めた。


「ライヒェ、もしかして私のこと探してた? ……なんてね!」


「探してました。先輩が先に帰っていなくて良かったです」


 僕の言葉はそれほど意外なものだったのか、モニカは大げさなほど目を見開いて、大口を開けていた。開いた口がふさがらないようで、彼女は掌で口腔を隠すと、両目をしばたたかせる。


 昇降口に向かう生徒達の波から離れた彼女が、僕の隣に並んで壁に肩を預けた。


「うそっ、どうしたの? 君はいつも私のことを避けてる感じなのに」


「避けてませんって……」


 モニカを見ると、僕を嘲笑っていた声を思い出す。『死体くん』という仇名を笑い、シリングスと相言を交わしていた彼女に嫌悪が込み上げる。


 吹きこぼした苦笑が冷笑に見えてしまわないか不安を覚えたが、これから告げる内容を考えたら、繕う必要もないのだと気付く。微笑の仮面を剥いでしまうと、心なしか自身の声が低くなったような気がした。僕達の会話が、行き交う生徒の耳に残ってしまわないよう、モニカにだけ届く弱さでささめいた。


「今度食事をしませんか。モニカ先輩と、シリングスさんと、僕の三人で。大事な話があるんです」


 笑み曲がっていた桃顔が崩れる。モニカの喜色を乱したのは僕の声調か、言葉か、空気か。いずれにせよ、彼女は僕の提示した『食事』が逸遊の類ではないと察したようだった。


 朱唇は怏怏と歪んでいく。感取したのは苛立ちよりも怪訝。それもそうだろう。恋人同士である二人を食事に誘う物好きは、そういない。それでも僕は静かにモニカを見返していた。


 然無顔しかながおのモニカが返事に悩んでいる間、かからめく生徒達の声が耳朶を打つ。笑いさざめいている彼らと僕達は、同じフロアにいるというのに別の空間に立っているみたいだった。喧騒から遊離した緘黙が僕とモニカだけに圧し掛かる。開いて閉じてを繰り返していた彼女の口が、ようやく問いを放った。


「大事な話って、なに? 私は構わないけど、シリングスさんが了承するかは分からないよ。それに、一応言っておくけど、私は君とは付き合えない」


「何を考え込んでいるのかと思ったら、面白い冗談ですね。僕がモニカ先輩に恋情を抱いているとでも?」


「そっ……それじゃあ、何の話なの」


「まだ言えません。それと、シリングスさんなら、こう言えば了承してくれるはずです。『貴方が不倫をしていることを言いふらされたくなければ応じてください』」


 僕の囁きの余韻はすぐ雑踏に呑まれる。飴色の髪から舞った香水の蘭麝に眉をひそめ、僕はモニカから身を離した。人通りが多いとはいえ、あまり近い距離に居続ければ注目されかねない。


 隔たりという目に見えない机を一台挟んで、僕はモニカから顔を背けた。冷たい壁に後頭部を凭れさせると、黒目だけを彼女に向ける。声を伴わず動いた彼女の口元は、不倫、という単語を象っていた。


 青びれていく肌から血管が透けて見えるようだった。彼女の血汐はどくどくと激しく脈打っているのだろう。左右に揺れる虹彩、左右に揺れる首、それらが彼女の狼狽をありありと黙示していた。


 カツ、と甲高い一音が鳴り渡る。僕に詰め寄ったモニカの靴音は周囲の会話すら黙らせていた。震える諸目が捉えているのは僕だけで、モニカは雑談を止めた生徒達すら視界に入っていないみたいだった。


「不倫って、何を言ってるの。私とシリングスさんは付き合ってるけれど、あの人は独身で……」


「場所、変えますか? 聞かれちゃいますよ」


 それは気遣いでもあり、僕にとっても困ることだから持ち掛けた提案だった。モニカはハッと口を噤んで廊下を見回していた。耳をそばだてていた生徒達も、彼女に見られると会話を再開して歩き去っていく。


 モニカは僕の袖を引いて踵を鳴らした。彼女が向かったのは昇降口の方ではなく、教室がある方だ。授業後の誰もいない一室に僕を引き入れると、素早く扉を閉めていた。彼女は扉を背にしたまま、神妙な面持ちで僕に続きを促す。僕はため息混じりに続けた。


「シリングスさんには奥さんも娘もいます。離婚はしていない。妻子をほったらかしにして貴方と関係を持っている。その事実が広まれば、貴方も白い目で見られますし、進路にも響くと思いますよ」


 明かりの灯されていない教室で、木々の陰が色濃く落ちて僕達の間で揺蕩う。風影を流し目で窺った。茜空には雲が集っており、雨下の心配はないものの天気が良いとは言えなかった。


 雨が降らなければいいと思う。クランにとって小雨さえ弾雨のようなものだろうから。頬を伝う滴も、溶け出した蝋のように熱かったのかもしれない。


 クランがシリングスにどれほど傷付けられたか、僕は知らない。けれど、彼女の泣き顔をもう何度も見ている。哀叫を何度も聞いている。彼女が伏し沈んでいる時も、シリングスとモニカが笑い合っていたと思うと、腸が煮えくり返りそうだった。


 徒口のまま返答に窮しているモニカへ、僕は無味乾燥な声で言った。


「誰にも知られたくないですよね。だから僕と取引をしませんか。その取引の場を用意して欲しいと言っているんです」


 かち合った視線の先でモニカの瞳孔が震える。自身の片腕を抱いている彼女の五指には力が込められていた。ベージュのブラウスに爪を立てて、深い皺を刻んでいる。発露している憤怒が僕に対するものなのか、妻帯者であることを黙っていたシリングスに対するものなのかは分からなかった。


 クランを傷付けたかどうかの話をするのならば、モニカに罪はないだろう。それでもモニカを白眼視してしまうことから、僕は自身が思いのほか、モニカに強い不快感を抱いていたことを自覚していた。だから、真実を知って狼狽えているモニカに、同情の念はけんてきほども湧かなかった。


 鼻先に近付いた彼女の髪が、幽香を散らす。間近で見下ろした彼女の瞳は僅かに潤んでおり、赤らんだ目尻を吊り上げていた。


「ライヒェは、どうしてそんな話をするの。シリングスさんのこと、どうして知ってるの? 調べたの? わざわざ? なんで? なんのための取引なの?」


 幽閑を打つ問いかけは、強い語気で答えを求める。モニカは片時も僕から目を逸らさなかった。瞬きだけが互いの見合いを遮る。僕は腕組みをして軽く睫毛を伏せた。


「それについては、取引当日に教えます。今詳しいことを話しても、僕にメリットがない」


 取引、というのはそもそもシリングスを呼び出す口実だ。彼の娘であるクランが彼に会いたがっている、と正直に話すことも考えたが、シリングスは妻が亡くなっていることすら知らないほど家族から離れている男だ。娘との対顔を拒む可能性の方が高い。だから脅すという術しか案出出来なかった。


 モニカは自分が優しい人だと認識される為にわざわざ僕に構うような性格。体裁を気にする彼女は不倫など公にされたくないだろう。シリングスはモニカからの頼みならきっと素直に応じる。彼がモニカから事情を訊いて、僕を黙らせようと思っても、その話をする場は必要になる。クランの望む舞台を作ることは可能なはずだ。


 モニカは繊指を顎に添えて唸っていた。不倫だけでは脅す材料が足りないのかと、僅かな不安を覚えたが、彼女の渋面の理由は別のところにあったようだ。


「不倫の話なんて、お店とかじゃ出来ないでしょ。食事なんて無理だよ。どこでするの……?」


「貴方とシリングスさんはいつもどこで二人きりになるんですか? 彼の別宅? それとも貴方の家ですか? 僕はどちらでも構いませんよ。貴方方二人以外に、誰もいない場所であれば」


 廊下の人気も薄れてきて、静黙に包まれた教室には誰の声も届かない。時の経過を鳴らしているのが掛け時計の音なのか、僕達の心音なのか、張り詰めた空気のせいで分からなくなりそうだった。窓硝子を叩いた風声を背中で受け止めながら嘆息を漏らす。


 蒼然たる樹陰がモニカの額にかかって、彼女の顔気色を隠してしまう。数秒のあいだ黙考していた彼女が、意を決したように僕を射抜いた。


「私の家にしよう。一人暮らしだから、誰も来ないよ。ちゃんとシリングスさんも呼んでおく。今晩でいい?」


 今晩、となると今から四、五時間ほど後だろう。モニカがシリングスに確認をとらず予定を入れるということは、元々二人で過ごす約束があったのかもしれない。僕は頭の中でクランの都合を考慮する。学校に通っていない彼女はいつでも外出できるだろうが、問題は精神面だ。心の準備を整える時間が足りるか否か。


 少しだけ悩んだが、先延ばしにすることでモニカとシリングスが別の手段で対抗しようとする恐れもある。今は頷かざるを得なかった。


「わかりました。時間と住所を書いてくれますか」


「わかった。話し合いを終えるまで、絶対誰にも言わないでよね」


「言いませんよ」


 モニカはすぐ傍の机に鞄を置くと、中から手帳とペンを取り出した。開いたページを破いて切り離し、一枚の紙に筆を走らせる彼女。その側顔は凛然としていて、先刻まで漂っていた戸惑いは今や消えていた。


 覚悟を固めたのは自分の為なのか、それともシリングスの為なのか。興味本位で問いかけていた。


「モニカ先輩。貴方は、シリングスさんが彼の妻子にしてきたことを考えても、彼の味方なんですか?」


 晩景の緋色を浴びながら、過ぎ去った青空を宿す双眼がおもむろに持ち上がる。こちらを視一視する眼窩では曇りのない青だけが群れていた。どこまでも澄んだ群青。


 それが潔白の色ならば、少しは彼女を見直せたというのに。


「あの人、私が欲しいものは何でも買ってくれた。優しい言葉もくれた。高い服も、美味しい食事も。私にくれたものは嘘じゃない。あの人を好きな気持ちも、嘘じゃないもの」


 彼女は己の高潔を信じており、科白に偽りの旋律が混じることはなかった。募らせている思いが恋慕ではないと、彼女は自覚していないのだ。それに気付いたのと、失笑が溢れたのは、ほぼ同時だった。


「もしかして無自覚なんですか?」


「なんのこと?」


「モニカ先輩が好きなのは、結局自分自身だけですよね」


 傾いた陽射しがモニカの瞠然を赤々と染色する。意外なことに、彼女は怒りも羞恥も滲ませなかった。ただただ、呆然としていた。まるで、自身の本質を知らなかったかのように。


 僕は少しだけ彼女のことを誤解していたのかもしれない。彼女にとって、裕福なモニカ・シントラーになる為に必要だった存在がシリングスで、彼自身もモニカを求めた。ゆえに二人の関係は、モニカにとって言わば『利害の一致』のようなものだったのだろう。同様に、優しいモニカ・シントラーになるべく必要だった『可哀想な友達ぼく』に対しても、彼女は『モニカという自慢の友達がいてライヒェも嬉しいだろう』とでも思っていたのかもしれない。それはきっとある種、モニカにとっての──僕には理解できない形の──確かな善意だった。


 彼女は、自分の思う正義を信じきっている。それが愚かに思えたし、同時に、羨ましく思えた。


 凝然と固まっているモニカの手元に目を落とす。時間と住所が記されていることを確認し、僕はそのメモを彼女の指先から攫った。


「今晩、伺います。シリングスさんが来てくれることを願っていますね」


 モニカの飴色の髪が揺れ、小さく頷いたのを流眄りゅうべんしてから教室を後にする。閑散とした廊下には窓の影が格子状に点在しており、夕紅で色付いていた。


 夕刻は彼女と出会った時を思い出す。階段から飛び降りた僕を助けようと、手を伸ばしてくれた彼女。僕の無事を見て、微笑んだ彼女。あの微笑みはいつから、利己的なものに変わってしまったのだろうか。そこまで考えて、苦笑した。


 僕はモニカが優しい少女だと、まだ信じていたかったのかもしれない。


 昇降口を出て空を見はるかす。暖色の空にぽっかりと開いた赤い穴はクランの眼を連想させた。


 夕暮れは色を変えていく。ある少女の思い出は、別の少女の思い出で上書きされていく。僕は歩きながら拳を握りしめた。


 僕自身の思う正義は揺らいで見えなくなった。だからせめて、クランの為の正義だけは、しかと握りしめていたかった。





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