「Schussgeräusch」2
(二)
瞑色がほの暗く漂い始めた頃、僕とクランはいつものように食堂で向かい合っていた。カーテンが透かしている窓枠の向こう、まだ陽射しが残っている遠くの空で、烏が鳴いていた。
知人がシリングスと知り合いだったこと、知人経由でシリングスと会えることをクランに伝えてから、数秒の沈黙が生まれている。頷いてはくれたものの、言葉は未だ返らない。窺いみた横顔は固く強張っていた。幼い眼差しは無数の感情で綾取られ、転がるように色を変えていく。
赤い瞳はゆっくりとまたたいて、僕に微笑みかけた。落ち着いたのか、落ち着いたように見せてくれているだけなのか、定かではなかった為、僕は眉尻を下げるしかなかった。
「ごめんね、急で。やっぱりクランの心の準備とか考えて、別の日が良かったかな……」
「ううん、今日で良かった。今日は素敵な日だもの」
クランは静かに首を振るうと、それから室内を見回し始めた。彼女にとって見慣れた部屋だろうに、家具の一つ一つを記憶に焼き付けていくような目遣い。それでいて、その仕草は一つ一つに結びつく思い出を追懐しているようでもあった。
彼女から意識を逸らしていたら気付けなかった、と思う程か細く、花弁じみた言の葉が儚さをまとい凋落していく。
「私、お母さんに何度もひどいこと言ったけど、それでもお母さんが大好きだったの。今思い返してみるとね、お母さん、私が何を言っても、最期まで私に優しくしてくれた。私が一方的に傷付けて、私のせいでお父さんが帰ってこなくなって、お母さん一人に、ずっと辛い思いをさせてた」
クランの話を聴きながら、僕も自分の過去を思い返していた。母さんはクランの母親のように優しくはなかったし、好んで傍にいてくれたわけではなかった。父さんの方が、不愛想だったけれどいつも怪我の手当てをしてくれて、だけどいなくなってしまった。
父さんがいなくならなければ、家族の形はまだ保たれていたのだろうか。僕が異常者と思われるような言動をしなければ、僕達は傷付け合わずに済んだのだろうか。
家族関係が崩れ、その原因が誰にあったのかなんて、僕にもクランにも明確には分からないはずなのだ。分からないから僕は諦念に身を委ねて『家族』を切り離した。けれども彼女は、今なお真っ直ぐに『家族』と向き合おうとしていた。
「だから償わなきゃいけないんだよ。お父さんも、私も」
言葉の余響は僅かに震え、華奢な肩も小刻みに揺れていた。けれども、傷一つない霜刃みたいな眼に気圧されそうになる。その心はきっと傷だらけで、その身体は誰より痛みを知っているはずなのに、一歩も退こうとしない。そんな彼女に僕はしばらく見惚れていた。
『僕』を殺すことでしか居場所を作れない僕に対し、彼女は決して己を歪めない。罪が満ちる方角に、迷いなく踏み出していく。ただひとえに、自分の理想とする正義だけを携えている。ひたすらに純粋。僕は、その純然たる目顔に憧憬を抱いていたのかもしれない。
クランに小さく相槌を打ってから、ジャケットの内側に手を伸ばす。取り出したのは小さな拳銃だ。白い柄には金色の装飾が施され、芸術品のような造りをしていた。けれどそれが実弾を放てることは確認済みだ。
首を傾けて僕を見ているクランに、その拳銃を差し出した。
「この銃は、貴方のお父さんの部屋にあった。小さいから使いやすいと思う。撃ち方はわかる?」
「大丈夫。回転式拳銃だよね。これより大きいのを使ってたけど、何人も撃ち殺したもの」
クランが使っていた拳銃は僕の鞄に入っている。弾が無くなったと彼女が言っていたが、食堂の棚に入っていたため、弾を詰め直して僕が使わせてもらうことにした。
小さな手が躊躇なくグリップを握った。クランは触れる痛みに眉を顰め、それでも強く両手で握り、胸の前でその感触を確かめていた。金の睫毛が祈るように伏せられ、拳銃はさながら十字架の代わりとなる。
彼女がいくつもの感情で決意を編み込んでいる間、僕も拳銃を取り出して眺める。
シリングスを殺害するのはクランだ。けれど万が一クランに危機が迫ったなら、僕が殺さなければならない。出来るか、と自問する。引鉄の側面に触れた指が震えた。これまでの毒殺とは異なる、僕達の最後の殺人。初めて殺した警察の血液を思い起こして、唾を飲んだ。
僕は想像した。僕が引き金を引けないまま、クランがシリングスに殺される最悪の想像だ。暗示をかけるように脳室で何度も
銃身の黒い艶を眺めて、その鈍い光を衣服で遮断する。懐に拳銃を収めた僕が顔を上げると、クランも赤いまなこを転がした。
何人もの人生を奪い、たくさんの善意を踏み躙った事実が、臓物を圧迫していく。痛みはない。ただ、嘔吐きそうになる。あばらに手を添わせて、自身のシャツに皺を刻んで、そこにあるはずの罪をひたすらに握りしめた。罪の質量と罪の温度を、脈打つ内臓で感じる。
もう一度正視したクランは綺麗だった。人形じみた団栗眼が、澄んだ赤に僕を沈め続ける。僕は視界を瞼で染めた。僕も祈っておきたかった。
罪が全て、僕だけのもので終わるように。クランが、誰にも裁かれることなく笑えるように。
「ライヒェ、大丈夫?」
「うん。大丈夫」
「……ごめんね」
ささめきに、面食らった。ピアノの鍵盤を一度だけ叩いたあとみたいな、一音の余韻が静寂となる。窓硝子が風で揺れるまで、しんとした空気は震えなかった。踊る木々の影を目の端で追いかけて、
対峙する時間が迫りつつあることを呑み込みながら、僕は頭を下げ続けていたクランに訊ねた。
「どうして、謝るの?」
長い髪に影を落とされていた丸い額が、照明を浴びて白く光る。その花貌は、苦笑というにはあまりに暖かくて、微笑というにはひどく悲しげな形をしていた。桜唇は萎れてしまいそうに弱く綻ぶ。
「あの、ね。人を殺すことが間違ってるのは、私も分かってるの。でも、『悪い人を殺すこと』は、おかしくないと思ってた。それでも時々ぐらぐらする。やっぱり、私がおかしいのかなって。私が、間違ってたのかなって」
今、彼女を不安にさせているのが僕なのだと、自覚してすぐ首を左右に振っていた。揺らいだ虹彩を見つめたままほんの少し顔を近付けた。クランの双眸にいる僕を深く貫けるほど、その角膜をひたすらに打ち眺めた。
「クランは、間違ってなんかいないよ。もし『間違っている』って誰かに非難されても、法律が貴方を否定しても、僕だけは絶対に、もう二度と……貴方を間違っているなんて言わない」
きっと、行動の正解と不正解を決められるのは自分自身だけだ。自分で決めたことを行動に移せたなら、結果がどう転んでも正解でいい。『こうしたい』と願ったことを行動に移せなかったなら、それは間違い。そう考えることで、僕達のアイデンティティは他人に潰されることなく『僕達』のままでいられるのではないだろうか。
僕もクランも、きっと、そのままの僕達でいたかっただけなのだから。
クランの瞳の中で、僕の影が少しだけ明るくなる。僕はふっと一粲した。泣き笑いのようになってしまったのは、嬉しかったからだ。幼い顔がとても幸せそうに破顔していて。
さざ波のような葉音を劇伴に、僕達は微笑みを交わした。クランは片手を伸ばした。ほっそりとした腕が近付いて、儚く手折られてしまいそうな白い指が、僕の頬に触れた。
瞠目する僕に、彼女は悪戯っぽく笑う。体温が、冷えた頬を包み込む。僕の輪郭を確かめるように、彼女の熱が顔を辿る。彼女は、触れている証の痛みを噛み締めて、それからパッと放笑した。
「ライヒェ、好き」
甘いお菓子を食べた時みたく、口元が綻ぶ。嬉しかった。それは本当に、とても。
クランは初めから、無痛症のライヒェ・カレンベルクを見ていてくれた。暴行を受けても平然としていた僕に、一切の嫌悪を向けることなく歩み寄ってくれた。一度酷いことを言った僕を許してくれた。今もこうして好意的に見てくれているのが、堪らなく嬉しかった。
思い返すと、いつもそうだ。クランは、僕を肯定してくれる。僕自身が僕を間違っていると言い出して、正しさに悩んだ時でも、彼女は僕に笑ってくれた。だから今に至るまで、揺らいでも揺らいでも『全てこれで良かったのだ』とも、思えていた。
「……僕も、貴方が好きだよ」
クランは柔らかに笑う。僕の言葉を嬉しそうに受け止めると、落ち着いた声柄を返してくれた。
「私はね、そのままのライヒェが好き。だから、ライヒェはもう、殺さなくてもいいんだよ」
反射的に上睫毛が持ち上がると、瞠った目に室内光が滑って、ひどく眩しく思えた。殺さなくていい、と、声帯を震わせずに反芻する。それは、他人をという意味なのか、僕自身をという意味なのか。クランは、全てを見透かしてしまいそうな慧眼で僕を映していた。赤い果実は細くなって、柔和な恩愛を漂わせる。
「私の為に、共犯者になってくれてありがとね」
温顔を嘱目したまま思惟していた。確かに僕は、クランの為に動いている。けれど、その理由を更に辿れば、彼女に救いを見出したからだった。僕はどこまでも利己的だった。僕は、僕が救われたかったのだから。
肩の力がふっと緩んだ。僕も、モニカと変わらないのかもしれない。それでも本質は違うと思いたかった。クランに注ぐ深愛だけは、利害など関係のない、純粋な色をしている。そう、信じていた。
「クラン。僕は、僕が貴方と一緒にいたくて、僕の為に、この選択をしたんだ。ありのままの僕じゃ、まだ銃口が揺らぐかもしれないけれど……貴方に相応しい僕には、なれないけど。それでもちゃんと、最後までクランと一緒にいさせて」
ぱちくりと、金の睫毛が跳ねる。蝶々みたく数回羽ばたいたそれは、アーモンドみたいにしなり、幸福の形に落ち着いた。
「ライヒェ、二人だとね、一人では出来ないことも出来るようになるの。だから私、そのままのライヒェがいい。私が支えられるライヒェがいいの。だって、もしライヒェが『私がいなくても大丈夫な人』だったら、今日まで一緒にいられなかったと思うから。そうでしょ?」
その言葉を咀嚼する。その通りだ、と僕は思った。彼女は僕の葛藤も、僕がクランの傍に居続ける理由も、心のどこかで全て分かっていたのかもしれない。子供というのは無邪気で、時に大人よりも聡いものだ。大人よりも自分に正しく生きていて、大人よりも綺麗な言葉を紡ぐ。
僕も、クランのような子供でいたかった。
「……そろそろ行こう、クラン。全部、終わらせに」
「うん」
頷いたクランの背中側に回って、車椅子の持ち手を握る。一面に夜が降る街路へと、僕達は歩み出した。
車輪の音に重なるクランの鼻歌を聴きながら、人差し指の先で夜を弾いた。そこに音は生じない。迷いなく引鉄を引くために、何度も何度も、無感覚の発砲を繰り返した。硝煙の匂いはまだ立ち上らなかった。
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