「Schussgeräusch」3

     (三)


 黒が立ち込めた虚空には点々と明かりが灯っている。それは民家から漏れ出した光でもあったし、時には電気燈の暖色でもあった。僕達の影は石畳を辿って、やがて整備された庭の樹影と交じり合う。がらがらと、車椅子の車輪が煉瓦の上を転がっていく。玄関まで続く煉瓦道を踏み越えて、ポーチに乗り上がった車輪は音を止めた。


 僕はクランを見下ろした。玄関灯を浴びたまなこが真っ直ぐに僕を見返す。赤い瞳に不安の色はない。冷静な瞬きが僕を促す。彼女に首肯をして、玄関の叩き金を鳴らした。


 数秒間、木造りの扉を見つめて佇んだ。もう一度叩いてみるか悩んだ時、ようやく扉が開く。僕達を出迎えたのはモニカだけだ。虚を衝かれたように彼女が瞠視しているのは、車椅子に腰掛けるクランの存在。桜色の唇はすぐさま疑問を吐出する。


「その子は?」


「こんばんは、モニカ先輩。シリングスさんは呼びましたか?」


「え、ええ。彼なら」


「──モニカ、やっぱり私が話を付け……」


 扉を大きく開けたモニカの背後から、シリングスが歩いてくる。不機嫌そうな声色から察するに、不倫という言葉で脅しに来た僕へ苛立っているのは確かだ。眉間に深い皺を刻んでいた彼の柳眉は、夜灯で輝くクランの金糸を前にしてハッと持ち上がった。息を呑んだ音がはっきりと聞こえるほど、彼は動揺していた。


 凍り付いたシリングスを心配そうに見つめるモニカも、僕も、無言のまま夜音を聴いていた。硬直した空気は、しばらくして小さく震えた。


 くす、と、零されたのは少女の笑声。それが嬉笑だったのか、嘲笑だったのか、分からない。シリングスの黒目がクランを下瞰する。彼の虹彩に映るクランの姿が、僕の位置から視認出来たなら、その童顔はきっと切なく笑ったのだろう。


「お父さん、久しぶりだね。私と、お話ししよう?」


 ソプラノは寂しげな響きで転がる。雪華が舞い落ちるような一言は沈黙に溶ける。モニカは口元を押さえて「お父さん」という言葉を反芻していた。うろたえた碧眼に縋りつかれて、シリングスはモニカを瞥見してから頷いた。


 声の代わりに革靴の音が立てられる。モニカは僕とクランに入室を促した。彼女を横目に、僕は車椅子を鳴らしてシリングスの背中を追いかける。


 食堂はクランの家と同じほど広く、けれどクランの家よりも眩しかった。天上に豪奢な照明が取り付けられており、長机の上にも燭台がいくつか置かれている。高そうな食器が机上に並び、パンや果物、チキンやサラダが部屋を彩っていた。


 椅子はテーブルを挟んで二脚ずつ、計四脚備えられているが、クランは車椅子のままがいいだろう。先に着座したシリングスの正面に歩き、椅子を少しだけずらした。クランが父親と真っ向から向き合えるよう、空いた場所に車椅子を停止させる。僕は彼女の隣に腰を下ろし、シリングスを斜めに見遣った。


 モニカが紅茶を入れているのを視界の端で捉えながら、相対する親子を見守る。シリングスは机に両肘をついて指を絡め、険しい面立ちで唇を引き結んでいた。クランの口元は緩やかな弧を描く。彼女はテーブルの下に手を下ろしたまま、食べ物に一見も向けず、シリングスだけを視一視していた。


 ビスクドールのような小さい花唇が隙間を作る。静寂に跳ねた声はことのほか明るかった。


「お父さん知ってる? お母さん、死んじゃったんだよ。もう、何か月も前に」


 一瞬だけ見開かれた彼の瞳は、顰められた眉の下で暗翳に染まる。目元の皺を深くして、彼は溜息混じりの低声を吐いた。


「……見かけないとは、思っていたよ」


「首を吊って死んだの。私と、貴方のせいで」


 長い、長い嘆息が、俯いたシリングスの喉から溢れる。僕は、彼を見つめる自身の双眸が歪んでいくのを自覚していた。妻が自殺したという話に、人の死が関わる掛け合いに、どうして煩わしげな態度をとれるのか、僕には理解できなかった。


 モニカがシリングスの手元にソーサーとティーカップを置く。触れ合った陶器の音は掠れていた。モニカは緊張からか、それとも二人の話に戸惑っているのか、微かに震えた手で紅茶を注いでいた。


 湯気が薄らと空気を染め、薫香が広がる。僕とクランにも紅茶を入れようとしたモニカを片手で制止した。モニカはティーポットを持ったまま、困り眉で僕を見つめた。その眼差しは僕に助けを求めているように思えた。この空気をどうにかして欲しいのだろう。


 モニカはきっと既に理解している。僕がシリングスを呼び出した理由が、脅迫をする為でも、交渉をする為でもなく、クランと会わせる為だと。この場はクランの為に用意された舞台。シリングスもそのことに気付いたはずだ。


 シリングスは眉間の皺を指でほぐし、ようやく面を上げた。刃物じみた疾視がクランを射抜く。怨みを突き立てたいのはクランの方だろうに、彼は不興げに顰蹙して吐き捨てた。


「私のせいにしないでくれ。お前とも、あいつともとっくに終わった関係じゃないか。必要最低限の食料は与えてやっているのになんのつもりだ。恨み言を吐きに来たのか?」


「そうだよ。恨んでるから。どうして関係を終わらせようなんて思えるの? 貴方が作った家族なのに。どうして愛してくれなかったの。どうして、泣き喚く私を怒鳴りつけることしかしなかったの。どうして私の病気を理解しようとしてくれなかったの」


 淡々としていたクランの声が、堪えられた激情で揺れ始める。彼女の手を握って励ましてやりたかったが、小さな体を蝕む病が僕に接触を許さない。伸ばした手は車椅子の側面に触れて、誰の視界に入ることもなくテーブルの影の中へ落ちていった。


 沈殿していた悲しみが溢れ出して、泣き出してしまいそうになっている横顔を、じっと打ち守る。安心させてやりたくて、泣いて欲しくなくて。


 けれども、情の無い返事が、僕の注ぐ深憂から慰めの力を奪った。


「親にも子を選ぶ権利はある。お前みたいな異常な子供、私は望んでいなかった」


 思わず、僕が口を挟みそうになった。許されるなら立ち上がって彼の仏頂面を殴ってやりたかった。クランの表情を見ることが出来ない。ただただ、信じられない思いで、シリングスを呆れて見ていた。


 しんと掻い澄んだ空気を意に介さず、彼はティーカップを持ち上げる。彼が喉を鳴らして紅茶を嚥下する。ソーサーがからんと音を立てるまで、緘黙は破られなかった。陶器の透き通る余韻に、唸り声が重なる。クランは、華奢な肩を震わせて呻吟していた。


「なにそれ……」


 目の端で零れた光に意識を引っ張られる。落涙した彼女の、赫怒で赤らんだ顔が勢いよく持ち上がる。乱れた前髪の隙間から犀利な炯眼が覗いていた。その眼勢は刃こぼれしたナイフを思わせる。クランは、瞳孔という刃先をシリングスに突き刺したまま大きく口を開いた。ひどく、悲哀に満ちた咆哮だった。


「私だって……私だって好きでこんなふうに生まれたんじゃない! でも生まれちゃったんだから仕方ないじゃない! それでも、こんな私でも、もっと大事にされたかった! 私もお母さんもあんなに苦しんでたのにどうして分からないの⁉ 貴方がちゃんと家族でいてくれたなら、私達の苦痛を貴方も背負ってくれたなら、こんな風にならなかったかもしれないのに! どうしてお母さんを助けてくれなかったの……⁉」


 悲しいくらい響き渡った泣き声は、彼の胸に届かない。頬を濡らす彼女の姿に僕がどれほど苦しくなっても、実の親である男は、ただただクランを冷たく見返していた。さながら虫でも見下ろすような芥視に伴われたのは、何度目になるか分からない溜息だった。


「相変わらずうるさいな……頭は診てもらったのか? 喚き方が異常なんだよお前は。頭の病気も患ってるんだろう」


「っシリングスさん、もう少し優しく……!」


「その人に優しさなんてありませんよ、モニカ先輩。聞いていたでしょう。性根が腐ってる」


 モニカはシリングスの椅子の背もたれに手を置いたまま、僕に涙眼を向けてくる。それが何を訴えているのか気取ることは出来ない。僕はしゃくりあげるクランの息差を聞きながら、シリングスを睨めつけた。交差する眼遣いは互いに憤懣で染まっている。衝突したまま視線は逸らされない。音のない鍔迫り合いを続けていれば彼が曲がった口を動かした。


「これは親と子の話だ。人の家庭の事情に口を出さないでくれるかな」


「彼女を否定したくせに、家族ヅラするなよ」


 喉から込み上げた声は僕のものと思えないほど低くざらついていた。胸臆で沸き立つ怒りが動脈を巡って体温を上げていく。僕は懐に手を伸ばす。子供を殺すたび罪の重さに嘆いた心が、今は動かなかった。


 殺せる。眇たる躊躇いさえ抱かず、一心に憎悪だけを突き付けて、彼の息骨を絶つ。その流れを想像しながらジャケットの布地に触れた時、「ライヒェ」と、優しい声が耳を打った。


 僕の傍らでクランが顰笑していた。僕の名を奏でたのは、いつもと変わらない音調だった。


「大丈夫だから。私が、自分で終わらせに来たんだから。平気だよ」


 照明の明かりがクランの頬を滑って、涙の軌跡を明かす。赤くなった瞼、濡れた角膜、掠れた声。そのどれもが、大丈夫という台詞を虚勢だと物語っていた。けれども、彼女の意思を優先するべく、僕は片手を垂下させるしかなかった。


 僕は傍観者で在るよう心掛けて、クランとシリングスを眺める。モニカもシリングスの斜め後ろに立ったまま固唾を呑んでいた。


「それで、何が望みなんだ。金でもせびりに来たのか?」


「違うよ。ねえお父さん、私が今、何歳なのか、覚えてる?」


「は……?」


 クランの声音はもう震えていなかった。落ち着きを取り戻した彼女の問いかけは無感情にも聞こえた。いびつな抑揚は、知らない言語を曖昧に発声する幼子のよう。しかしその質問は、彼女の父親ならば容易に答えられそうなものだった。


 それなのに回答は音を生まない。室外の風韻が聞こえそうなくらい、室内は寂静に占拠される。


 シリングスは気抜けた顔のまま固まっていた。何を問われているのか、理解していないのではないかと思うような様相に、クランが首を傾ける。頭上の糸が切れた人形さながら、がくんと、彼女の頭は傾いていた。


「娘の年齢も分からないの?」


 平坦な口吻にシリングスが眉根を寄せていた。彼は顎に手を添えて考え込む。今度はシリングスではなく僕が目を丸める番だった。嘘だろう、と、声に出してしまいそうになる。


 どこまで愛情がなかったら、子供の年齢を忘れることが出来るのだろう。


 思えば彼は今日、一度もクランの名を呼んでいない。彼女の名前も覚えていない、とは思いたくもないが、その可能性が有り得ることに僕はんだ。奥歯を擦り鳴らす僕の前で、彼がポツリと呟く。


「……八、いや、九……」


「そっか」


 それは、諦めの色音だった。クランの玲瓏な余響を、小さな金属音が攫う。僕は首を動かして真っ直ぐにクランを正視した。持ち上がった細腕。室内光を受け流して煌めいた銃身。引鉄にかかった細い指。撃鉄は既に起こされている。


 聴覚を狂わせるほどの銃声が、響き渡った。


 弾丸がシリングスの眉間を撃ち抜くまで、誰もその場を動かなかった。いや、クランの手に握られているのが拳銃だと気付いた時、既にその引鉄は引かれていた。


 あざあざとした紅血が噴き出し、ぐらりと揺れた彼の頭部が押し飛ばされる。天井を仰ぐ形で背もたれに倒れ込んだ彼の、突き出した喉仏は少しも動かない。彼の近くに立っていたモニカは、血がかかった自身の服を見下ろして、血を流し続けるシリングスに視点を移し、頭を抱えて後ずさっていた。


「いやぁああああ! シリングスさん‼」


 飴色の髪を掻きむしり、血の気の引いた顔で喚き続けるモニカ。壁に背をぶつけたまま寄りかかっていた彼女は、立っていられなくなったのか崩れ落ちていた。


 声にならない泣き声の陰で、クランの吐息が震えていた。銃弾を放った痛みのせいか、それとも父親を殺したことで感情が乱れているせいか、彼女は泣きそうに微笑んでいた。


「知ってる? 今日、私の誕生日だったんだよ。十歳になったの。お母さんなら、おめでとうって、言ってくれたと思う」


 過呼吸のようになっているモニカの片息を縫って、クランの声はシリングスの方へ投げ捨てられる。


 僕は、シリングスと対峙するのが今日でいいかと聞いた時の、彼女の言葉を思い起こしていた。今日は素敵な日だと、そう言っていた理由を今になって知る。


 誕生日が、こんな日で良いわけがない。今すぐ彼女を連れ帰って、美味しい物を食べさせてあげたかった。おめでとうって、生まれてきてくれてありがとうって、彼女に言ってあげたかった。


「っ警察……!」


 クラン、と呼びかけようとした僕の視野で、モニカがふらつきながら立ち上がる。モニカをどうにかしなければならないことを思い出し、懐から拳銃を抜きながらモニカの前へ躍り出た。


「動いたら撃ちます」


 彼我の距離は思いのほか近く、真っ直ぐに伸ばした腕の先で銃口がモニカの額に触れていた。彼女の乱れた髪が揺れる。首を左右に振りながら、彼女は椅子に片手を引っ掛けて、力無く頽れていた。


「ライヒェ……なんで、なんでこんなことするの……⁉ その子は可哀想だと思うよ、でも、殺さなくてもいいじゃない!」


「それはモニカ先輩の気持ちですよね。クランの恨みは、こうしなければならないほどのものだった」


「でも! どうするの……私のことも殺すつもり? 殺さないよね? だって、ずっと仲良くしてきたじゃない……ずっと友達だったでしょ! ねえ!」


 大粒の涙を零して僕を見上げるモニカに、ふ、と息が零れた。それは嘲笑のようで、自嘲のようでもあった。友達、という単語を唇の裏で繰り返す。いつか聞いたモニカの言葉を、鮮明に鼓膜が覚えている。


 撃鉄を起こす。回転した弾倉が光芒を散らした。モニカはまるで寒空の下にいるみたく歯を鳴らしていた。僅かな憐れみが指先にまとわりつく。だから自分に言い聞かせるよう喋々ちょうちょうした。


「僕も、友達だと思っていたよ。だけど全部嘘だった。『死体くん』と仲良くしてると、自分の優しさが際立ってるように感じるんでしょう? 僕への微笑みは全部ハリボテ、優しい言葉も全て貴方自身を良く見せる為のもの。全部分かってるよ。全部……分かってたよ」


 あれが聞き間違いや誤解である可能性を、愚かな期待を潰していく。友達だったモニカの笑顔と、僕の名を呼ぶ明朗な声と、僕に手を差し伸べた少女の姿が、記憶から消えてなくなるまで。モニカへの思いが見えなくなるまで、悉皆しっかいに、粉々に。友達だった僕を、壊していく。


 モニカは、銃身の向こうで何度もかぶりを振っていた。がちがちと歯を鳴らしながらも、その唇は饒舌に動く。


「ま、待って、違う。誰がそんなことを言ったの? きっとその人、私とライヒェの仲を羨んで、そんな嘘をついたんでしょ! 私……だって私、何年もずっとライヒェの傍にいたじゃない⁉ 嫌いだったらわざわざ君のことを探して声掛けにいったりなんてしない! ねえ思い出してよ、ほら、階段の! あの日の君が素敵で、それから私……!」


 耳を、塞いでしまいたかった。僕は深く息を吸って、静かに吐き出した。叫び続けるモニカの声は意識の外へ追いやる。もう、期待したくなかった。


「僕は、貴方自身の声であの話を聞いたんだ。友達のフリをして、期待させて嘲笑うのは、楽しかった?」


 僕は引鉄に触れた。鉄はひどく冷たい。指先の熱を、金属が奪っていく。


 モニカは青びれて深い絶望を湛えていた。僕を説得することは叶わないと悟ったのだろう。空笑いさえも崩れて、たぶれ人のように何度も何度も頭を振り乱していた。


「ち、違う、違う違う、違うの落ち着いて撃たないで‼」


「分かってる。違うのかもね。だけど、僕達の思う友達の定義も、違っていたんだよ」


 引鉄はこんなに硬かっただろうか。折り曲げた指先に重いものが圧しかかる。筒音はモニカの悲鳴と合わさって僕をつんざく。その残響が耳底にこびりつく。仰臥した彼女の姿と真っ赤な鮮血が静止画となって瞼に刻まれる。


 目を閉じた。暗闇の中で明滅する静止画を、しかと見つめる。いつまでも消えない悲鳴を、噛み締める。体がまた重くなったような気がして、僕は拳銃を取り落としていた。


 重い音に睫毛を持ち上げ、車椅子に座ったままのクランに顔を向けた。彼女との眼差しはすぐに交わる。どこか緊張したような面持ちで見守ってくれていたらしい童顔が、ふっと緩んだ。優しい微笑みに泣いてしまいそうだった。




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