「Schussgeräusch」4


 唾を呑み込んで、拳銃を拾い上げて懐に収めた。クランに歩み寄る。安堵の息を吐き出しただけで、僕も自然と緩頬していた。


「クラン。誕生日だったんだね」


「うん。お父さんは……私の誕生日、一度も祝ってくれたことないの。生まれてこなければよかったって、思ってたからかな」


 少しばかり下を向いて片笑みを浮かべる彼女は、とても寂しそうだった。モニカを殺した僕は、クランの気持ちが分かる。どれほど嫌悪しても、きっと心のどこかで期待していたのだ。


 落胆するだけの期待で心が擦り切れる前に、僕達はまやかしの希望を絶った。これでよかったと思えるのは、クランがいてくれるからだ。クランも、そう思ってくれたら良い。


 こちらを見上げて笑うクランに微笑みかけてから、僕は車椅子に手を添えて車輪を転がした。


「帰ったら誕生日のお祝いをしよう。クランが今日まで生きてくれて、僕は嬉しいよ。ケーキ、買わないと……でも、お店閉まってるか」


「ううん、なにもいらない。ライヒェとの時間が欲しい」


 廊下を進みながらクランの頭を覗き込んだ。彼女の表情は窺えない。けれど、その声遣いは本当に無欲で純粋だった。僕は頼まれるまでもなく彼女の傍にいる。だから僕の時間に特別な価値はないはずだ。どうしても、お祝いらしいお祝いがしたい。


「……僕との時間なんて、そんなのプレゼントにならないよ」


 廊下のついで車椅子を停めて、扉を開けに行く。ここを訪れた時よりも夜ごもった室外は黒く、目を凝らして見さいた街並みも色彩がない。近隣の民家の明かりは消えていた。


 夜風が顔を撫でて、肌を乾燥させていく。僕は、泣いていたのだろうか。そう思うくらい、乾いた頬が引き攣っていた。意味もなく両目を拭って、クランを顧みる。


 扉が開いたままの家の中で、車椅子に座った彼女は喜色満面で僕を見ていた。冥府のような晦冥かいめいにいる僕の目に、その姿はあまりに眩しかった。


「あのね、私にとってライヒェとの時間が、なによりも嬉しいプレゼントになるの。だから、一緒にいて」


 冷えた体に、熱が通っていく。僕は瞳を弓なりにしならせて、車椅子に手を掛ける。


「うん。……帰ろう」


 金色のつむじに優しくささめいた。がらがらと、車輪が夜のげきせきに響く。


 僕達はあとどのくらい、一緒にいることを許されるのだろう。モニカとシリングスの遺体は、きっとすぐに見つかる。二人の関係者を洗えば簡単に僕が浮上して、捜査が難航することなく犯人だと判明するはずだ。


 それでいい。早く裁かれたい。


 そう思っていたのに、クランが幸せそうに僕を呼ぶから、彼女を独りぼっちにさせたくなくて、心臓が締め付けられていた。とても、苦しかった。




     (四)




 クランの家に戻ってから、僕達はささやかなパーティをした。台所にあったパンに角砂糖を砕いて振りかけて、イチゴジャムを添えて、ケーキの代わりにした。クランはそれを美味しそうに頬張ってくれた。


 食卓の上には空になった皿と、ティーカップと、二つの拳銃が置かれている。食堂に食器の音が溶けて消えて、静まった空間にクランの息吹が躍る。自分の誕生日を祝うメロディーで鼻歌を奏で、頭を振り子にしていたクランが、側頭部を僕に凭れさせる。触れると痛いんだからくっついちゃダメだよ、そう言おうとして見下ろした先で、クランが眉尻を下げていた。泣き腫らした下瞼が膨らんで、崩れてしまいそうな笑い顔が作られた。


「ねえ、ライヒェ。一緒にいこう?」


「え……どこに?」


「二人で、魂だけになって、死後の国に行くの」


 掛け時計の秒針の音が、幽静を埋めていく。かち、かち。その音の数だけ、声のない時間が流れる。僕は、クランが何を言っているのか、分かっていた。なのに返事が出来ないのは、僕が生にしがみついているわけではなくて。


 かち。と、何度目になるのか針がふれて、またたいた眼差しの先でクランの笑窪が深くなる。


「ライヒェは、私の願いを全部叶えてくれた。だから私にも、ライヒェの願いを叶えさせて」


 返答に窮する唇が、歪んでいく。僕は何も分かっていなかった。彼女の慧眼はどこまでも『僕』をしかと見つめていたのだ。揺らぎ続ける僕に、期待や失望を押し付けて歪曲することなく、ありのままの僕を、映し続けてくれていたのだ。


 貴方の為だと微笑みながら、死んでしまいたいと何度も願った僕を、彼女はどんな気持ちで見守ってくれていたのだろう。


 僕は、首を左右に振った。掻き曇った目の前で、銀食器に反射した光が眩しかった。


「死ぬなら、一人で死ぬよ。貴方は生きなきゃダメだ。もっと長く、もっと、幸せに、もっと愛されて……幸せだったと思って終われるまで、もっと沢山、楽しい思い出を作って……もっと、もっと生きてよ……! じゃなきゃ報われない……!」


 僕は、何を言っているのだろう。


 目界を満たした光が飽和して零れる。涙の温度さえ分からないまま、何度も開閉する瞼の裏側に『僕』を見た。口端が引き攣っていく。泣きたいのか笑いたいのか分からない。


 濡れそぼった顔を持ち上げる。幼い僕が気抜けたように僕を見つめる。瞬きをすると視界は歪んで、クランが優しく微笑んでいた。


「幸せだったよ。ライヒェがいっぱい、楽しいって気持ちをくれたから、貴方と出会ってから幸せだった。私が笑っていられるのは、全部ライヒェのおかげなんだよ」


 清福で満ちた微笑みが、僕の息を痙攣させる。これでいいのか、と、自問した。何度も何度も、繰り返し問いかけても、答えは出せなかった。


 幼子みたいに涙ぐむ僕の頬に、クランが触れた。痛みに震えた小さな手は、僕から離れることなく繊指を濡らす。 


「あのね、ライヒェといる時間が、私にとって幸せなの。一緒に終われば、私達はずっと一緒にいられる。それって、なによりも幸せな終わりだよ」


 クランと一緒にいたい。それは、僕も何度も望んだことだ。罪や現実から解放されて、クランと一緒にいられるのなら、確かにそれは幸せなのだろう。だけど、奪ってきた幸せが脳裏を過る。僕が幸せになる事を、僕自身が許してくれない。


 噛み締めた唇から血の味がした。掠れた吐息から血の香りはしなかった。


「でも、僕は、天国にはいけない」


「そんなの、私もだよ。一緒に地獄に行こう?」


「駄目だ……だって、死ねばいいのは僕だけなんだよ……!」


 張り上げた声は鋭くて、僕自身の喉を引き裂こうとする。咽喉を内側からこじ開けられ、そのまま嘔吐してしまいそうだった。そんな僕に、クランは深い憂いを向けてくれていた。


「ライヒェだけが死んでしまったら、私は幸せじゃ、なくなっちゃうんだよ?」


 僕の頬を撫でたクランの手が離れていく。彼女は卓上の小銃を手に取った。シリングスを殺害した拳銃が鈍く光る。僕も、モニカを殺した拳銃に目を向けた。モニカだけじゃない、名も知らぬ警察の命も奪った。それに手を伸ばせぬまま、数刻のあいだ嗚咽を漏らしていた。


 いくつもの罪が、体の中で転がる。その感覚を味わうたびに、自分は死ぬべきだと強く思う。でも、クランには生きていて欲しい。


 けれど、クランの言う通りだ。僕のいない環境で、誰が彼女に優しくしてくれるのだろう。誰が、彼女の痛みを理解してくれるのだろう。痛みを理解されない彼女が、苦しみに任せて再び罪を重ねてしまったら、そのまま不幸の淵へ落ちてしまう。


 僕は、拳銃を手に取った。鉄の塊はとても重くて、落としてしまいそうだった。


 互いに銃口を床へ向けたまま、傷だらけの笑顔を交わす。クランが微睡むようにつつめいた。


「自殺をした人も、天国には行けないんだって。だから、お母さんも地獄にいると思うの。私、何人も殺したから、ちゃんと地獄に行けるかな。お母さんに、会えるかな」


 悲しそうに笑うかんばせを見つめて、乱れていた息と思考が落ち着いていく。植物園に行ったときのことを、想起した。あの日のクランの言葉が、蘇る。


『私……天国にも行ってみたい。お母さんには会えないだろうけれど』


 もしかすると、彼女は初めから地獄に落ちるために刃物を手にしたのかもしれない。恨みのある人を殺して、殺人を続けられるようにそれを正当化して、母との再会を信じ続けた。


 僕は、彼女を安心させたくて相好を崩した。


「お母さんと再会出来たら、なんて声を掛けるの?」


「……『大好きだったよ。こんな風に生まれてごめんね』」


 薄く笑う幼い少女を前に、息が詰まりそうになる。たった十歳の子供が、どうしてそんな思いを抱かなければならないのだろう。


 貴方が貴方として生まれたことを、謝る必要なんてない。僕は、それを上手く伝える台詞が浮かばないまま、何度も頭を振っていた。


「……クラン。そんな貴方だから、僕は救われたんだ。貴方が、否定される痛みを知っていて、僕を理解しようとしてくれたから……こんな風に生まれた僕でも『普通の人間なんだ』って、貴方が思わせてくれたんだ」


 無痛症の僕が、死体ではなくて、生きている一人の人間なのだと、そう信じさせてくれた彼女に、僕は何を与えてやれるのか。何を、与えてあげられたのか。


 彼女の生まれ持った痛みが、罪ではないのだと訴えたくて、その花顔を見つめ続けた。僕が無痛症の自分を肯定出来たように、彼女にも、自分が生きた日々を否定して欲しくなかった。生まれてこなければ良かったなんて、思って欲しくない。異痛症の彼女を、僕が何度でも認めてあげたかった。


 クランは、きょとんとした顔でしばらく僕を見つめていた。一花の沈黙ののちに、彼女はふわりと咲笑った。


「私ね、人生って、痛いことしかなくて最悪だと思ってた。でも、ライヒェと過ごした時間は痛くなくて、優しかった」


 片手で拳銃を持ったクランが、空いている手を僕の方に伸ばす。グリップを握る手の甲に、彼女の体温が伝った。小さな手は震えながら手骨をなぞって、僕の手首を包み込む。まるで凍えた表皮を温めるみたいに、彼女の熱は僕の指先まで滑った。


「クラン、痛いんじゃ……」


「私、幸せだったの。痛くても、ライヒェに触れたいと思うくらい。痛くてもいいから、もっとライヒェの近くにいたいって、そう思うくらい」


 苦し気に、軋んだ声だった。泣き出しそうにも聞こえた。彼女が、なんという痛みに焼かれているのか、僕はその全てを把捉できなかった。


 クランが両手で拳銃を握る。小さな手は金属音をかちかちと揺らしながら撃鉄を起こした。目尻をしならせたクランの頬に、一滴の命が零れる。人と違う僕達が、それでも人と同じなのだと証す涙は、まだ、枯れない。


「『また会おうね』で、一緒に引鉄を引いて、終わりにしよう」


「……うん」


「ちゃんと、心臓を撃ち抜いてね」


 濡れた睫毛を何度も絡ませた。燭明の眩しさでクランの表情が見えなくなる。自分が生きていると実感する痛みを、僕はまだ知らない。生きていることを証明するのは、痛みだけではないと、クランが教えてくれたのを思い出す。


 クランは僕の胸に銃口を押し当てた。僕もクランの体に拳銃を向ける。


 銃弾が体を貫く時、クランがどれほどの苦痛に苛まれるのか、僕には分からない。苦しむのがクランだけのように思えて、無感覚のまま眠る僕を想見したら許せなかった。


「僕も、最期は同じ痛みを感じられたらいいのに」


 ほぼ息だけの声で、思わず零していた。銃身に向けていた焦点を持ち上げると、クランが瞠目していた。彼女の濡れた頬がくすりと動いて、それから無邪気な笑みを形作った。


「大丈夫だよ、ライヒェ。思い出して。『痛い』って、どういう時に使う言葉? この前、ライヒェの『痛い』を決めたでしょ。ライヒェだって、痛いんだよ」


 だから大丈夫。そう囁いたクランが、視線で僕に終わりを促す。撃鉄に触れた指は情けないくらい震えていた。唾を飲んで意を決する。クランが少しでも苦しまないように、これ以上迷ってはいけなかった。


 がち、と、発砲の準備が整う。肩で息をする僕の前で、クランは静かに笑っていた。見つめ続けて、次第に幼い目顔は歪んでいく。激情で赤らんだ雪肌が、なおも喜色を湛えるものだから、僕が泣き崩れるわけにはいかなかった。


 拳銃が重い。両手で持ち上げても、力の入らない手の先から零れ落ちそうになる。まるで、最後の罪の重さを恐れているようだった。


 びしょ濡れの顔でクランが放笑した。とても、嬉しそうに。一片の曇りもない、澄んだ幸福を満面に広げて。


「ライヒェ、大好き」


「僕も──」


「『また会おうね』」


 合言葉に、息を呑む。両手に力を込めた。焦慮に突き動かされるまま放った弾丸はクランの胸を赤く染め上げる。遅れて上がった銃声は、僕の胴体を押し飛ばした。僕は、ソファの肘掛けのほうへ倒れた。


 体の中で、沢山の罪がぶつかり合って鳴き騒ぐ。その不快感に、意識が遠のいていく。目の前が暗くなって、だけど眩しい。何も見えない。


 死ぬんだ、と思ったら、肺が不可視の何かに握り潰された。走馬灯みたいにいくつもの思い出が視界を巡っていく。クランと過ごした日々、優しくしてくれた先生、殺してしまった人々、母さんの背中、父さんの革靴。嫌な記憶に気道が狭まっていく。


 僕は、これで救われたのだろうか。ならば、どうしてこんなに苦しいんだろう。


 死体のように生きながら、ずっと、ずっと──普通に、生きていたかった。


 クランが沢山の救いをくれたのに、どうして。苦しくて、息が出来なくて、窒息しそうになる。


 苦しみながら、これがクランの言っていた『痛い』というものなのか、と、考えていた。


 生きているのか、死んでいるのか分からない暗闇に横たわって、喘鳴を漏らす。錯覚じみた寒さに、死んでいく体は震えることさえなかった。けれど、僕を温めるような熱が、指先に暖かく染みこんでいく。


「幸せに、なって、ね」


 幻聴じみた少女の声。それは、僕の苦しみを優しく遠ざけていった。もう何も感じない。何も考えられない。音も、色も、温度もない場所に、感情は沈んでいった。

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