終章「──病」

「Krankheit」

 クランは死んだ。僕は、死ねなかった。


 ベッドの上で、医者や警察官からその事実を聞かされて、僕は長いあいだ空虚感に襲われた。まだ、残夢に漂っているような感覚だった。どこからが夢で、どの記憶が現実のものなのか、分からなくなりそうだった。


 病室の窓を何日も眺めて、砂糖のような雪を見ながら、クランの誕生日を何度も思い返す。砂糖を振りかけたパンを美味しそうに食べていた幼い顔。幸せそうな目笑も、涙も、昨日のことみたいに思い出せる。


『一緒にいこう』


 一緒に、いけなかった。ごめん。ごめんね。


 クランは、安らかに眠れただろうか。お母さんと、再会出来ただろうか。


 僕の心が落ち着く頃には、傷の状態もある程度回復し、病室から留置所に移動させられた。


 僕とクランが心中をした日。夜の街を巡回していた警察が銃声を耳にして、クランの家に駆け込んだらしい。その後僕達は医者の処置を受けたそうだが、クランは亡くなり、僕だけが一命を取り留めた。


 僕の腹部からは、弾丸、手袋、革製の生地で巻かれた包丁の刃、硝子片などの異物が取り出された。クランの母親の遺体も発見され、その体内に隠されていた包丁の柄も見つかっている。それに事件性を見出した警察が、この街で起きたいくつもの事件との関連を調査したようだった。


 だから全てを自白した。毒殺した子供達、撃ち殺した人達、クランとの出会いから終わりまでを全て語った。違う捜査官に取り調べを受けるたび、何度も何度も、僕の人生を物語った。


 今もそうだった。僕は、面会に訪れた男性に「全てを話してくれないか」と聞かれ、クランと出会った日から、心中をしたあの夜までのことを、淡々と話していた。


 木製の机と椅子しかない狭い部屋で、男性──ベルンハルト先生は、ひどく顔を歪めて僕を見ていた。彼の感情を読み取れないのは、僕も憔悴しているからだろうか。


 部屋の外で留置担当官が待機している代わりに、今の僕は枷を嵌められていない。机の下で、落ち着きなく両手の指を絡ませていた。


 渋面を浮かべて机の木目を睨む彼に、僕は、迷いながらも頭を下げる。


「娘さんのことは、本当に、申し訳ありませんでした。許されないことをしたと、分かっています」 


「…………ああ」


「……車椅子のこと、娘さんから、聞きました。僕の為に、用意してくれたって。僕を、気にかけてくれていたって。貴方が、欲しい物を買ってくれる優しいお父さんだったと……色んな話をしました」


「そうか」


 風の音も、時計の音もしない僕達だけの部屋は、嘆声の余響さえも長く残る。ベルンハルト先生は、翠玉の瞳を柔らかく笑み曲げた。朗笑する娘の姿を、思い浮かべているのだろう。その表情はとても彼らしくて、けれど、愛娘を奪った犯人に向ける顔ではなかった。


 罪悪感が胸を叩く。脈打つ心音が聞こえそうな寂然に耐えかねて、僕は震え声を連ねていた。


「先生は僕を、怒らないんですか。そのために、会いに来たんじゃ、ないんですか」


 彼は、夢ばかり目を丸めてから、微苦笑を浮かべる。彫りの深い目元は以前よりも落ち窪んでいるように思えた。僕が彼の娘を殺害してから、窶れてしまったのが見て取れる。それなのに、彼が怒りを発露させることはなかった。


 事件が起こる前と同様に、父親のような優しい顔を向けてくれる理由が分からない。申し訳ない気持ちで嘔吐感が込み上げる。それを必死に噛み潰していれば、彼は温順に説いてくれた。


「君がペトラを殺した犯人だと知って、それから数日は、憎しみと怒りでどうにかなりそうだった。君が面会出来るほど回復するまで……その時間で、だいぶ冷静になったよ。何故君がこんなことをしたのか、知りたかった。だから会いに来たんだ」


「……警察から、聞いたんじゃないんですか。クランと僕の関係も、クランと娘さんのことも」


「そうだな。色々、訊いたよ。君と話せるようになるまで、色んなことを警察に訊ねた。事件と関係していることも、事件と関係のない君のことも。だから……怒れなくなった」


 彼は、回答しているようで、僕の問いに対する本当の答えを避けていく。その迂言は霞のごとく、僕の耳を通り抜けていく。


 僕の何を警察から聞いたのか。怒りを忘れるほど、同情されるように脚色された生い立ちでも聞かされたのだろうか。


 怪訝に眉を寄せて首を傾げていると、数秒間の黙考を挟んだ彼が決然と開口した。


「ライヒェ・カレンベルク。君の旧姓は、アイクラーだそうだな。父親の名前はヴィム・アイクラー。間違いないか?」


 予想外な質問に面食らった。間抜け面で固まった僕とは対照的に、ベルンハルト先生は真剣に双眼を細めていた。その相貌は漸次に険しくなっていく。憤懣の色は見えない。ただ、緊張しているような強張りが彼の顔にあった。


「そう、ですね」


 わけがわからぬまま頷くと、彼は僅かに俯いて何度も顔気色を変えていた。絶望したような瞠目、なにかを咎めるような顰め面、引き攣った微笑み。彼は感情がまとまらないのか、金に近い茶髪を片手で乱雑に掻いてから、諦念を孕んだ気吹を落とした。


「……そうか。……ごめんな」


 謝辞はひどく震えていて、掠れていた。疑問が募るばかりなのに、彼の声があまりに優しいから、喉が締め付けられていた。おかげで、呟きは呻き声のような音骨をしていた。


「なんで、謝罪なんて……」


「君に、私の赤子のことを話しただろう。友人に養子として渡した子供のことを。その友人が……君にとっての父親、ヴィムだった」


 閑言が耳底を突くたびに、拍動が五月蝿くなっていく。呼吸も忘れて、彼をじっと見つめた。彼の稲穂のような髪色も、澄んだ翠の瞳も、鏡越しに見た自身のものと重なる。声にならない息を零して、噎せそうになって。深く、息衝いた。


 父親のような彼を頼りたくなった僕と、僕に優しくしてくれた彼。互いに流れる血が、気付いていたのかもしれない。


 僕は震える口元を片手で押さえた。何も言えないままベルンハルト先生と見交わす。


 彼は、泣き出しそうなほど皺くちゃの目元で、優しい色の瞳で、僕を打ち守る。引き結ばれていた唇が解けて、暖かな吐息が僕達の隔たりに灯った。


「大きく……なったんだな」


 朝露に濡れた樹葉のように、彼の虹彩に水の膜が張られる。けれど、落涙したのは僕のほうだった。一音も言葉を返せなかった。息ばかりが前に出て声を殺し続ける。涙の訳も分からないのに嗚咽まで溢れ出して、僕はひたすら目元を拭っていた。


 ぼやけた眼路に影が落ちる。大きな手が、僕の髪に触れた。肩を震わせる僕を、何度も彼が撫でてくれた。


 褪せた思い出が眼裏で点滅する。幼い頃、父さんも、こうしてくれた。泣き止むまで、撫でてくれた。多分、不器用だけれど優しい人だった。ベルンハルト先生が、生まれたばかりの僕を任せられるくらい、きっと優しい人だった。僕が、父さんの手に負えなかっただけ。


 ベルンハルト先生が父親だったなら。初めから彼と家族でいられたなら、見放されることはなかったのかもしれない。頭を包み込む温度に、そんなことを思いながら、乱れた呼吸を必死に鎮めようとしていた。


「私が……手放さなければ良かったんだ。私が育てていれば、君とペトラと、幸せに暮らせていたかもしれないのに。私が父親だったなら、君が罪を犯してしまう前に、君と少女の力になれたかもしれないのに」


 ペトラ。僕が殺してしまった先生の娘。その名前が、一気に僕を現実へと引き戻す。僕は、血の繋がった少女を、手にかけたのだ。鉛のような罪がどろりと溶けだして、僕の心臓に絡みつく。早鐘を打っていた心音は少しずつ固められ、沈着としていった。


 最後の涙を拭い去り、僕から手を離したベルンハルト先生に、困り眉で一笑した。


「僕も、ベルンハルト先生みたいな……こんなお父さんが欲しかった、って、何度も思いました。先生を見ていたら、痛みを感じない僕を突き放したり……そんなことをするような人ではないと思ったから」


 喃喃と唇を動かしながら、追想する。彼にクランのことを相談しようと、一度そう考えた自身を回視して、一瞬の後悔を覚えた。それは本当に、たった瞬目の思いだ。クランの笑顔が浮かんで、僕は彼女につられて小さく笑った。


「だけど、父さんが父さんだったから、今の僕がいて。僕はクランという少女と出会えて……彼女に、幸せを教えてあげられた。先生が父親だったなら、僕の人生は全然違うものになっていて、クランと出会えなかったかもしれない。クランを……誰も救えなかったかもしれない」


 広い食堂で独り佇む彼女を、今も夢に見る。静まり返った空間の寂しさが、現実感を伴って夢裡むりの僕を急かす。慌てて扉を開ければ、クランは僕を見つけて破顔する。


 今朝の幻想に瞼を伏せた。夢の続きはもう見られない。クランの声はもう聞こえない。それでも、僕が微笑み方を忘れずにいられるのは、彼女の沢山の笑顔が記憶に刻まれているからだった。


「クランは、窒息してしまいそうな苦しみが『痛み』なんだと、無痛症の僕に教えてくれた。僕とクランの人生は、批判されるようなことばかりだったけど、それでも僕達は、僕達が出会えたから、多くの痛みを知って助け合えた」


 僕達の数ヶ月の出来事を、思い起こしていた。誰かと一緒に食事をする楽しさ、他愛ない会話で自然と頬が緩む心地良さ、僕の下手な絵を笑ってくれたクランの楽しげな顔。僕の苦しみを感じ取り、痛みを堪えながらも触れてくれた、小さな手。


 病が引き連れてくる孤独を、この数か月、たしかに忘れて過ごすことが出来た。痛みを知らない僕は、痛みしか知らない彼女に、人間らしい日々を与えてもらった。


 幸せだったよ、と、クランは言った。僕も、思う。幸せだった。


「僕は……全ての人に憎まれてもいいから、クランを救いたかったんです。全ての人が正しく生きていたら、誰もクランに手を差し伸べない。実際に彼女が、ずっと一人だったように。法律に従った正しさは、たった一人の少女の心を救えなかった。だから僕も、世間に定められた正しさを、捨てるしかなかった」


「……後悔、していないのか」


 ベルンハルト先生は、眉尻を下げて苦笑していた。窪んだ眼窩に埋まる翠の玉は、手のかかる実子を見守るような目色をしていた。


「悔やんだことは何度もありますよ。でも、僕は彼女の思いを否定することなく、ありのままの彼女を救いたかったから。人を殺すのは間違いだと、分かっていても彼女の信じる正しさを壊したくなかった。否定される苦しみを知っているのに、おかしいって突き放されるのがどれほど苦しいか分かっているのに、彼女に何度も正論をかざすなんて出来なかった」


 彼女に、おかしいと、間違っていると、そう言ってしまった僕の声が頭蓋で響く。同じ言葉を向けられた僕自身の苦しみが、まだ皮下で蠢いていた。


 あの日の自分への嫌悪と、かつての哀傷で、僕は頬を引き攣らせながら、うそ笑んだ。


「だって、正論じゃ、人の心は救えない」


 それは、すぐに溶けてしまいそうな声柄だった。なのに悄然とした部屋は僕の声を攫わない。幽咽じみた息だけがいつまでも無音の中空に残る。


 ベルンハルト先生は、穏やかな形に顔を歪めながらも、深い憐れみを注いでくれた。だから僕も、恩顔を崩さずにいられた。 


「僕達は間違った。間違うことで、クランに幸せを教えてあげられた。だから悔いはありません。死刑を拒むつもりも、ありません」


「……そうか」


「目覚めた時、クランと共に死ぬことが出来なくて絶望しました。だけど、これで良かったのかもしれない。ちゃんと裁かれて終わらないと、奪ってしまった人たちに、償えないから」


 彼は、喜怒哀楽の全てを織り交ぜたような両目で僕を眼差した。その顔を見続けていられなくなり、深く、頭を下げる。僕の命が終わっても、ペトラの命は返らない。僕が奪った命は、何一つ、戻らない。償い方なんて、本当は分からなかった。


 ノックの音が荒々しく鳴る。扉が開いて、外に立っていた担当官がベルンハルト先生に近付く。耳語している内容から察するに、面会時間が長すぎるようだ。


 担当官が退室して、僕は夢物語を口にしていた。それは、弱音じみた願いだった。


「ベルンハルト先生。僕……病気であることを罪だと思わせるこの世界が、嫌いです。僕が生まれ変われるかは分からないけれど、もし、生まれ変わることが出来たなら。その時は、病気の人が後ろめたさを抱かなくていいような、通りすがりの人に手を差し伸べてもらえるような……そんな世界に生まれたい。『こんな風に生まれたくなかった』なんて、そう思いながら眠るような生き方は、悲しいから」


 この先、季節が巡って、街並みが変わっていっても、恐らく人の心はいつまでも変わらない。病気を抱えた人や、普通じゃないとみなした人を、簡単に軽蔑して、簡単に傷付けて、簡単に自尊心を壊す。誰かの心を傷付けることは罪にならない。心無い言葉も視線も、凶器だと証明出来ないから。罪にならないから、無情な人達がイジメを娯楽にする。


 自覚症状のない悪意を鎮める薬は善意の言葉だけだ。それを投与しなければ、悪意は感染して集団で誰かを傷付ける。


 だから、先生。せめて、貴方の生徒に、教えて。貴方の声が届く範囲でいいから、伝えて。


 病気を抱えた僕達も、心を持った人間だったのだと。僕もクランも、人間だったから、心を殺されたくなくて、抗ったのだと。どうか、知っていて欲しい。


 僕達の罪を肯定しなくていい。だけど、僕達の痛みは、否定しないで欲しい。


 愚かに思えるだろう懇願を、まっすぐに突き付ける。ベルンハルト先生は、唇を噛み締めたまま、鋭いまなこに涙を溜めていた。


 直線上で繋がっていた視線を、僕は、そっと伏せた。


「クランのおかげで、僕は無痛症のままでも……こんな僕でも良いんだって、思えるようになりました。無痛症で生まれて来ても、良かったんだって。だから、最期は、きっと幸せに眠れます」


 かわらかな解顔は、自分でも驚くくらい自然に溢れた一笑だった。どこか子供じみた、無邪気な笑みが込み上げてくる。それは、クランが教えてくれた笑い方だった。


 永い眠りについたら、そこにはクランがいる。合言葉で遮られて伝えられなかった台詞を、ちゃんと伝えに行く。そう考えただけで、心には幸が蔓延していた。


 頷いたベルンハルト先生が椅子を引いた。立ち上がって退室しようとした彼は、しかし振り返った。


「ライヒェ。君の好きな花を教えてくれ」


 花、と、動揺しながら反芻した。その単語から連想した光景は、クランと一緒に植物園に行った時のもの。先生がくれた車椅子にはしゃいでいたクランの童顔。僕は、頬を緩めた。


「彼岸花が好きです。赤いのも好きですが、白い方が……思い入れがあります。僕は、天国には行けないけど」


 先生の切れ長の目見が、柔らかな弧を描く。紡がれた声音も恩愛に染まっていて、ここが留置所であることを忘れるくらい優しかった。


「君の墓に、供えるよ。これからずっと、何年も忘れずに、供え続ける。君の眠る場所が天上になるように。……私が息子に出来る償いは、そのくらいしかない」


 息子、と言われて、少しだけ面映ゆい感覚が滲み出す。僕はなにか言おうとして、開口と閉口を繰り返して、気恥ずかしさから唇を押さえた。悩むように片手を顎に添え、逡巡している間に、彼がドアノブを捻ってしまう。


 その背中が、明かりの満ちる外へ消えていく前に、僕は意を決して嬉笑した。


「ありがとう、お父さん」


 室内よりも眩しい廊下の照明で、彼の表情は窺えない。一度だけ振り向いてくれた彼が、さりげなく手を振ってくれた、ような気がした。


 薄暗い個室で一人、彼の靴音に耳を澄ませる。迷いのない足取りに、胸を撫で下ろしていた。彼の跫音きょうおんが聞こえなくなってから、僕は担当官に手枷を嵌められて、自分の部屋に連れて行かれる。


 僕の裁判が終わる日は、そう遠くない。短い残り時間で、ベルンハルト先生に会えて、謝ることが出来てよかった。彼の優しさに、また触れることができて、よかった。


 長い廊下を歩きながら、他の面会室から出てきた車椅子の女性とすれ違う。夫と思しき男性が、彼女の背凭れに手を掛けていた。端に避けて奥へと歩んだ僕の背が、車輪の音を受け止める。がらがらと鳴るその音に、懐かしさを覚える。


 ふと、クランの声が、鼓膜で反響した。それが夢で聞いたものなのか、実際に投げかけられたものなのか、記憶は曖昧だった。


 可憐な鈴の音は、力なく転がった。転がって、優しく染み込んでいく。舌の上にのせた砂糖菓子みたいに。とても、優しく。


──幸せに、なって、ね。


「あ……」


 唇が、震えた。息が出来なくなりそうだった。喉が痙攣して、窒息してしまいそうになる。


 思い出す。銃声が響いて、意識が遠のいていく中で、僕の手を握ってくれた体温を。彼女の、ささめきを。


 肺が、圧迫されて苦しい。切なさに溺れていく。泣きそうになりながら、クランのことを何度も追懐した。薄く笑んだ口元からは、「痛い」と、うわごとみたいに零れた。


 これは、彼女がくれた痛みだ。痛くて、苦しくて、それなのに。とても温かく、体を巡っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

クランクハイトと痛覚の胎動 藍染三月 @parantica_sita

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ