「schmerzhaft」3


     (三)


 死体ライヒェ、なんて名前を付けられたのは、僕が泣かない子供だったからみたいだ。父さんは子供が苦手で、あまり子供を望んでいなかった……と母さんが言っていた。それでも母さんが子供を強く望んだ。けれども授かったのは、産声を上げない赤子だった。だから気に入らなかったのかもしれない。


 それでも追思した過去の中で、父さんの方が僕に優しくしてくれたような気がした。いや、母さんも昔は優しかった。家族からも同級生からも嫌悪されるようになったのは、初めて骨折をした日だ。


 小学生の夏。あの日の僕は友達と、放課後に階段で遊んでいた。


「ほら、ライヒェも早く跳べよ!」


「大丈夫、怖くないって!」


 踊り場で友人たちが僕を急かす。階段の何段目から飛び降りられるか、みたいな遊びが、僕達の間で流行っていた。度胸試しじみたものだ。四段目を無事に飛び降りた彼らは、怖気づく僕をどうにか鼓舞しようとしていた。


 それでも踏み出せず、呼吸を落ち着かせていたら、一人の女子生徒が階段を上ってくるのが見えた。邪魔になってしまうからどかなければ、という冷静な思考は、彼女の顔を見た途端に消えていた。


 その子は学校で一番かわいいと騒がれていた子で、子供らしく単純な『女の子の前で格好つけたい』という心に突き動かされ、僕は咄嗟に六段目まで上ってから跳び出していた。


 宙に舞った僕と、僕を見上げる少女の視線が交差する。大きくて丸い瞳が一驚を喫して僕をじっと諦視する。勢いをつけすぎた体は中空で前転した。階段の上から溢れる夕焼けと、それに照らされる少女の真っ白な手が眩しかった。


 廻る目路を瞼で覆い、足に力を込めて、僕は無事に着地していた。振り仰いだ先には僕に手を伸ばしたまま固まっている少女がいた。助けようとしてくれたのかもしれない。彼女に笑いかけようとしたが、そうする前に友人たちの歓声に揉まれることとなった。


「ライヒェすっげー! やれば出来るじゃん!」


「見てろよ、俺も六段目に挑戦する!」


「六段目なんて無理だろ。ライヒェお前すごいよ!」


 僕の肩を欣喜して叩いたり、爛々とした目で褒めてくれる友人たちに僕も喜色を浮かべる。階段の途中で凝然としていた少女は、ほっとして愁眉を開くと僕に破顔してくれた。その時だけ、なんだか物語の主人公になったみたいだった。


 斜陽の満ちる階上に少女が歩き去ってから、僕ももう一度階段に足を乗せる。


「今なら一番上からも跳べる気がするんだ。挑戦してみていい?」


「えっ」


 出来ないと思っていたことをやってのけた達成感で、体はとても軽くなっている。動揺する友人に歯を見せて笑ってから、僕は一番上まで駆け上がった。


「やめとけよ、流石に無理だって!」


「一番上は危ないから跳ぶなよ! 聞いてんのか⁉」


 数歩先から助走をつけて身を投げ出す。舞っている埃が陽射しで煌めいている。人の体が塵埃に比べてはるかに重いのだと、忘れかけていた常識を思い出す。空っぽの頭で想像していたよりも、踊り場までの距離が遠い。


 僕を見上げる友人たちがぽっかりと大口を開けて後ずさっていた。外耳道には集中という膜が張られていて、彼らの声は朧げにしか聞こえない。


 僕は、着地点から片時も目を逸らさなかった。そうすることで、視野が揺らぐことなく、着地出来ると信じていた。


 そんなふうに、愚かしく舞い上がっている僕を、重力が現実へ引きずり落とす。


「ライヒェ!」


 甲高い叫びが、僕の集中を突き破って鼓膜を震わせた。目界は廻る。六段目から着地できた先刻とは、全然違う形で回る。傾いた体は段差に打ち付けられ、ただ『打ち付けられている』というだけの感覚に呆然とし、為す術もなく転がり落ちて行った。


 踊り場に倒れた僕は、詰まっていた息を咳き込みながら吐き出して、恥ずかしさと馬鹿らしさに噴き出していた。


「っ、あはは……失敗しちゃった。もう一回やってみようかな」


 自分を勇者かなにかと勘違いしていた羞恥に、頬を掻いて立ち上がる。友人たちは皆、蒼褪めていた。彼らが凝視している左腕に目を落とす。点在する擦り傷が血を滲ませているくらいで、心配する程のものではないはずだ。最初は、そう思った。よく見ると肘の位置がずれていて、手の角度もおかしい。折れているのだと気付いて、右手で前腕部を軽く持ち上げた。


「お前……それ、痛くないのかよ」


「折れてるだろ。保健室行ったほうが……」


「痛くないから大丈夫だよ。押し込めば元の位置に治るかな」


 握りしめて捻ったり、引いてみてもなかなか元には戻らない。眉根を寄せて思いっきり力を込めたら、突っ張っていた皮膚が裂けて血が溢れ出した。骨は表皮から露出するほど、更に外れてしまったみたいだった。


 骨の位置を戻してガーゼでも貼ればそのうち裂傷も塞がって治るだろう。そんな気持ちで骨を押し戻そうとしていれば、友人たちが悲鳴を上げ始める。いや、彼らの号叫は、たぶん悲鳴とは違う類のものだった。


「な、なにやってんだよ……! 血出てんだぞ!」


「っこいつ変だって! もう行こうぜ!」


 心配してくれる眼は一つもない。いつの間にか、皆ひどく苦い顔をしていた。まるで害虫を見つけた時みたいな、嫌悪にまみれた騒めきが耳を刺す。なんでそんな目で見られるのか、どうして彼らが走り去っていくのか、分からなかった。


 疾駆する背中を眺めて最初に抱いた感情は焦慮だ。今置いて行かれてしまったら、居場所がなくなるような気がした。追いかけなければと思った。逸る心が爪先を前に進ませる。けれども足が縺れ、倒れ込んでいた。


「っ、待って、僕も……」


 片腕だけでどうにか起き上がろうとして、上手く力が入らず床に転がる。立つ、という簡単なことすら叶わない悔しさに切歯した。痛くもないのにどうして動かないんだ、と己の左腕を睨めつけた。骨はさっきよりも突き出していて、どくどくと血が流れ続けていた。


 冷えた床に頬を滑らせて、体の向きを変えて今度こそ上体を起こす。


 階段の踊り場に、僕以外の声影はない。駆けて行った彼らの余韻さえどこにもない。腕から滴る膏血の音さえ聞こえそうなほど、静まり返った校内で僕は立ち尽くした。嗚咽みたいに震える息骨を、空蝉じみた有様で一心に聴いていた。


 上の階から誰かの笑い声が聞こえて、自分だけの世界が破られる。伏し沈んでいた僕は顔を上げた。硬直していた足を無理矢理動かし始める。


 誰かに見つかったら、さっきみたいに軽蔑されて面倒なことになる。だから早く帰らなければと思ったのだ。なのに足も負傷しているのか、ずるずると跛行してよろめきながら進むことしか出来なかった。


 学校の外に出ると、夕紅がひどく眩しかった。肌を包む外気は蒸し暑いのに、錯覚じみた冷たさが静脈を這う。笑声に似た涙声を、歩く度にしゃくりあげる。すれ違う人を意識の外に追いやって、聞こえてくる声を全部聞かないようにして、歩き続けた。


 不意に、どうして僕が逃げなければならないのか、という疑問に足を縫い留められる。人のいないところに行きたいのは、変だと非難されるのが怖いからだ。だけどどうして、ただ血を流しているだけの僕が、あんな風に気味悪がられなければならなかったのだろう。


 僕は、間違っているのだろうか。何か、おかしかったのだろうか?


 一度だけ髪を振り乱してから、僕は自宅の門をくぐった。おかあさん、と無意識のうちに漏らした呟きは、すぐに喘鳴が掻き消した。もう、疲れ切っていた。


 母さんは台所で夕食の支度をしていた。彼女は僕を見つけるなり、すぐに駆け寄ってくれた。


「ライヒェ、どうしたのその腕……!」


「おかあさん……階段から、落ちちゃって。引っ張っても、押しても、上手く戻せないんだ」


 骨の位置が本当に戻らないのだと訴えたくて、脱力している左腕を引っ張ってみせる。血塗れの腕はべたついていた。どうしたらいいのか分からず、助けてほしくて母さんを見た。母さんの、不快感で顰められている顔を、真っ直ぐに見てしまった。それが友人達の面様と重なって、口端が引き攣っていく。


「何やってるの、痛いでしょ⁉ やめなさい!」


「う、ううん、痛くはないんだ。ほんとだよ、おかあさん。こんなに曲げても全然痛くなくて、痛く、なく、て……」


 疾言を連ねていた唇が、動きを止める。少しだけ開いている口から浅い呼吸音が漏れて、口腔が乾いていく。掴み上げた左腕から滂沱として流れる赤を、虹彩に映した。


 血を流している時、人は痛みを感じるものなのだろう。怪我をすると、痛い、と思うのだろう。


 僕は、痛い、と思ったことが、これまでにあっただろうか?


『痛い』って、なんだ?


 人が、怪我をしたり、血を流した時に感じるもの。ならば、痛いと思わない僕は──?


「っ……!」


 僕は、何度も首を左右に振って、折れた腕を何度も何度も捻り続けた。ひとえに痛みを知りたかった。だって、痛みを知らないと、人間じゃないみたいじゃないか。


 それでも分からなくて、分からなくて。涙眼を母さんに向けたら、かち合った視線は弾かれるように逸らされる。


「あなた頭がおかしいわ! 気持ち悪い……!」


 溶けだした蝋みたいに、涙はどろりと熱かった。乾ききった唇が罅割れて血の味がする。母さんの唾棄が耳の奥で反響していた。おかしい。気持ち悪い。投げつけられた言葉を確かめるように、微かに独り言ちる。


 僕が学校から急いで帰りたかった本当の理由を、その時ようやく自覚した。


 誰かの言葉で安心したかったのだ。


 僕はおかしくなくて、何も間違ってなどいない。変なんかじゃない、って。僕は異常なんかじゃないって、信じていたかった。痛みが分からなくても大丈夫だって、抱きとめて欲しかった。


 せめて、僕がおかしくて間違っているのなら、たすけてほしかった。


 他人に否定された僕でも、家族には肯定してもらえると思っていたんだ。


 母さんは僕をその場に置き去りにした。僕は仕事から帰って来た父さんに連れられて病院へ行った。骨折の治療を施され、僕が『無痛症』と呼ばれる病気であることも教えられた。


 僕の骨折が治るまで、父さんは僕を見守ってくれた。だけど骨折が治っていくにつれ、父さんを見かけなくなっていった。完治した頃には、広い家に僕と母さんだけが残されていた。母さんに言われて、僕は母さんの名字を名乗るようになった。


 その頃は毎晩のように父さんが立ち去っていく夢を見ていた。面影を今でも思い出す。どうして行ってしまうのか訊ねる声は、夢裏の父さんに届かなかった。


 思えば、二人の顔は何年も思い出せなくなっていた。回視できるのは、母さんの木蘭色の後ろ髪。仕事前に化粧鏡と向き合っている痩せた背中。鏡に映り込む、僕の情けない顔。


 拒絶されたあの日以来、母さんに何も言えなかった。母さんも、僕をいない者のように扱っていた。鏡越しに目が合うこともほとんどなかった。目が合っても、声をかけられなかった。


 いつのことだったか、母さんが隣人の老婆と話しているのを見かけた。陽の下で認めた母さんは窶れていて、久しぶりに聞いた声はとても掠れていた。聞き取れた言葉は少しだけだったが、僕のことを話しているのだとすぐにわかった。


 何も言わず、恨むようにじっと見つめている姿が恐ろしいのだと、母さんは言っていた。自分の子ではないから引き取ってくれないかと、老婆に言っていた。


 僕は、母さんに怨色を向けたことなんてない。捨てたいと思われていることも知らなかった。


 心が有形の器物だったなら、ひどい音を立てて砕屑を散らしたはずだ。心髄に押し留めていた希望も、期待も、雪みたいに零砕して消えてしまった。


 僕が間違っていたのだ。あの日、痛がる素振りを見せて、腕をだらりと下ろしたまま泣けばよかった。母さんの第一声は確かに僕を心配してくれていた。助けてと声に出すべきだった。


 誤った過去を弥縫することなんて出来ない。一度壊れた関係は、治らない。


 母さんの人生を狂わせたのは確かに、頭のおかしい僕だ。幸せな生活も、想い合って結ばれたのであろう父さんも、僕は母さんから奪った。母さんの為にも、僕の為にも、離れた方が良い。だから僕は、お金を貯めて家を出ることを決意した。


 何も期待せず、誰にも心を開かず、極力怪我をしないように過ごす。それはとても楽だった。だけど傀儡になった僕は、漸次に錆び付いていった。錆びた螺子はいずれ回らなくなる。このままでは駄目だと分かっていた。


 心というものは、簡単に死んでくれないらしい。僕は痛覚のない僕のまま、普通の人間として扱われたかった。

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