「schmerzhaft」4

     (四)


 甲高い鳴き声が手の内で上がった。僕に掴まれて藻掻いているマウスを見下ろす。しっかりと保定してやれば、暴れるのをやめて大人しくなる。柔らかな下腹部に注射針を沈め、尖鋭が筋肉に達したあたりで注射器を起こす。腹腔内へ薬液を注いでいく。押し出されていく麻酔薬を見つめたまま、マウスにも痛覚があるんだな、なんて当然のことをぼんやり考えていた。


 教室に響いた靴音に顔を上げる。生徒を見て回っていた先生が教卓に手を突いて、満足げに頷いていた。


「よし、全員注射は出来たな? 薬が効き始めるまで五分程度かかる。その間おさらいをしていくぞ」


 漏らしかけた欠伸を噛み消した僕はマウスを掴んだまま、混合液の話を始めた先生から目を逸らした。僕の座席は窓際で、この教室は三階にある為、眺めが良い。けれども昼過ぎの白光が眩しくて両目を細める。眼差しは校庭で揺れる木々を捉え、街路に落ちて、それから立ち並ぶ家々を辿った。


 通学路を視線で遡りながら探しているのはクランの家だ。昨日一度だけ行き来した道だが、どうにか覚えている。いつも真っ直ぐに通りすぎる公園の手前で右折して、その道をずっと歩いていけば到着するはずだ。とはいえ流石にここからでは、建物に阻まれて彼女の家は見えなかった。


 ゆっくりと流れていた雲が日輪を隠して、空を掻き暗す。窓硝子に薄らと僕が映り込む。顰め面を虎視したまま瞬きをすると、クランに『睫毛が長い』と言われたことを思い出して、つい虚像を覗き込んでしまった。じっと寓目してみるも、僕がつまらない顔をしていることしか分からなかった。


「──ルク。ライヒェ・カレンベルク!」


 耳を貫いた怒号に双肩が跳ねた。僕は思わずマウスを取り落としてしまう。机に転がったマウスを慌てて掴み上げてから教壇を見遣れば、先生が怫然と眉を吊り上げていた。ちらちらとこちらを振り返る生徒たちも僕を白眼視しており、針の筵に座っている気分だ。


 他の生徒が、マウスを手元のケージに戻しているのを見て「あ」と息を漏らしてから、僕もマウスを座右のケースへ置いてやった。威儀を正した僕に、先生が咨嗟を吐き出す。


「授業中だぞ。何回呼んだと思ってるんだ。ちゃんと話を聞け」


「……すみません」


「それで、マウスに投与した薬液は何ミリリットルだ?」


「え、っと……2、じゃなくて、0.2……」


 机上に転がる注射器の目盛りを瞥見したせいで間違えかけたが、言い直したので問題ないだろう。けれども僕の言い間違えはクラスメートにくすくすと笑われていた。苦笑する僕に先生が一度頷いてから、今度は他の生徒に質問をしていた。


 数分が経過して、僕達は先生に促されるままマウスの状態を確認した。麻酔が効いているようで、足の裏に針を突き刺してもマウスはぴくりとも動かなかった。


 麻酔の効果が持続する時間は一時間から四時間ほどだという。その間、マウスはどんな痛みを受けても反応しないのだろう。臓腑を暴かれようが鳴きもしない。それは、さながら解けることのない麻酔を受けて生まれてきたような、僕みたいだった。


 授業が終わると、皆注射器を返却してから教室を出ていく。全員が出て行って、僕と先生だけが残った教室は、夕方が近付いている証に赤らんでいた。


 僕は注射器を渡しながら先生に問いかけた。


「あの、ベルンハルト先生。痛覚過敏とか、異痛症について詳しいですか?」


 それは慮外な質問だったようで、彼の柳眉が持ち上がる。それから不思議そうに首を傾げられた。


「詳しい、というほど詳しくはないな。君も知っていると思うが、痛みに関することはまだまだ研究が進んでいないんだ」


 彼は、僕が無痛症であることも、その治し方を探すために薬について学んでいることも知っている。噂だと彼も痛覚の研究をしているらしい。教卓の隣に置かれているガラスケースにマウスを返却しながら、こくんと一つ相槌を打った。


「そう、ですよね。僕の友達がそういう病気みたいで。今回マウスに投与したような麻酔で、症状を和らげることは出来ませんか?」


「難しいかもしれないな。モルヒネや非ステロイド性抗炎症薬も効かないと聞いたことがある。治療法は見つかっていないんじゃないか」


「そうなんですか……歩くだけでも痛いみたいだから、なんとかしてあげたかったんですけど……。教えてくださってありがとうございます」


 クランに何か良い報告が出来れば、と思っていたのだが、そう簡単にはいかないみたいだ。彼に頭を下げてから、教室の扉へ足を運んだ。そのまま廊下へ踏み出そうとしたところで、歩みを止めていた。


 喚想した彼女の、赤い果実みたいな二つの瓊玉けいぎょく。それとよく似た木の実を見かけたのを思い出して、僕は先生を顧みた。


「そういえば、公園の金銀木、実が生っていましたよ」


「ああ……もうそんな時期か。私も、自分の研究も進めないとな」


 この市にある金銀木は先生が取り寄せたものだ。果実に含まれる成分が謎に包まれており、薬として使えないか調べている、みたいな話を以前聞いたことがある。


 教室を後にして、自身の足音を劇伴に、ぼうっと静慮する。研究されていない植物はこの世に数え切れないほどあるのだろう。痛覚に働きかける成分を含有しているものも、世界のどこかにはあるかもしれない。ないかもしれないし、巡り合えないかもしれないけれど、一抹の希望に縋るしかなかった。


 頬を照らす晩暉ばんきに軽く目を伏せた。睫毛の影が落ちる視界では、階段の段差がぼやけている。足を踏み外さぬよう緩徐な足取りで一階まで下った。昇降口を目指した僕の背に何かがぶつかる。振り向けば、綺麗な少女が莞爾かんじとして一笑していた。


「ライヒェ、おはよ」


「おはようって、もう午後ですよ」


「いいんだよ、朝は会ってないんだから『おはよう』で」


 飴色の長い髪が波打ち、僕の袖をなぞる。彼女はいつも通りの明朗さを花顔いっぱいに広げていた。互いの腕が触れそうなほど近付くと、そのまま僕と並んで歩いていく。そんな彼女の視線が注がれているのは僕の手元だった。不思議に思っていたら、華奢な繊指が僕の手首を指し示す。


「ねえ、そのシャツどうしたの? オシャレだね」


 頭が重くなったみたいに、僕の首が傾いた。自身の手を持ち上げて、纏わりつく袖を視認する。袖に施された繊細な装飾を認め、息を呑んだ。借り物の服から着替えるのをすっかり忘れていた。


「え、と……昨日友達に借りたんです。後で返しに行かないと」


「そっか、友達かぁ。君にそんなオシャレさんなお友達がいたなんて初耳」


「はは……」


 この時間の一階は人が多い。僕達と同じく下校していく生徒達に埋もれてしまいそうだ。だというのに見られているような気がして、気配を辿った先、廊下の端へ瞳孔を向けた。壁に背を預けた男子生徒達と目が合いそうになり、咄嗟に正面へ向き直ったが、彼らが見ていたのは僕ではなく、隣を歩く彼女だった。その証拠に、雑踏の中でも彼女への賛美が聞こえてくる。


「モニカ先輩、今日も綺麗だな」


「あんな『死体くん』にも笑って接しててホント優しいよなぁ」


 聞き耳を立てた罰のごとく、僕に対する侮蔑を孕んだ声様が聞こえてきて苦り笑う。ライヒェ、なんて名前なのだから彼らの言い分は間違っていない。それでも気分の良いものではなかった。


 校舎を出ると斜陽が眩しかった。たなびく紅霞はちょうど太陽を避けていて、陽射しが何にも遮られることなく降ってくる。頭上を見はるかしたまま地面を擦り鳴らし、僕は言った。


「あんまり僕と一緒にいない方がいいですよ」


「え? どうして?」


「言わなくても分かるでしょう。僕が気味悪がられてるから」


「別に気にしないよ。君はそんなことを気にしてたの? だから大学に入ってから私のこと避けてるんだ?」


 揶揄するような声遣いに眉を寄せる。持ち上げていた顎を引いて、隣にいる彼女を正視した。僕と目が合うと、彼女の恩顔は笑み曲がる。


 モニカ・シントラーは昔から僕を嫌厭しない。初めて僕達の焦点が結ばれたのは、あの夏の階段だ。高い段差から飛び降りて格好をつけたいという、おこめく子供心を突き動かしたあの日の少女は、可憐というよりも綺麗になった。羨望で注視される彼女の傍に、僕はいるべきではない。


 そう思えど、親切にしてくれる彼女を撥ね除けるのは失礼で、声を掛けられたら応じる程度の距離を保っているつもりだった。


「別に、避けてないですよ」


「そうかなぁ……昔はもっと友達みたいに話してくれたのに、今じゃ他人行儀だし」


「先輩には敬語を使う。普通のことでしょう、モニカ先輩」


「そうだけどさ」


 唇を尖らせる彼女に、小さくため息を吐き出す。


 僕達がこうして友達みたいに接していられるのは、僕が大怪我をしても痛がらない姿を、彼女が知らないからだ。骨折をした翌日に無痛症の噂は広まったが、実際に僕の自傷じみた真似を目睹もくとした人と、していない人とでは嫌悪感の度合いが変わってくる。


 きっと僕がモニカの目の前で事故に遭って、事も無げに笑いかけたら、彼女も僕から離れていく。それが分かり切っているから、僕は彼女との間に壁を張っている。不可視の隔たりは彼女には見えていないみたいだった。


 転瞬の都度、思い浮かぶのはクランの顔だ。世間一般でいう『普通』を体現しようとしている僕ではなく、おかしいと言われた無痛症の僕を受け入れてくれた少女。彼女は、暴行をされて平然としている僕を目の当たりにしても、宝石みたいな瞳を輝かせてくれた。こんな僕に、憧憬を抱いてくれた。その事実が僕の中で銀燭みたいに温かく揺らめいていた。


 整備された校庭を進んで正門を通り抜ける。煉瓦道には黒い自動車が停まっていて、中年の男性が軽く手を振ったのが、車の窓枠から窺えた。僕の隣でモニカが吃驚の息を漏らした、と思うと、すぐさま車に駆け寄っていた。


「シリングスさん! どうして学校に?」


「仕事が少し早く終わってね。君を迎えに来たんだよ」


「そう……。ライヒェ、この人は私のお父さんの知り合いで……よく勉強を教えてもらってるの」


 男性の、鳶色の双眸が僕を射抜く。あまりに犀利な一瞥だった。ぞっとして肩が強張るほど、まなじりが吊り上がっているように見えた。それは瞬刻のことで、気付けば穏やかな笑顔が目の前にある。唇を開いたのは僕よりも彼の方が早かった。


「こんにちは、ライヒェくん」


「あ、えっと、どうも……」


 人好きのする笑みに、苦笑を返してしまう。シリングス、と呼ばれた男性は片笑みを崩さなかった。僕がモニカに向き直ると、彼女の長髪がふわりと飄揺する。香水の佳芳を虹彩で追いかける。彼女はシリングスが開けた扉に片手を添えていた。


「それじゃあ、私は彼の車で帰るから。またね」


「ああ、うん」


 モニカを乗せて閉まっていく扉。僕は夕風に遊ばれた横髪を耳にかけて歩き出す。かつ、かつと石畳を鳴らしてから、何の気なしに一度だけ振り返った。


 僕の横を通り過ぎていく学生達と、車の中で相言を交わす男女。時間が経過する世界から僕だけが隔絶されたみたいに、身動きがとれなかった。


 モニカの朱唇がシリングスの声を呑み込む。彼らは幸せそうに互いの吐息を染め合っていた。二人は付き合っているのだろう。見てはいけないものを見たような気持ちになって、踵を鳴らす。僕はその場から早足で遠ざかった。


 数度分かれ道を通り過ぎれば、学生の人海も疎らになっていく。人気が少なくなってきた頃、ようやく深い呼吸が出来るようになった。上手く聞き取れなかった喧噪も、すれ違った人の会話を聞けるくらいに静まった。


 聞こえてくる会話は僕には関係のないことばかりだ。授業が退屈だとか、親と喧嘩をしただとか、酒場に行こうとか。他愛ない会話などを聞き流して、公園の傍まで来た。このあたりに来ると小学生の子供や、その親が増えてくる。


 楽しげな子供のさざめきに顔を向けた。公園で数人の男女が走り回っていた。子供同士で遊んでいる子もいれば、親子で遊んでいる姿もある。クランも病気がなければ、親とあんな風に過ごしたのだろうか。僕も幼い頃は公園で親と遊んだ、ような気がした。幼少期の記憶はとうに色褪せていて、あまり細部は思い出せなかった。


 ふと、深刻そうに囁き合う女性の会話に、意識を惹きつけられる。女性達のいる公園の入り口には近付かず、クランの家を目指して踏み出したが、僕の脳室は今しがた耳にした話で占拠されそうだった。


 今、この市では小児連続殺人事件が起きているらしい。小児、というのはクランと同じくらいの子供達だろう。クランのことが心配になって、彼女の家に向かう双脚はどんどん速度を上げて行った。



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