「schmerzhaft」2

     (二)


 クランの家は綺麗な一軒家だった。敷地の広い庭は手入れがされておらず、草が藹藹あいあいと茂っており、一部分だけ見たら森の中と見紛うほどだ。煉瓦造りの壁に張り付いた蔦は二階の窓まで伸びていて、彼女に案内された室内からも窺えた。


 すっかり暗くなった窓外の夜景から目を逸らし、僕はクローゼットを開ける。紅燭が灯る一室で、人影は僕のものだけ。クランは僕をこの部屋に連れてくるなり「適当な服に着替えてから一階に来て」と言い置いて出て行ってしまった。


 クローゼットの中には紳士服がいくつもかかっており、彼女の身内のものだと思われる。持ち主の許可なく勝手に着ていいのだろうか。そもそも、初対面の少女の身内の部屋に一人で、衣服を物色しているという現状は、まるで罪を犯そうとしているようで落ち着かない。


 もし今、この部屋の主が帰ってきたらどうすれば……と憂慮してから、かすかな疑問が湧いてきて眉を寄せた。夜半に、幼い少女一人だけの家。母親も父親もいる様子がなく、不思議だった。


 頭を振って雑念を払い、質素な衣服を手に取る。自身の汚れたシャツを脱ぎ捨てると、嗅ぎ慣れない衣香を滲ませるワイシャツへ袖を通した。自分の服を畳んでから鞄に仕舞い込む。部屋の明かりを消して一階を目指した。


 廊下に置かれている花瓶の花が枯れている。階段を飾り付けるような蜘蛛の巣を避けて靴音を響かせる。薄暗い通路を進み、室内光が零れている一室に目をやった。僅かに開いていた扉を大きく開けると、クランが置物みたいにソファに座っていた。


 赤いベロア生地の背もたれを縁取っているのは、草花の装飾が施された赤褐色のマホガニー材。静かに佇むクランの様相も相俟って、ドールハウスを覗き込んだと錯覚しそうになる。硝子玉じみた真紅の瞳がころりと傾いて僕を映す。ほっそりとした白皙の腕が持ち上がり、木造りのテーブルに一本の影を落とす。彼女が指し示したのは机上よりももっと先だった。


「あそこの棚の中に救急箱があるから、使っていいよ。ライヒェ、怪我してるでしょ」


「大丈夫だよ。多分どこも出血してないと思うし」


「本当? 何回も蹴られてたんだよ?」


「うん。だから痣にはなってるかも」


 傷の確認はしていないが、着ていた服には砂と泥だけが付着していた為、切傷は無いはずだ。彼女の向かい側のソファに腰を下ろそうとして、木目に指を滑らせたところで「ライヒェ」と呼びかけられ、僕は立ったまま首を傾けた。


「お腹、空いてない?」


「ああ……帰ったら適当になにか食べるよ」


「食材ならあるよ。一緒に食べよ?」


「なにか作ってくれるの?」


「え? ライヒェが作って、それを一緒に食べるの」


 互いにきょとんと向かい合う。部屋の掛け時計が数回鳴ってからハッとして、念のため確認をとる。


「僕が、作るの? 貴方のご飯を?」


「うん」


 彼女の首肯に、そっか、と相槌を返してようやく把捉した。つまり彼女は、ご飯を作ってくれと言いたいのだ。初めからそう言ってくれればいいのに、変わった伝え方をした彼女が不器用に思えて笑ってしまった。げんをした自覚もないのだろう、彼女は僕が問い返した意味も、微笑んでしまった訳も理解していないようだった。


 不可解だと言わんばかりに団栗眼をぱちくりしているクランへ、僕はソファに鞄を置いてから頷いてみせた。


「わかった、キッチンに案内して」


 クランは何かを言いかけて、声を発することなく開口と閉口を繰り返したのち、床に足を着いた。ソファから降りた彼女がとても緩慢な足付きで歩み出す。僕は小さな背中を追いかけて廊下に進んだ。


 部屋を出てすぐ隣の扉を、彼女が指差す。そこが台所なのだろう。僕は真鍮のドアノブを捻って開扉した。


 流し台の傍にはいくつもの紙袋が置かれていて、長机の上には野菜や肉類が転がっていた。紙袋を開けてみると、ライ麦パンやプレッツェル、フランスパンが入っている。何を作ろうかと踏み出し、足元の籠に躓いた。籠には果物が入っており、隣には茸が入った籠もあった。


 ハムをまな板に乗せ、壁に掛けられている包丁に手を伸ばしていたら、クランが言った。


「私ね、歩くの苦手なの」


 後目に伺察すれば、クランは僕の手元をぼうっと見ていた。僕も視点を戻して、ハムを薄く切り始める。香辛料の香りが僅かに広がった。


「クランの病気は、歩く時も痛みが走るの?」


「うん。ずっと歩いていれば少しずつ慣れていくんだけど、最初の一歩目を踏み出すのがいつも怖い。針の道を歩いているみたいなの。人魚姫もこんな痛みを味わっていたのかな」


 さきほど彼女がソファを降りる際、言いかけた言葉は『歩きたくない』だったのかもしれない。ゆっくり、ゆっくりと、一歩一歩感触を確かめるように歩いていた後ろ姿を、思い返す。痛がっていたことに気付けなかった。


 顰め面でまな板に影を落とす。四枚に切ったハムを端によけて、ライ麦パンを手繰り寄せた。


「人魚姫って、人間になる為に声を失くして、尾ヒレの代わりに人の足を手に入れたんだっけ……」


「そんな感じ。私は初めから人間なのに、どうして歩くだけで痛いんだろうって、いつも思ってる」


 二人分のサンドイッチを作るための枚数と配分を考えて、パンに包丁を沈めた。パンは柔らかくひずんで、刃に押し潰されていく。そこには当然、血液も悲鳴も伴われない。生き物じゃないから。


 ならば、生き物なのに何をしても痛みを感じない僕は、なんなのだろう。


 悲観的な思惟を飲み込んで、切り分けたパンにハムを挟んでいく。物足りなさを覚えたため、乱雑に置かれている野菜の群れからキャベツを持ち上げた。そうしてクランに苦笑で返事をする。


「痛いのは、人間だから、じゃないかな」


「どういうこと?」


「痛いって思えるのは、生きてる証拠なんだ」


 痛みが良いものではないことくらい分かっている。激痛は苦しいはずだ。それでも、生きていると実感できる人間が、僕にとっては羨ましい。


 細めた眼路で包丁が燭明を受け流す。仮にこの切っ先を自分の指へ沈めても、痛覚は応えてくれない。無感覚に近い冷たさで骨を歪めて、絵具みたいな浄血を溢れさせて。切り離された指先が宙に舞ったところで、僕はきっと生者らしからぬ顔で『あ』と呟くのだ。


 苦りきった息を吐き捨て、キャベツに手を添えた。


「ライヒェ、睫毛長いよね」


「えっ、いきなりなに?」


「睫毛がぱちぱちしてるのも、びっくりするのも、しゃべってくれるのも、生きてる証拠だよ」


 沈黙を返してしまう。クランの方を顧みることが出来ない。彼女は困った様子もなく、言葉に迷うことなく、僕の生を肯定する。胸郭を満たしていく嬉しさに気付くと、冷静になった心には、幼い子供に救われた情けなさも浮かんでくる。


 手元を青黒く染めている自身の影が、少しばかり左右に揺れた。軽く首を振るってから、キャベツを細く切り始めた。


「そう、だね」


 千切りにしたキャベツをパンとハムの上にのせて、調味料が並ぶ棚を見遣る。塩、胡椒、マヨネーズ。何をかけるか迷う指先が、右に左にと行き来する。自家製と思われるトマトソースも美味しそうで、硝子の容器をじっと凝視した。クランの母親か父親が作ったのだろうか、と考えながら、軽く曲げた人差し指の側面を顎に添える。


「そういえば、クランのお父さんとお母さんは? 今日は出掛けてるの?」


「あ……お母さんはいないの。お父さんは、たまに食べ物を持ってきて、ここに置いてどっか行っちゃう。帰ってこないし、お部屋にも戻ってないから、その服はライヒェが貰っても大丈夫だよ」


「貰うわけにはいかないよ。明日返しに来るね」


 片笑みを湛えて振り向いた。見下ろした背丈は僕の胸元くらいまでしかなくて、彼女の幼さを改めて目の当たりにする。年齢が十歳に達しているかも分からない子供を、たった一人置き去りにして帰ってこない父親に、小さな嫌悪が湧き出す。僕を見上げる童顔を眼差した。深憂を注ぎ込む僕の視線に、彼女は首を傾げていた。


「貴方はまだ子供なのに、ずっと一人で大丈夫?」


「……大丈夫。もう慣れちゃった」


 何も、言えなくなる。小さな子供がそんなことに慣れてはいけないと咎めたくなったが、胸臆から込み上げてくる共感が僕の唇を縫い合わせ、美辞を吐かせてはくれなかった。


 口唇をほどけぬまま、頬を緩める。クランは感情の見解けない顔様で僕のうそ笑みを見上げていた。


「ライヒェはお家にお父さんもお母さんもいる? 仲良し?」


「僕は、実家は出て一人暮らししてるよ。お母さんとは仲も良くなかったし」


「一人になりたかったの?」


 一秒間が長く感じられるほど、じっくりと両目をまたたいた。目の前にある現実の輪郭が滲む。自身の睫毛が格子状に視界を埋めていく。真っ暗な眼裏に、思い出を描く。褪せた過去はすぐに星散して、暗闇で明滅する幾何学模様と化してしまう。


 そんな、瞼を見つめているだけの現状に気付いて目を開けた。緩頬かんきょうした顔がどんな色をしているか、自分では分からなかった。


「……うん。僕は、一人になりたかった」


 吐出した声は透明な鉛だ。それはきっと、栓の形をして肺を塞いでいた。少しだけ息がしやすい。少しだけ、真情が溢れそうになる。気管を上ってくるそれが声帯を震わせる前に、クランが言った。


「大人になると、一人ぼっちでも寂しくなくなるの?」


「え?」


 小柄な彼女はめいっぱい顎を持ち上げていた。そうして僕をひたすらに打ち眺める。木の実に似た赤い瞳が、室内光を受け止めて瑞々しく潤う。


 クランは、直情径行な子供らしく目見を歪めて、繕うことを覚えた大人みたいに顰笑ひんしょうしていた。


「私は一人になりたくなかったよ」


 気色取った寂寥に、なにも言えなくなる。寂び返った部屋の中、僕達はしばらく静止画みたいに止まっていた。相槌を打つことすら出来ない僕から、クランは目を逸らした。


「みんな私に痛いことをするから……泣いてばかりいたら誰もいなくなって、痛いことはされなくなったの。なのに毎日泣きたくなるの。怒りたくなるの。痛かった思い出が浮かんで、どうして私ばっかり痛い思いしなくちゃいけないのって、許せなくなるの」


 俯いていくクランの顔ばせは窺えない。慰めてやりたくて、小さな頭に手を伸ばす。けれど、彼女の病気のことを思い出した指先は空気だけを撫でる。僕は五指を丸め込んで腕を下ろす。床に片膝を突いて、彼女の白んだ金髪を覗き見た。


 視線に気付いたのだろう、暗がりに閉じこもっていた桃顔が持ち上がる。丸い頬が洋灯の光を受け流して、一瞬だけ光って見えた。多分、彼女はほんのすこし涙を零したのだ。一筋の涙痕は拭われることなく溶けていく。彼女と目線の高さを合わせたまま、穏やかに笑いかけた。


「僕は貴方に、痛いことなんてしないよ」


 赤い虹彩が炎みたいに揺動する。怪訝そうに、嬉しそうに、不安そうに、いくつもの感情が少女の容色を染めていた。


 僕は立ち上がって、作りかけのサンドイッチの仕上げに取り掛かった。トマトソースをかけた上にパンをのせ、形を整える。良い香りのするハムと溢れそうなキャベツが空腹を刺激するものだから、腹の虫が鳴きそうだった。


 喰いつきたい気持ちを堪えて、まずはクランに差し出した。


「クラン。サンドイッチ、どうぞ」


 彼女も相当お腹が空いていたみたいだ。サンドイッチを見るなり両目を輝かせ、飛び掛かる勢いで掴みに来た彼女に瞠目してしまう。小さな手に渡ったサンドイッチは大きく見えた。


 それをすぐさま口に含んだ彼女がキャベツの快音を響かせる。リスみたいな頬袋が微笑ましい。彼女が飲み込むまで、にこやかに見守っていたら目が合った。細く撓んだ諸目が満足感を言外に告げてくる。喉を上下させると、彼女は嬉しそうな気息を吐き出す。


「……おいしい」


「よかった。あるものを使わせてもらっただけで、僕はほとんど何もしてないけどね」


「いつもめんどくさくてパンだけかじってるから、ライヒェは何もしてないなんてことないよ。ありがとう」


 本当に喜んでくれているのが、その相貌から平明に伝わってくる。誰かのために何かをして、感謝をしてもらえたことがとても久しぶりに思え、僕も嬉笑していた。


 僕のぶんのサンドイッチに手を伸ばす。その手首で腕時計が光って、あ、と唇を開けた。時間を気にしていなかったが、もう夜更けだった。


「ライヒェ、向こうのお部屋で食べる?」


「いや……ごめんね、僕は帰りながら食べることにするよ。そろそろ帰って寝ないといけなくて。明日も学校だから」


「そっか。学校終わったら、また来てくれる?」


「うん、また来るね」


 クランは、口に含んだサンドイッチを咀嚼したまま軽く手を振ってくれた。僕も片手を振り返して、台所を後にする。隣室に戻って鞄を回収し、蒼茫な夜の廊下を進んでいった。


 ふと、なにか、木材が軋むような音に足を止めた。老朽した扉を開ける時みたいな、上嗄うわがれた声に似た不気味な音。それは数歩先の一室から聞こえた。


 カツ。靴音がやけに響く。カツ、カツ、と、メトロノームみたいな規則的な歩みに反して、拍動は早くなっていく。近付くほどにひどい臭いがした。


 腐った肉に吐瀉物をかけたみたいな、嘔吐感さえ覚える腥臭に、口元を押さえる。僕は閉じられた扉の前で立ち止まり、息を吸い込む。その酸素は、ひゅっと引き攣った音色を鳴らした。


「ライヒェ、玄関はあっち」


 後顧した廊下に落ちている長方形の光が、少女の影絵を浮き上がらせる。台所から顔を出したクランが、僕の目指した部屋とは真逆の道を指し示していた。


 強張っていた肩から力を抜いていく。この家があまりに悄然としていて、どこか廃墟じみているせいで、無自覚の内に神経質になっていたのかもしれない。苦笑いで頬を持ち上げ、爪先を踏み出した。


「ごめん、クランのおうち広くて、分からなかった」


「そうだと思った。向こうに真っ直ぐ行けば玄関だから。気を付けて帰ってね」


「うん。ありがとう」


 今度こそ、帰路を辿る。分厚い扉を開けて夜降よぐたちの下に出る。普段よりも人と会話をしたからか、夢を見た後みたいな、不思議な気持ちになる。


 星空を見上げて、片手に掴んでいたサンドイッチを口に含んだ。みずみずしいキャベツと、塩気のあるハムと、香辛料の香りと、濃厚なトマトソースが空腹を満たしていく。歩きながら食べ終えると、指にトマトソースが付いていた。


 街灯と月桂に、よく映える赤。それが血液を連想させても、痛みを思い起こすことはなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る