第一章「──痛い」
「schmerzhaft」1
(一)
眇たる痛みすら伴わない衝撃。嘲笑と共に繰り返し降ってくる靴音。愉しげな踵は僕の頭蓋へ落ちてきて、鈍い音を響かせた。
僕は砂まみれの頬を動かし、止むことのない暴行を滑稽だなと見上げる。まるで壊れた楽器を必死に奏でようとしているみたいだ。
斜陽を受け止める公園には、男子学生達の哂笑が跳ね上がるだけ。人を蹴り続けているというのに、悲鳴一つ上がらないことを、彼らは何故怪訝に思わないのだろう。
なぜ、と数拍の間だけ思議に浸って、僕が彼らにとって塵でしかないことを理解した。口無しの塵芥を踏み躙る行為さえ、彼らからすれば娯楽になるのだ。
それに気付くなり、情けなさから咽喉が震えた。笑声混じりに嘔吐く。不意に笑い出した僕はよほど気持ち悪かったらしい。
「なに笑ってんだよ」なんて、苛立ちを発露させた彼らが僕を蹴り上げた。だけど一切の痛痒を覚えないから、事もなげに笑うことしかできない。そうしていれば、僕に落とされていた影は遠のいていった。
取り残された僕は、ざらついた土に側頭部を滑らせる。騒がしい声がなくなって、遠い夕轟きに耳を澄ました。
赤らんだ仄日に目を細めて体を起こす。嘲罵を吐き続けていた男子学生達は、既に公園の敷地内からいなくなっていた。
疲れきった口元を押さえてみると、冷静になったおかげか吐息は震えていなかった。けれども正義を翳してみた結果、惨めな思いをした自分に苦笑がせり上がってくる。血と胃液が混ざったような、酸味の強い唾を飲み込んで、滑り台を振り仰いだ。
小屋を模した遊具の上で、小学生くらいの兄妹が僕をじっと見つめていた。彼らにひらりと手を振るって見せたが、向けられる視線は夜気みたいに暗く冷たい。
「……ほら、怖いお兄さん達はいなくなったよ。だから」
もう大丈夫。そう告げる前に、二人は砂場の奥にあるベンチへ駆けていく。彼らの目的はベンチに置かれた鞄だ。
鞄をそこに置いたまま滑り台で遊んでいたらしいが、帰ろうとした時には砂場がイジメの舞台となっていた……のだと思われる。鞄が取れない、怖い、と交わし合っているのを聞いてしまったら、我関せずと立ち去ることなど出来なかった。
そうして割って入った僕がイジメの加害者に注視されるなり、被害者は隙をついて逃げ、いつの間にか僕が被害者になっていた。
格好悪いな、なんて大息を吐いていたら、鞄を手にした少年が「あの」と控えめに歩み寄ってくる。虹彩に映した少年少女は、僅かな慄然を噛み締めていた。それは真っ直ぐ僕にぶつけられている。目線だけを返した僕に、二人そろって肩を震わせる。畏怖の対象が僕であることは明らかだった。
「あ、ありがとうございました……!」
恐れを飲み込んだ二人が放ったのは掠れ声の謝礼。余韻どころか語尾さえも靴音に消されていた。砂を舞わせながら二つの影が疾駆する。彼らを見送ってから、服に付いた砂埃を払った。しかし、手で払ったところで落ちるはずもない足跡が、白いシャツを茶色く絵取っていた。
見下ろした衣服の汚さに渋面を作り上げ、水洗いで落ちるだろうかと勘考しつつ、踵を返したら何かにぶつかる。
振り向いた先には小さな少女が立っていた。その姿を視認したと同時に、彼女の口唇から迸った叫びが、僕の脳髄を貫いた。
「っ――――!」
茜空を裂くような痛哭は草木すら揺らしているようだった。背丈からして小学生くらいの子供だ。喚声への動揺を誤魔化すように観察してみると、彼女は不思議な恰好をしていた。袖のないワンピースが冷たい秋風に靡く。腰まで伸びた金糸はやけに白髪が混ざっていた。腰にポーチを巻いており、体の細さが窺えてひどく繊弱に見えた。
泣声をようやく嚥下した彼女が顎を持ち上げる。僕の諸目とかち合ったのは、夕焼けを宿した懸珠。玲瓏たる紅玉は、彼女の後背を彩っている金銀木の果実と、よく似ていた。
「ねえ」
深閑とした空気に鈴の音が一つ落ちる。ソプラノの旋律はそのまま転がって、僕に
「貴方は、痛くないの?」
「え……」
「ずっと見てたの。あんなに蹴られて、すごく痛そうだったのに、どうして笑えるの?」
純粋な疑問を向けられるのは、僕にとって珍しいことだった。
怯えも嫌忌も、彼女の音吐には纏わりついていない。病について質されるのは苦手だが、不思議と彼女には嫌な気持ちを抱かなかった。それが思いのほか心地良くて、頬が緩む。
ほんの少し屈んで彼女と目線を合わせ、僕は朗色を湛えた。
「無痛症って知ってる?」
「……知らない」
「『痛い』って感覚が、僕には分からないんだよ」
それは、幼い少女にとって晦渋な言葉だったようだ。彼女はぱっちりとした二重瞼を持ち上げたまま、逆光で青ばむ僕を両の目に映し続けていた。しばらく見交わしている間、互いの隔たりを通り抜けていくのは風の音だけ。緩やかに沈んでいた夕陽が、その丸い輪郭を地平線に沈めた頃。ようやく少女が二の句を継いだ。
「それは、病気?」
「そうだね、一応病気だよ。ただ、患者数がほとんどいなくて、原因も治療法も見つかってないんだ」
「じゃあ、私といっしょだね」
声色がほんの少し高くなるくらいの、かすかな喜色を湛えた彼女に、僕は首を傾けた。一緒、というのは、僕と同じく無痛症である、ということではないだろう。僕は気抜けた顔で少女の微笑を見つめていた。
「えっと、貴方も病気なの?」
「私のも、よくわからない病気なんだって。痛覚過敏? とか、異痛症? とか、そういう種類の病気じゃないかって、お父さんが言ってた」
「ああ……だからさっき……」
思い返したのは、先刻ふり向いた僕とぶつかっただけで、絶叫を上げていた姿だ。恐らく彼女の病は、普通の人よりも痛みの度合いが大きい、或いは、痛みを感じないはずの接触にも痛覚が働いてしまうようなもの。
僕は蹴られても骨が折れても苦痛を覚えないため、彼女に味わわせてしまった痛みがどのようなものなのか想像もつかない。けれども耳底に残る悲鳴はひどく痛ましいもので、申し訳なさが今になって込み上げてきていた。
「知らなかったとはいえ、ぶつかってごめん。痛かったよね」
「お兄さん、私の病気、どんなのか知ってるの?」
「うん、少しだけ。それも僕と一緒で、治すための薬がないものだよね」
夕風に遊ばれた髪を押さえてから、しゃがんでいた僕はゆっくりと膝を伸ばした。表皮を撫でる冷気に、夜が近付いているのを感じ、鞄を探して公園内を回視する。革製の鞄は砂場の傍に落ちていた。暴行を受けている間に落としたのだろう。歩み寄って拾い上げ、帰ろうとしたら、少女の赤い眼に射抜かれる。
まだ僕に用があるのか、幼い眼差しは僕を捉えたまま逃がしてはくれない。向けられているのは好奇でも興味でもなく、僕にとっては見慣れない顔気色。いや、鏡越しにならば何度も見たことがある。それは、大人に助けを求める子供の顔だ。
僕は少女の開口を待った。緘黙の合間で木々がさざめき、夕烏が鳴いていた。言葉を探す彼女の角膜は濡れていく。水溜まりのように潤んだ虹彩の、赤い水面に
「私、お兄さんみたいに、痛くないようになりたい。お兄さんと一緒にいたらなれる?」
問いかけに、一花のあいだ口を噤んだ。彼女の病は、詳細も療法もなにも分かっていない類の病気だ。仮に原因が精神面にあるのなら、僕が友達になることで改善されるかもしれないが、痛覚と精神に関係性はないように思える。かといって、大人に縋りつく子供を、助けを求める見えない手を、突き放すことは出来なかった。
不安げな少女が、幼い頃の僕と重なってしまったから。
両膝に手を突いて腰を屈め、少女に笑いかける。怯えさせないように、柔らかな目見を形作った。
「僕と一緒にいて、治るかはわからないけど……僕も貴方の病気について調べてみようか?」
「調べられるの?」
「たぶん。僕、大学で薬のことを学んでるんだ。先生に訊いてみるね」
少女の長い睫毛がまたたいて、人形のような花顔が斜めに角度を変えていく。不思議そうに僕を映すものだから、何かおかしなことを言っただろうか、と、僕も疑問符を漏らしていた。小さな唇が控えめに隙間を生み、よく通る声柄を転がした。
「お兄さん、なまえ、なんていうの?」
僕は、息を詰まらせた。簡単な問いかけに苦り笑う。こうして純粋な目を向けてくれている彼女も、きっと僕の名前を聞いたら顔を歪ませるのだろう。
これまでに何度も、嘲笑われ、憐れまれ、困り顔を向けられてきた名前。他人に付けられた蔑称だったならまだ良かった。
「僕は、ライヒェ。ライヒェ・カレンベルク。貴方は?」
それは、死体という意味を持つ単語で、少女もそのことに気付いたのか、ぱちくりと瞠目していた。けれど物知らぬ幼子みたいに粋然と、彼女はかわらかに笑った。
「クランクハイトって呼んで」
風声へ溶けた片笑みに戸惑う。紡がれた科白を反芻する。凝然と立ち尽くす僕と、
唇の裏で彼女の名をささめいて、それから確かめるべく声帯を震わせた。
「貴方は……クランクハイトって名前なの?」
「ううん。悪口みたいなもの。みんな私のことをそう呼ぶの。
濃藍を広げ始めた空が、淡い月明を滲ませる。少女の白髪混じりの金髪がふわりと揺れて煌めいた。風で舞い上がった金糸が重力につられてぱらぱらと落ちていき、夜色の中で細い線状に閃くものだから、どことなく流星のように見えた。
告げた名がただの悪口だと、朗らかに明かした彼女に対して、僕は不興げに目を細めていく。だが、彼女が僕を気遣って蔑称を名乗ったのかもしれないと気付き、眉根に刻んだ皺を緩めていった。
「貴方の、名前を教えて。悪口だと分かってる呼び名なんて、僕は呼びたくないから」
「ううん……それじゃあ、クランって呼んで」
おそらくそれは、本名ではないのだろう。クランクハイト、という呼び名を省略しただけのものかと思われる。とはいえ、名乗りたくないのかもしれないし、詰問する気にはなれなかった。だから僕は相槌を打って点頭していた。
「そっか。わかった、クラン」
「うん。私達、今日からお友達だね」
「そう……だね」
友達という響きが懐かしくて、くすぐったくて、少しだけ口元を笑み曲げる。吐息を跳ねさせた僕に、小さな手が伸ばされた。クランが持ち上げた片手は僕を目指し、だけど触れることはない。目に見えない壁を挟んで、彼女の人差し指が僕のシャツを示した。
「ライヒェ、砂だらけ。着替えよう? 私の家、すぐ近くだから来て」
「えっ、帰って着替えるからいいよ」
「いいから、来て」
大きな瞳が僕を
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