31、葛藤
「何も、なかったわ」
「嘘だ!」
ヴェロニカの腕を握る手はひどく震えていた。
「ではなぜ先ほど、暗闇の中で俺とわからなかった時、きみは陛下の名を呟いた」
「それは……」
「以前のきみなら、なぜもっと早く迎えに来なかったと責めるくらいだ。俺の提案にも迷わず乗ったはずだ」
ハロルドの言う通りだ。少しの前のヴェロニカなら夫を詰り、一刻も早く連れて帰ってと、この部屋を後にしただろう。
「ヴェロニカ。きみは陛下に……」
ハロルドの喉元がごくりと動く。言いかけて、言えない言葉を飲み込んだ。
「あなたが想像しているようなことは何も起きていないわ」
目を逸らさず、はっきり答えると、掴まれていた腕の力がほんの少し緩む。ヴェロニカは彼の手をそっと放させると、自身の首筋へと触れさせた。
「この傷痕は……」
「陛下に襲われそうになった時、自害しようした傷よ」
ハロルドが息を呑む。
「自害、だって?」
「そうよ。そうしたら陛下、青ざめた顔でやめろって叫んで、部屋を出て行ったの。その後も同じ感じで脅し続けたら、さすがに襲う気にはなれなくなったみたい」
ハロルドは唖然とした様子でヴェロニカの首筋や顔を何度も見返していたが、やがて顔をくしゃくしゃにして彼女を胸にかき抱いた。
「なんて無茶なことをするんだ!」
「……ごめんなさい。でもあなた以外の男に抱かれるくらいなら、死んでやろうと思ったの」
「だからってこんな……」
ほんとにきみは……と呆れたような声。身体を震わせる夫の背中をヴェロニカは優しく撫でた。
「私が愛しているのはあなただけに決まっているじゃない。それはあなただってよく知っているでしょう?」
「ああ。だが……」
ぎゅっと抱擁が強まった。
「きみと離れて、もう二度と会えないかもしれないと考えると、怖くてたまらなかった……。眠ろうとしても、今この瞬間きみが陛下に抱かれているかと思うと、頭がどうにかなりそうだった。陛下のことが憎くてたまらなかった……」
「ハロルド……」
ああ、彼も同じだったのだ。ヴェロニカがハロルドとカトリーナの関係に悩み、眠れぬ夜を過ごしていたように、彼も苦しんでいた。
「……ハロルド。私も同じよ。陛下がカトリーナ様と交換するだなんておっしゃったから……もう私のことなんか忘れてしまって、カトリーナ様と暮らし始めてしまったかもしれないと――」
「そんなことするはずがないだろう!」
「ええ、そうよね。わかっているわ。でもずっとこんな所に閉じ込められていて、助けも来なかったから……つい悪い方ばかりに考えてしまったの」
ごめんなさい、とヴェロニカはハロルドにしがみついた。
「いや、いいんだ。きみがこうして無事だったなら、もうそれだけで……」
「うん。私も……」
カトリーナのことをもう責める気にはなれなかった。詰りたい気持ちも、こうして彼が危険を冒してまで迎えに来てくれたことで、ひどくどうでもいい、ちっぽけな感情に思えたのだ。
過去は過去。大切なのは今ハロルドが誰を選んで、一緒に未来を生きようとしていることじゃないか。
「ヴェロニカ。もう帰ろう。きみを一人ここに置き去りにするなんて、やっぱり俺にはできない」
な? と懇願するように言われた。
「……カトリーナ様は、今どこにいるの?」
なぜそんなことを、というように夫は怪訝そうに眉を寄せた。
「彼女は実家である公爵家にいる。宰相閣下が何度か王宮へ戻るよう説得を試みたそうだが……陛下のもとへ帰るつもりはないらしい」
「そう……」
無理もない。残される王太子殿下を思い、ヴェロニカは胸を痛めた。こんなことを引き起こしたジュリアンもまた、今はひどく憐れに思えた。
(ハロルドのもとで暮らしているというのも、私を動揺させるための嘘だったんだわ……)
「……今ここで私が帰ったら、陛下がどのような行動をとるかわからない。無関係な人を巻き込むのが怖い。大切な人を傷つけられるのが怖い。……取り返しのつかないことを重ねてしまいそうで、今度こそ何もかも失ってしまいそうで……やっぱり正しくないと思う」
ヴェロニカは無意識にジュリアンのことを考えていた。自分の選択で彼が追いつめられることを恐れていた。
「だから私は残る。あの人を信じたい。私を帰すよう説得してみせる。今の彼なら――」
「ヴェロニカ」
ハロルドがゆっくりとヴェロニカを押し倒した。彼も寝台に沈み込む。指を絡ませ、鼻先が触れるほど顔を近づけられた。
「ハロルド?」
「一緒に、死のうか」
「え?」
ヴェロニカは耳を疑った。今彼は何と言った?
「死ぬって……」
「小説でよくあるだろう? 生きている世界で引き裂かれるなら、死後の世界で一緒になろうってやつだ」
「なに、言っているの。冗談はよして」
「冗談じゃない。きみだって、死のうとしたんだろう?」
「それは……」
「このままきみをここに残していくくらいなら……陛下に奪われるくらいなら、天国だろうと地獄だろうと、とにかく手の届かない場所へ俺がきみを連れていく」
そうすればきみは俺だけのものだ。
ヴェロニカは混乱していた。今までハロルドはこんな言葉を――過激とも言える執着心を露わにしたことがなかった。いつだって彼は冷静で、ヴェロニカの愛を受けとめる側だったから。
なのに今の姿は、まるで自分自身を見ているようだった。
(それだけ、不安にさせてしまったんだわ……)
ヴェロニカが思うよりずっと、ハロルドは追いつめられていたのかもしれない。こんなことを考えてしまうくらいに……。
「ヴェロニカ。きみは俺を愛しているんだろう?」
「……ええ。愛しているわ」
「なら……」
彼の大きく、節くれだった掌がヴェロニカの細い首に回される。殺そうとしているのに、撫でるような優しい手つきだった。
(このまま、ハロルドに殺される……)
異常な状態なのにヴェロニカはなぜか恐怖を抱いてなかった。ハロルドは自分を愛している。誰にも渡したくないと思っている。カトリーナと駆け落ちすることはしなかったのに、自分とは死ぬ道を選んでくれた。
ヴェロニカは初めて、胸が満たされた気がした。夫の愛を感じることができた。
(私はこの人になら殺されてもいい……)
そう思って身を委ねようとした瞬間――
「安心してくれ。きみが死んだら、俺もすぐに追いかける」
ハロルドの囁くような言葉にヴェロニカは彼の手から逃れるようもがき、嫌だと口にしていた。彼の身体を逆に押し倒し、上から押さえつけていた。
「ヴェロニカ、何を――」
「私が死んでも、あなたには生きていてほしい」
突然押し倒され、やっぱり死にたくないと拒絶されたハロルドは呆気にとられていた。ヴェロニカも自分の口から出た言葉に内心驚いていた。
(私、ハロルドの幸せを願えるんだ……)
他の女に奪われるくらいなら、一緒に死んでやる。今ハロルドが言ったように自分も彼と同じ考えだとずっと思っていた。
でも、実際に彼の口から後を追うと聞かされ、とっさにだめだと叫ぶ自分がいた。嫌だと拒絶する自分がいた。
たとえ自分がこの世から去るとしても――ハロルドには生きてほしい。幸せになってほしい。
「あなたが好きだから。愛しているから」
だから一緒には死ねない。
「ヴェロニカ……」
「それに、エルドレッドたちを置いてはいけないわ……」
一瞬でもあの子たちを置き去りにする道を選んだ自分は親失格だ。
「私は絶対にあなた以外のものにならない。最後まで抵抗する。それでも誰かのものにさせられる時は……その時は潔く死を選ぶわ」
それまで絶対に諦めない。
「……きみは本当に、たくましいな」
「そうよ。だからあなたも、私を信じて」
「大人しく帰れと?」
「ええ」
「きみを、おいて」
「必ず帰るわ」
ハロルドは起き上がってヴェロニカを抱きしめた。何かを葛藤するように黙り込んで時間が流れる。
「……もう、だいぶ待ったんだ。これ以上待つことはできない」
「わかった」
ハロルドが提案した期限に、ヴェロニカは了承した。戻って来なければ、その時は今度こそどんな手を使ってでも――たとえ自身の主君を殺す結末になったとしても妻を取り戻すという彼の言葉に。
「ハロルド。もし私に何かあったら、あなたが子どもたちを守って。誰かと再婚しても、きちんと自立できるまでは、そばにいてあげて。ちゃんと愛してあげて」
「……そんなこと考える必要はない」
「もしもの時よ」
わざとお道化たように言っても、ハロルドは笑わなかった。暗い顔をしてヴェロニカを見つめる目は激しい感情を必死に押し留め、今にも泣きそうに見えた。
「ヴェロニカ。約束してくれ。何があっても、絶対に死なないと。生きて俺のもとへ帰って来ると」
約束できないのならば連れて帰る、と言われてヴェロニカは迷った末、頷いた。
「わかったわ」
「ヴェロニカ……」
夫がヴェロニカを引き寄せ、口づけをした。何度も、何度も。貪るように。今この瞬間愛し合っているのは自分たちだと跡を残すように。
そうしてまだ暗いうちに、彼は一人部屋を出て行った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます