ハロルド 忘れ得ぬ人
「ハロルド。正式に私の護衛を務めてくれないか」
結婚してジュリアンは少し変わった。温和な雰囲気がどこか人を寄せ付けない冷たいものに変わり、怜悧な刃物のように鋭い言葉を臣下に投げかけるようになった。
隣国からサンドラを二人目の妃として迎え入れ、カトリーナとの板挟みで苦しんでいるのかもしれない。舅であるクレッセン公爵からも、娘を一番に、という遠回しな小言をもらっているようだ。
「おかしな話だろう。隣国との婚姻を許したのはフィリベールだというのに」
「宰相閣下も親として複雑な心境がおありなのでしょう」
「やつが欲しているのは、私とカトリーナの間に生まれてくる子どもだろう。私のように、扱いやすい性格に仕込むつもりだ」
「そんなことはありません」
私欲がないとは言えないが、クレッセン公爵はジュリアンをもう一人の息子のように気にかけてきた。少なくともハロルドはそう思いたかった。
「そんなに子が欲しいなら、いっそ親のいない子どもでも拾ってきて私の子だと言ってやろうかと思うことがある」
「陛下」
冗談だ、とジュリアンはばつの悪そうな顔をして謝った。そうすると以前までの彼を思い出させ、出来の悪い弟を見守るような気持ちになる。
「子どもは可愛いらしいものですよ。案外宰相閣下も変わるかもしれません」
「そなたのところは、もう生まれたのか」
「いいえ、まだ。今年の冬頃に生まれる予定です」
赤子のためにせっせと肌着を縫っていたヴェロニカを思い出し、ハロルドは微笑んだ。
「そうか。先越されたな」
「こればかりは授かりものですから」
「そうだな……」
ひどく憂鬱そうな顔で相槌を打つ主君に、ハロルドは不安を拭いきれなかった。
(陛下も父親となったら、よい方向に変わるといいのだが……)
しかしハロルドの期待は裏切られることになる。ジュリアンの女遊びは収まるどころか、ますますひどくなったのだ。
そしてさらに、サンドラもカトリーナにもなかなか子ができないことを臣下に指摘され、ならば他の妻を娶ると言い放った。
選ばれたのは従姉妹にあたる娘。これで三人目の妻であった。
クレッセン公爵は当然良い顔をしなかったが、他の貴族たちは意外にも好意的であった。サンドラを娶ったように、我が国の王族の血も守られるべきだという意見もあったからだ。
(しかしそれにしては急な話だ)
子どもができないと言っても、まだ結婚して一年も経っていない。
「あまり陛下を追いつめるのはいかがなものかと思います」
ハロルドが公爵に意見すれば、彼はわかっているというように苦い顔をした。
「私とてあまり追いつめる真似はしたくない。しかしこの国に今王族である男児は陛下だけなのだ。病でいつ命を落とすかもわからぬ。世継ぎを早くと望むのも、やむを得ない話だ」
ジュリアンの身体が弱かったのは幼い頃の話だ。身体を鍛えた今では、めったに風邪をひかれない。もう少し待ってやるのが、今の我々にできることではないか。
ハロルドはそう訴えたが、公爵は耳を傾けなかった。
三人目の妃も、ジュリアンの子を宿すことはなかった。
そもそもジュリアンは頻繁に足を運んでいる様子はなく、最近では王宮の侍女や位の低い女を相手にしている始末だ。そのことを諫めれば、後宮を作り、女をとっかえひっかえ抱くようになったのだから、臣下たちはもはやその中の誰でもいいから孕ませてほしいと思うようになっていた。
(誰でもいいなど……)
妃である彼女たちの立場はどうなるのだろうか。カトリーナが不憫でならなかった。
「――お帰りなさい、あなた」
「ああ。ただいま」
久しぶりに我が家へ帰って来ると、ヴェロニカが真っ先に出迎えてくれた。
「エルドレッドは?」
「もう寝てしまったわ」
「そうか」
寝顔だけ見るのは寂しかった。もっと時間を作って相手をしてやりたいが、なかなかそうもいかず、家のことも妻に任せきりだ。申し訳なくて謝ると、彼女は何言ってるのよと笑った。
「それが私の仕事だもの。謝ることなんてないわよ」
「しかし……」
「約束したじゃない。あなたが帰って来るのを待っているって」
待っていたわ、とヴェロニカが甘えるように身を寄せた。
母となった彼女だが、ハロルドの前では初めて会った時のような少女に戻るのだから落ち着かぬ気持ちになった。
しっとりとした肌や子を産んで大きくなった乳房、すらりと伸びた手足は間違いなく大人の女性である証拠なのに、自分を見つめる目は何も変わらない。
「何を考えているの」
「きみのこと」
「ほんとう?」
疑う目つきでじっと見てくるので、安心させるように髪を撫でた。癖のない艶やかな黒髪からは香油の甘い香りがする。ハロルドはこの匂いが好きだった。
「お仕事、大変なのね」
「ああ。だから他の女性と会っている暇なんてないから安心してくれ」
うっ、というように図星を指された表情。彼女は思っていることを何でも素直に出すので、わかりやすくて可愛いと思う。
「……あなたのこと、信用していないわけじゃないわ」
「ああ。わかっている」
ヴェロニカが心配するのもわかる。近頃のジュリアンは臣下に女遊びを強要する時がある。茶会の席でこうした噂を耳にする彼女が平静でいられるはずがない。自分の夫もそういったことに巻き込まれていないか、不安で仕方がないのだろう。
だから嫉妬ぐらいいくらでも受け止めてやるつもりでいた。
「そういえば、今度王宮で舞踏会が開かれるのよね?」
「ああ。……きみは行きたいか?」
「あなたは当日、どうなの?」
「陛下の護衛やら何やらで、裏方に徹するだろうな。きみが参加するなら、俺も予定を合わせるが」
そこまでして出席したくない、とヴェロニカは気乗りではない様子で答え、ならば今回も欠席ということになった。
「悪く思われないかしら」
「エルドレッドだってまだ小さいんだ。上手く言い訳できるさ」
ジュリアンのそばに仕えるようになって、ハロルドは王宮が決して華やかな場所だけでないことを知った。美しく着飾っている貴族たちの醜く、浅ましい一面を嫌というほど見せられ、それに引きずり込まれる人間も大勢見てきた。
そんな場所にヴェロニカを連れて行きたくはなかった。何も知らず、自分が帰ってきた時に笑って迎えてほしい。そういう身勝手な願望が、妻に対してはあった。
「ハロルド。ご婦人方と踊ったりしないでよ?」
「ああ。可愛らしい魔女の嫉妬が怖いと言えば、みんな見逃してくれる」
それでもヴェロニカは不安そうだった。何か言いたげな表情で言えずにいる。
それをハロルドは気づかない振りをした。
嫉妬深いヴェロニカは感づいているのかもしれない。ハロルドの心に未だ別の誰かの存在があることを。
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