8、カトリーナのお願い

 次の日、ヴェロニカは空がまだ暗いうちに目を覚ました。夫はすでに起きて身支度をしていた。


「もう起きたのか」

「ええ。……あなた、いつもこんなに早いの?」

「いいや。上司に呼ばれた。仕事で少し問題が起きたらしい」


 寝台から降りて着がえる準備を手伝う。


「終わったらすぐにまた戻ってくる」

「大丈夫よ。朝食が済んだら、すぐに帰らせてもらうわ」


 本当は今すぐにでも帰りたかったが、挨拶もしないで帰ることはさすがに憚られる。


「あなたはお仕事に専念して」

「いや、心配だ」

「なによ。そんなに私が信用できない?」


 そうじゃない、とハロルドはヴェロニカの肩に手を置く。緊張を孕んだ真面目な顔つきだった。


「ここは多くの人間の陰謀が渦巻いている。大丈夫だと思っていても裏をかかれ、何が起こるかわからない。だから、なるべく一人でいさせたくないんだ」


 噛んで言い聞かせるような言い方に、ハロルドの心配が伝わってくる。妻を気遣う言葉。それだけで、ヴェロニカは嬉しいと思った。と同時に不安も押し寄せてくる。


「わかった。十分気をつけるわ。でも、そんな大げさにとらえなくても大丈夫よ」

「……そうだな。俺の心配しすぎなだけかもしれない」

「そうよ」


 ヴェロニカが笑えば、ようやくハロルドも笑みを浮かべる。


「じゃあ、行ってくるよ」

「ええ。いってらっしゃい」


 彼は軽く頬に口づけして出て行った。また後でと言い残して。


(ハロルドの考えすぎだわ……)


 けれどその日、国王陛下とカトリーナが朝食として起きだした時刻は正午過ぎであり、急ぎの用事が入ったと言われて会うことは叶わず、ヴェロニカの帰宅も許されなかった。そしてハロルドも、ヴェロニカのもとへ戻って来ることはなかった。


 一日、また王宮に泊まることになった。こうなってはさすがに少しおかしいとヴェロニカも思い始める。


「お願い。家へ帰して」

「申し訳ありません。国王陛下のご命令なのです」


 何度ヴェロニカが頼んでも、侍女はそう繰り返した。


「じゃあせめて夫を連れてきて!」

「セヴェランス卿は勤務中です。終わるまでお待ちください」


 話にならないとヴェロニカは立ち上がった。こうなったら直接ハロルドのもとまで行こう。勝手に部屋を出て行こうとするヴェロニカに、侍女が焦って呼び止める。そこへカトリーナが現れた。


「ヴェロニカ。不自由をおかけして、本当にごめんなさい」

「カトリーナ様」


 腰を折って、彼女はヴェロニカに非礼を詫びた。


「陛下は今、どうしても外せない用事がおありなのです。ハロルドも同じですわ。事情は詳しく説明できませんが、今はどうか城から出ないでほしいのです」

「……そんなこと、私は伺っておりません」


 どうしてカトリーナの口から理由を聞かなければならない。ハロルドがするべきだろう。彼はヴェロニカの妻なのだから。


「ヴェロニカ。どうか今は辛抱してください」


 お願いします、とカトリーナはヴェロニカの手を取り、じっと見上げた。可憐な王妃に見つめられ、ヴェロニカも強く振り払うことが躊躇われる。


「……わかりました」

「ありがとう」


 カトリーナはほっと安堵の表情を浮かべ、お茶でもしようなどと呑気に言い出す。そんなこととてもする気にはなれなかったけれど、他にすることもなく、待つ時間も苛立ちを募らせるだけなので、ヴェロニカは頷くしかなかった。


「こちらは陛下がよく好んで飲む北方の茶葉なんです」


 カトリーナは楽しげに話をしてくれるが、ヴェロニカは置いてきた子どもたちのばかり考えてしまい、上の空で相槌を打っていた。


「……ごめんなさいね、ヴェロニカ」


 悲しげに俯くカトリーナの横顔に、ヴェロニカは罪悪感を刺激される。別にヴェロニカが留まる原因となったのは、彼女のせいではない。


「カトリーナ様が謝る必要はありませんわ」

「……わたくしが陛下に頼んだんです」

「えっ?」


 顔を上げ、潤んだような瞳でカトリーナはヴェロニカを見つめた。


「わたくし、お友達が欲しかったんですの」

「お友達?」

「ええ。気の許せる、いろんな話をできるお友達が」


 王妃の話は突然であった。ヴェロニカはどうして、と困惑した顔で尋ねる。


「私ではなくとも……あなたには茶会に招くだけのご友人がたくさんいらっしゃるでしょう?」

「ええ。でもその方たちは心からわたくしの話を聞きたいと思っている方々ではありません。みなさん何かしらの情報を得ようと思って、参加していますのよ」


 疲れた表情でカトリーナは呟く。ヴェロニカは大変なのねと同情しながらも、それが自分たちの役目でもあろうと思った。


 夫と日頃親しくしている男性の妻と話して、親睦を深める。情報を集めて、夫の有利になるよう口添えしたり……たいしたことはできなくても、結局はそれも妻の役目なのだとヴェロニカは教えられた。


 カトリーナだってよくわかっているはずだろうに。


「どうして、って言いたげな顔ね」

「いえ、そんな」

「ふふ。あなたは思っていることが素直に顔に出てしまうようね。隠そうとしても、わかってしまうわ」


 夫と同じことを言う。


「ええ、わたくしもわかっています。けれどね、時々どうしようもなく虚しくなってしまって……一人くらい、心から話せるお友達が欲しいと……そう思ってしまったんです」

「……それが私だと?」

「ええ」

「どうして私なんでしょうか」


 カトリーナと会って話したことは過去に一度もない。親同士が知り合いだったわけでもない。


(いや、繋がりというならば……)


「あなたがハロルドの奥方だから」


 どきりとする。


「それってどういう……」

「わたくしにも、陛下の考えていることはよくわかりません。ただ……ハロルドの奥方なら、きっと彼と同じように真面目で優しい方だと陛下は思われたんじゃないでしょうか」


 えっ、とヴェロニカは思った。


「陛下が、ってことは、ジュリアン様が私をカトリーナ様のご友人に選ばれたということですか」

「そうなの。わたくしも驚きましたわ。まさかハロルドの奥方をお連れするなんて……」


 カトリーナは嘘をついている様子はなかった。ここへ来た経緯を思い返せば、すべて国王の強引な行動が招いたと考える方が自然な気がした。


「ごめんなさいね、ヴェロニカ。陛下がわたくしに、何か欲しいものや叶えてほしいことはないのかと何度もお尋ねになられるから……ついそんなことを言ってしまったの……」


 ごめんなさい、とカトリーナは繰り返した。その様子は本当に打ちひしがれており、悪いことは何もしていないというのにヴェロニカはひどく落ち着かなくなる。


「事情はわかりましたわ。ですからもう謝らないでください」

「でも……」

「私が王妃殿下のご友人に相応しいかはわかりませんが……お話に付き合うくらいのことはできますわ」

「わたくしと、お友達になってくれますの?」

「はい」


 ヴェロニカの答えに、カトリーナは微笑んだ。美しく、可憐な笑みであった。ジュリアンが彼女を寵愛し、何でも願いを叶えてやるといった気持ちがわかる笑みであった。


「また、ここへ来てくださる?」


 嬉しいのに、不安に揺れる瞳。


「それは……ええ、もちろんです」

「嬉しい……絶対よ、ヴェロニカ」

「はい」

「約束よ、ヴェロニカ」


 カトリーナは隣に座るヴェロニカの手をぎゅっと握った。ヴェロニカの手よりとても小さいのに、なぜか簡単には振り解けない力強さを感じるのだった。


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