6、見知らぬ世界

「ヴェロニカ」


 夕食の時間にまた会うことを約束し、謁見の間からカトリーナの部屋へ行こうとした時、後を追いかけるようにしてハロルドが声をかけてきた。カトリーナが気を遣って距離を置く。


「大丈夫か」

「ええ、大丈夫よ。心配しないで」


 いつも冷静な夫が珍しく不安を露わにしていた。そのせいかヴェロニカの心はかえって落ち着いた。しっかりしなければ、という気持ちにさせられた。


「今までずっと断り続けていたんですもの。一度くらい席を共にした方がいいわ」

「しかし……」

「それよりあなた、まだお仕事の途中なのでしょう? 私のことはいいから、早く戻らないと他の方が困るのではなくて?」


 仕事を疎かにするのは彼らしくない。ヴェロニカも怠慢は嫌いであった。


「今はきみの方が心配だ」

「ハロルド。そう心配なさらないで。奥方のそばには、わたくしがついていますわ」


 ヴェロニカたちのやり取りを黙って聞いていたカトリーナがそっと声をかけてきた。夫の視線が妻から王妃へと向けられる。


「だから安心して戻りなさい」

「……わかりました」


 妻の言葉ではなく、彼女の言葉に納得させられた夫をヴェロニカは軽く睨みつけた。気づいた夫が軽く笑う。


「そんな顔をしていては、ここでは浮いてしまうぞ」

「わかっているわよ」


 早く戻れば、と冷たく答える。彼はまだ何か言いたげであったが、結局「また後で」と言い残して持ち場に戻って行った。


「仲がよろしいのですね」


 恨めしげに背中を見るヴェロニカに、カトリーナが朗らかに言った。振り返れば、微笑ましそうに自分を見ている。つい場所を忘れてしまっていつものように接してしまった。


 ヴェロニカは自分の振る舞いを恥じて「そんなことありません」といささか強い口調で否定した。


「あの人、いつも私のこと子ども扱いするんです」

「……でも、羨ましいわ」


 消え入りそうな小さな声。自分でもつい口にしてしまったのか、ハッとした様子でカトリーナは「わたくしたちも行きましょうか」と笑顔を取り繕った。


 一瞬の出来事だったので、ヴェロニカが聞き返す暇もなかった。


     ◇


「ヴェロニカ。こちらのお菓子も食べてみて。とても美味しいのよ」

「……本当ですね」

「でしょう?」


 カトリーナは緊張しているヴェロニカを気遣うように、または本来の話し方なのか、おっとりとした調子で話しかけてくれたので、ヴェロニカの緊張もしだいに解れていった。けれどやはり残してきた子どもたちのことが気にかかり、そわそわしてしまう。そのことを見抜いたカトリーナがごめんなさい、と謝った。


「陛下は周囲が反対すると強引に事を進めてしまうような、頑なな所がおありだから、わたくしとハロルドの言葉は余計だったかもしれません」

「いいえ、お気になさらないでください。私もずっと断り続けていたこと、心苦しく思っていましたから」


 カトリーナがあまりにも申し訳なさそうに謝るので、ヴェロニカは恐縮してしまう。王宮の夫人というのはみなこんな感じなのだろうか。


「それに家のことで忙しかったので、休める良い機会ですわ」

「子どもがいるのよね? おいくつ?」

「五歳と三歳です」

「まぁ、そうなの? 下の子はわたくしの坊やと同じ年齢ね」


 現在王位継承権に最も近いのが、カトリーナが産んだルイスであった。


 たくさんの女性を抱いたジュリアンであるが、子どもは彼女と、離宮に移ったと言われるサンドラの娘、アンドレア王女のみ。ルイスが生まれた後は後宮からも足が遠のき、今ではカトリーナのみを愛しているので、次の子を産むのも彼女だろうと言われている。


『――陛下が寝起きする宮殿には、カトリーナ様だけがいる』


 夫の言葉をなぜか思い出し、ヴェロニカは唇を軽く噛んだ。


「ハロルドには、本当に感謝しておりますの」


 精巧な模様が入ったティーカップを手に取り、カトリーナはしみじみと言った。


「陛下が不安定な時、いつもそばについて支えてくれて。間違いだと思った時は、恐れず意見を申し上げて……きっと陛下も、ハロルドのことを兄のような、父のような存在として受け止めているはずですわ」


 夫が頼りにされている話を聞くのは誇らしかった。けれど自分が知らないことをカトリーナの口から聞くのは、胸がざわついた。


「カトリーナ様は」

「はい」

「……ハロルドと、面識がありますの?」


 尋ねた声はみっともなく震えてしまった。


 ちっともいつもの自分が出せなかった。カトリーナも瞬きを忙しなく繰り返してヴェロニカを見つめている。弱々しく眉を下げて、今にも泣いてしまいそうな顔を晒す自分に困惑しているのだろう。


「ヴェロニカ」

「はい」

「……確かに、ハロルドとは面識がありますわ」

「いつからですの」

「彼が騎士見習いとして王宮に通っていた頃、わたくしは父の紹介で何度か顔を見合わせたんです」


 彼女と夫がずっと幼い頃から知り合いであったことを、ヴェロニカはいま初めて知った。ハロルドも、一言もそんなこと教えてくれなかった。


「……それで?」

「それだけですわ」

「本当ですか」


 ヴェロニカはじっとカトリーナの目を見つめた。疑わしい所がないか探る目つきだったはずなのに、カトリーナは逸らすこともなく本当ですと静かに告げた。


「わたくしが十六の時に陛下と婚約を結びました。陛下はその時まだ十四でしたけれど……一刻も早く世継ぎを、ということで二年後に結婚しましたわ」


(私と同じ歳に陛下は結婚したのね……)


「でも先にお子を身ごもったのは、隣国から嫁いできたサンドラ様でした」


 もともと娶るのはカトリーナ一人だけであったらしい。けれど他国との結びつきを強めるため――尊い王族同士の血を絶やさぬため、比較的年齢の近かったジュリアンが選ばれたのだった。サンドラは彼より六歳上の女性。当時の彼は十七歳であった。


 早く子を、早く世継ぎを、と無言の重圧が常にジュリアンにはあった。それは産む側の王妃とはまた別の苦しみだろう。


「お生まれになった王女殿下はいずれ向こうの国へ嫁ぐことになるでしょう。男ではなくて逆によかったと、サンドラ様は零しておられましたわ」


 カトリーナたちの話はヴェロニカの想像をはるかに越えていた。夫を共有しつつ、生まれてくる子が一生を左右する。今目の前で語っているカトリーナも、話の中のサンドラも、すでに人生を達観している雰囲気があった。


(ここはそういう世界なんだわ……)


 自分は恵まれている。好きな人だけを愛することができて、彼の子を産むことができたのだから……。


「ごめんなさい。こんな話をしてしまって」

「いいえ、構いません」

「……あなたは」


 カトリーナは何か言いかけたが、何でもないわとおっとりと微笑んだ。


「最初の話に戻りますけれど、ハロルドのことはただ知っているというだけ……あなたが心配することは何もありませんから、どうか心配なさらないで」


 どこか寂しげな笑みでカトリーナは言った。


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