14、駆け落ち
自分は処刑されるかもしれない。
冷たい地下室の牢に閉じ込められ、食事もろくに与えられず衰弱死していく運命か……。
覚悟していたヴェロニカだが、意外にも首の治療を施され、これまでと同じように客人の扱いを受けた。
ただ部屋は家具がほとんど置かれていない簡素な場所へと替えられた。それでも一人で過ごすには十分すぎる広さであることに変わりはなかったが。
他に変わったことと言えば、部屋にはいつも一人以上の見張りがつき、刃物や傷つける類のものは一切目に触れさせない、室内に持ち込まれないことだろう。鍵ももちろんかけられた。
「窓には鉄格子がはめられておりますので」
夜の支度をした時と同じ侍女がそう釘を刺した。飛び降りて逃げることも――死ぬことも叶わないから騒ぎを起こすな、という忠告である。
(諦めるものですか)
ジュリアンが会いに来たらまた脅してやる。ヴェロニカはそう思って今か今かと息を潜めて彼の訪れを待ったが、あの夜以来彼は会いに来ない。
(私が怖くなったのかしら)
それならそれで早く解放しろと怒りが湧いてくる。なぜ子どもたちに会えない。夫と引き離す。
(いっそのこと逃げ出そうかしら……)
鍵をかける瞬間、侍女の目を掻い潜って部屋を抜け出す。一度くらいは可能かもしれない。
だがそれからどうする。ヴェロニカは王宮の構造をほぼ知らない。やみくもに逃げ出してもすぐに捕えられる。そして今度こそ地下牢に放り込まれるかもしれない。
(せめてハロルドと合流できれば……)
彼のことだからきっとヴェロニカを取り返そうと頭を働かせているはずだ。子どもたちにも頼りになる乳母や使用人たちがついている。
(だからきっと、大丈夫)
それでもヴェロニカは不安を拭いきれなかった。じわじわと足元から不安が絡みついてきて全身を呑み込まれてしまいそうな恐怖があった。
◇
それから数日が経過した。
朝食を済ませたヴェロニカのもとへジュリアンはふらりと足を運んだ。ヴェロニカにとっては突然の訪問だったので、少しばかり焦って緊張もしたが、ようやく来たかという怒りが勝って堂々と迎えた。
「ようこそいらっしゃいました、陛下」
ジュリアンはヴェロニカの首に巻かれた白い包帯に目をやりながら言った。
「傷の具合はもういいのか」
「あら、心配してくださいますの?」
おまえのせいで怪我したのに、というヴェロニカの嫌味が聞こえたのだろう。ジュリアンは苦々しい表情を浮かべた。
「そなたは魔女ではなく、女騎士……いや、嫉妬深い女神のようだ」
神々の愛は人間よりもずっと深く、それゆえ一度間違いを犯せば、死よりも恐ろしい報復が待っている。神話の話を持ち出すあたり、やはり高貴なお人なのだなと思った。
「まぁ! 女神のように美しいだなんて照れてしまいますわ」
「その図太い神経は称賛に値するな」
ジュリアンはじろじろとヴェロニカを見ながら離れた場所に腰を下ろす。彼の方が自分から距離をとろうとして、彼女はおかしく思う。
「ね、陛下。私のこと、もう嫌気が差したでしょう? こんな面倒な女、早く捨ててくださいな」
「私を退けたことで勝ったつもりか? 思い上がるなよ。おまえのような人間、どうとでもできる」
おまえ、という見下した呼び名になっている。怒りを露わにする王は確かに迫力があったが、ヴェロニカの目にはどこか子どもの癇癪のように映った。
「そうですか。では私も教えて差し上げます。人間、死のうと思えばどんな方法でも死ねますわ」
「またナイフでも取り出して私を脅すのか? だがもうそんなものはないはずだ」
ヴェロニカは微笑む。
「ええ、あなたの優秀な臣下たちが食事の時もスプーンしか差し出してくれず、食べ終わった後も何か隠していないかその都度私の身体を確かめますもの。だから今、私は何も持っておりませんわ」
お調べになりますか、というように両手を広げれば、やめろというようにジュリアンが眉根を寄せる。
「ふん。ならばやはり無理ではないか」
「でもね、陛下。別に凶器がなくったって、あの世へ逝くことはできるわ。例えば、私が壁に思い切り頭を打ちつけるとか。何度もぶつければ、さすがに頭の中がびっくりして、美しい天使さまが迎えに来てくれるとは思いませんか? 陛下はどう思う……あら、そんな顔をしてどうなされたんですか」
まるで気でも狂ったかと言いたげな目でジュリアンはヴェロニカを見つめた。さすがに彼もひいたらしい。
「そこまでして私に抱かれたくないのか」
「当たり前です」
ジュリアンの言葉にヴェロニカはスッと笑みを消した。
「あなたがやっていることはただの強姦だわ。平民ならば死刑よ」
ずけずけ物を言うヴェロニカに、護衛として付き添っている騎士が咎めるような鋭い視線を向けてくる。ヴェロニカの言い方こそが不敬であり、死刑にあたる可能性があった。
けれど彼女は腹が立って仕方がなかったのだ。
(王様だからって何だというの?)
「ははっ、夫がいる身の女を襲った私は重罪人か」
「そうよ」
ジュリアンはきっぱりと言い切ったヴェロニカを見つめる。
「ではカトリーナは? 他に妻がいる男の子種をもらって子を産んだ。そんな女も、そなたは汚らわしいと思うのか?」
「カトリーナ様は、違うでしょう」
「なぜ」
「なぜって……カトリーナ様はそれがお役目だから」
彼女が結婚したのは家の都合だ。彼女自身の意思ではない。ジュリアンの血を引いた子どもはこの国にとって必要であり、その役目を果たすためにカトリーナが選ばれた。
「そうか。ではカトリーナが私以外の男に抱かれたらどうだ」
ジュリアン以外の男。
彼の言葉に、二人の空気が変わった。
「……それはどういう意味かしら」
「カトリーナが私ではなく、ハロルドに抱かれたらどうなるんだ」
そんなことあの人は絶対しない!
ヴェロニカは全身が沸騰したように熱く、頭の中は真っ白になった。
こんなことを尋ねるジュリアンを強く睨まなければ、とても正気を保っていられなかっただろう。
「……そうね。そうしたらやっぱり妻を裏切ったわけですから、大罪人でしょうね」
必死で冷静な声を出す。
「ふうん。だがハロルドはもうそなたの夫ではないのだから、何も問題はないのではないか」
「私は今でもあの人の妻よ。これからもずっと」
「そうか。まぁ、どちらにせよハロルドはカトリーナへの想いを遂げてしまうだろうな」
「彼はそんなことしない!」
とうとう我慢しきれず、大声で否定したヴェロニカをジュリアンが罠にかかったなというように口の端を上げた。
「ほう。なぜそんなこと言える」
「あの人は真面目で高潔な人だわ。私がいて、子どももいるのに、そんな不道徳なことするはずがないでしょう!」
「ずいぶんハロルドに対して崇高な理想を抱いているんだな。だがあいつも男だぞ? 美しい女がそばにいれば、理性を抑えきれなくなるのではないか?」
「やめて。あなたがあの人の何を知っているというの? あなたはそうかもしれないけれど、あの人は違う。あなたみたいな人と一緒にしないで!」
言ってしまってハッとする。
ジュリアンは冷え冷えとした目でヴェロニカの癇癪を眺めていた。
「あ、陛下。私……」
「私が何を知っているか、か。……確かにそうだな。私はおまえの前で振る舞うハロルドを知らない。おまえしか見ることのできないやつの姿があるんだろう」
「そ、そうです。だから――」
「ではおまえは知っているのか。私やおまえにも見せぬ、カトリーナの前でしか見せぬあいつの姿を」
『カトリーナはそなたのことをずっと愛しているのだ』
嫌だ。それ以上聞きたくない。知りたくない。
「そなたも薄々わかっていたのではないか? ハロルドの心に他の誰かが図々しくも居座っていること」
「……」
違う。彼の心には自分しかいない。
ヴェロニカは妻としてそう答えるべきだったのに、何も言えず黙り込んでしまった。
ジュリアンの指摘は、ヴェロニカがずっと思い悩んでいたことだからだ。
確実な証拠はなかった。ハロルドは結婚してからずっとヴェロニカに対して優しく、誠実な夫であった。父親になってからはますます家族を大切にし、軽率な行動はとらないよう常に自分を律していた。それは一番近くにいたヴェロニカが誰よりもわかっていた。
――けれど、だからこそ彼が時々何かを――誰かのことを考えるように物思いに耽る姿が気になった。
それは常に彼が一人の時であり、ヴェロニカや子どもたちの前では決して見せぬ姿であったが、彼を深く愛するヴェロニカはいつの頃からか気づいてしまった。
「知っているか? カトリーナとハロルドは幼い頃からの付き合いで、私のもとへ嫁ぐ以前から、ずいぶんと親しくしていたそうだ」
(ただの顔見知りだとおっしゃったのに……)
何でもない、とあんなにはっきりとヴェロニカの目を見て言ってくれたのに。本当のことを言ってくれなかったのは、隠したかったからか。
ハロルドが好きだったという気持ちを。
(でも……)
「ただの、幼い頃でしょう? そんなの、誰にだってあるわ……」
カトリーナの家は過去降嫁した王族の血も引いている大貴族だ。同じ貴族だとはいえ、ハロルドとは埋められない身分差がある。淡い初恋があっても、しだいにお互いの立場を意識して自然と消えていく想いなのではないか。
(そうよ。それくらい、別に……)
大切なのは今だ。誰を愛しているか。カトリーナはかつてはハロルドが好きだったかもしれない。でもジュリアンと結婚することになって、諦めたはずだ。
二人の間には何も――
「私との結婚が正式に決まった時、カトリーナはハロルドに自分と駆け落ちしてくれるよう頼んだそうだぞ」
『私とカトリーナ様の間に、やましい関係は一切ありませんでした』
ハロルドの声がまざまざと蘇るようだった。
(うそ、だったの……?)
ジュリアンはヴェロニカの言葉も出ない様子に満足したのか、帰って行った。また来る、と言い残して。
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