23、夜の訪問

 今日はもう遅いので話はこれまでだとジュリアンは帰って行った。


 ただ話をしただけなのに、互いにひどく疲れてしまった。グレンダに世話されるまま、ヴェロニカはジュリアンが話してくれたことを思い返す。


 ジュリアンが育った環境。カトリーナに対する執着。ルイスやサンドラ……ハロルドのこと。


「ねぇ、グレンダ」

「はい、なんでしょう」

「陛下にとってハロルドはどのような存在だったのかしら」


 ヴェロニカの突然の質問にグレンダはしばし考え込むように黙った。


「そうですね……私から見て、とても信頼しているように見えました」

「信頼……」

「はい。何か困った時があったり、王宮内で不穏な動きがあったりすると、陛下は必ずハロルド様に護衛を頼むよう命じられておりましたから」


 なるほど。それは確かに信頼している。


(だから裏切られた、か……)


「ハロルド様も、陛下のことを気にかけておられました」

「そうなの?」


 こくりとグレンダが頷く。


「宰相閣下や他の貴族の方々にも、陛下のことを考えて意見を申しておりましたから。反発もありましたが、たいていの人間は本当に主君思いの騎士だと評価しておりました」


 ハロルドは相手が悪いと思えば、物怖じせず間違いを正す性格だ。そんな実直さをジュリアンも高く買っていた。王としてではなく、ジュリアン個人として自分を見てくれている。


 孤独だったジュリアンの心を、ハロルドもまた支えていたのだ。


「ヴェロニカ様?」


 暗い顔で黙り込んだヴェロニカをグレンダが心配する。


「……ううん。何でもない。今日はもう疲れてしまったから眠るわ」

「かしこまりました」


 寝間着に着がえさせられ、大きな寝台に一人横になるとヴェロニカは何だか可笑しさが込み上げてきた。


(毎日絶対帰ってやるって思って、こんなふうにしたジュリアンのことが憎らしくてたまらなかったのに……)


 もちろん今もその気持ちは変わらない。早く帰りたい。いつか帰ることができると思っているから、今自分が置かれた状況を深く考えずに済んでいる。


(あんな話、聞かなければよかった……)


『私はカトリーナだけではない。ハロルドにも裏切られた気がしたんだ』


 今にも泣いてしまいそうな顔をしていたジュリアン。カトリーナもハロルドも、彼の手から離れようとしている。そうしたのはジュリアン本人なのに、ヴェロニカは以前のように彼を嘲ることができなかった。


     ◇


 それから数日間、ジュリアンはヴェロニカのもとへ訪れなかった。彼女も今はなんとなく彼と顔を合わせる気になれなかった。


「今日はもうお休みになられますか」

「……ええ。そうね」


 かしこまりました、とグレンダはヴェロニカの寝支度を手伝おうとする。その時扉が叩かれた。二人して顔を見合わせる。


「誰かしら」

「少々お待ちください」


 グレンダが扉をわずかに開けると、小さく声を上げた。


「陛下」

「夜分遅くにすまない。少し、彼女と話がしたい」


 グレンダが振り返ってヴェロニカを見る。


「私、もう寝ようと思っていたんですが」

「その前に少し話に付き合え」


 ヴェロニカはため息をついた。夜着に着替える前でよかった。


「本当に少しだけなら」


 どうせ自分に拒否権はないのだ。話をしてすぐに帰ってもらおう。


(もう無理矢理襲うこともしないでしょうし……)


 襲われても同じことを繰り返すだけだ。


「って、その手にしているのは何?」

「なにって、見てわかるだろう? 酒だ」

「話をするだけじゃなかったの」


 ジュリアンがテーブルに腰掛け、グレンダにグラスを用意するよう言った。部屋になかったので彼女は慌てて取りに行く。その間二人きりになり、ヴェロニカはとっさに警戒した。その様を見てジュリアンが笑う。


「安心しろ。もうそなたを抱こうとは思わん」

「信用できないわ」

「本当だ。そなたとでは男女の色事に発展する前に私の情緒や命諸々が危ぶまれる」

「私だって同じよ」


 ムッとなって言い返せば、ジュリアンはまたもや笑った。その無邪気な笑みに何だか戦意を削がれ、仕方なくヴェロニカは本題に入った。


「それで、話って?」

「うん? そうだな……」


 そこにグレンダが戻って来た。まずは飲もうとボトルを開けてなみなみと注いでいく。


「待って。私、そんなに飲めないわ」

「冗談を言うな。夕食の席で何杯も口にしていたじゃないか」

「そ、それはあなたが失礼なことばかり言うから! ……飲まないとやってられなかったのよ」


 思わず出た本音に、ジュリアンは目を丸くする。


「なんと。では本当に飲めないのか?」

「だからさっきからそう言っているじゃない……」


 ジュリアン相手に苦手を晒してしまい、ヴェロニカは居心地が悪い。


 ジュリアンはそんなヴェロニカをしげしげと見つめた後、もう一つのグラスにたくさんの氷を入れ、ほんの少しだけ酒を注いだ。それをヴェロニカの方へと差し出す。


「そなたがそんなに腹を立てていたとは、思わなかった。悪かった」

「……」

「そなたがあまりにもツンと澄ましているものだから、どうしたらその仮面を剥がしてやれるだろうかと思ったんだ」

「私にはあなたが嫌味を言っているようにしか聞こえなかったわ」


 ジュリアンは自分のことを嫌っていた。カトリーナには到底届かない貴族らしくない自分のことを下に見ていた。


「そんなことない。ハロルドの妻なのだ。噂もあったしな。一度話してみたいと思っていたのは本当だ」

「じゃあ、がっかりしたでしょう? あの人の奥方が私みたいな女で」


 ふっとジュリアンが口元を緩ます。イラッとした。


「なによ、その笑み」

「いや……今思えば、ずいぶんと猫を被っていたのだなと思って」

「何ですって?」


 それどういう意味よ、とついきつい口調で問いただす。


「そういうところだ。感情を見せぬ貴族らしい令嬢かと思いきや、私相手にも物怖じせず掴みかかってくる。恐ろしい女じゃないか」

「あなた、やっぱり私のこと馬鹿にしているでしょう」


 いいや、と否定するジュリアンはやはりどこか面白がっていた。腹が立って、ついグラスの酒を勢いよくあおった。


「おい。飲めないんじゃなかったのか」

「これだけ氷で割ったんだもの。大丈夫よ」

「そなたは本当に……」


 ジュリアンは呆れた顔をするが、やがて仕方ないというように笑って、また空のグラスに酒を注いだ。


「そなたはハロルドのこと好きか」


 何を当たり前のことを、とヴェロニカは喉が焼けるような強い酒を口にしながら目の前の男を睨みつけた。


「好きに決まっているじゃない」

「そうか。どこが好きだ」

「ぜんぶ」

「全部、とは?」

「顔も性格も、匂いも、とにかくハロルドを構成するすべてが好き」

「なんだか気持ち悪いな」


 ぼそりと呟いたジュリアンの言葉も、酒に酔い始めたヴェロニカの頭には入ってこなかった。


「ふふ……私ね、初めてあの人に会った時、まるで雷に撃たれたような衝撃が身体に走ったの。一目惚れってもっと夢見るように穏やかなものだと思っていたのに、こんなに激しいものだなんて知らなかった」


『初めまして、ハロルド・セヴェランスと申します』


 胸に手を当てて、ヴェロニカに微笑んだ姿。何度思い出しても、胸を甘く締め付ける。


「とても素敵だった。騎士なのにとても優しくって……」

「普通はそうではないのか」


 違うの、とヴェロニカは少女のように首を振った。


「私が知っている騎士は、みんな乱暴者だった。言葉遣いも、お父様や立場が上の者には丁寧だったけれど、女や目下の者に対しては馴れ馴れしくて、いつもどこか馬鹿にしたように話すのよ」


 でもハロルドは違う、とヴェロニカは力説した。


「彼は私みたいな小娘相手でも丁寧に接してくれたし、庭を散歩する時もずっと私のことを気にしながらエスコートしてくれたのよ。季節の花を話題にして、花言葉なんかも知っていらしたの」

「それが嬉しかったのか」


 すごく、と満面の笑みで頷いた。ジュリアンは驚いたようだったが、気づかず、だからねと続けた。


「絶対彼と結婚したくて、毎晩神さまにお祈りしていたの」

「そなたが神に祈ると聞くと、脅迫まがいの圧を感じるな……」

「もちろん、きちんと努力もしたわ。苦手な刺繍だって、あの人のために一生懸命習ったんですもの。お料理も……」


 わかったわかった、とジュリアンが言うが耳には届かない。


「彼が好きだっていう料理、初めて作った時に美味しいって言ってくれたのよ。私、間違えてしまったのに……。ぜんぶ、残さず食べてくれて。すごく嬉しくて、だから……」


 頭がふわふわして、口が回らない。もっと教えたいことがたくさんあるのに。何を言おうとしたのかしら? と重い瞼を必死で開けて考えようとする。


「おい。大丈夫か?」


 ジュリアンが何か言っている。ジュリアン。そう。彼のせいでヴェロニカは今ここにいる。彼のせいで――


「会いたい……」

「……」

「ハロルドに会いたい……エルドレッド、セシリア……私の可愛い子どもたちに……大好きな旦那様に……」


『ヴェロニカ』


 もうどのくらい彼の声を聴いていないだろう。エルドレッドからは約束を破って、母上の嘘つきだなんて言われてしまう。セシリアはもう母親の顔を忘れてしまったかもしれない。


「会いたい……。どうして会えないの……?」


 目の前がぼやけて、ヴェロニカは伸ばされた手を振り解く力も残っていなかった。


 涙を拭ってくれているのか、その手は優しく、くすぐったかった。自分を決して傷つけようとしない手。


 きっとハロルドだと思った。愛しい人の名を呟く。掌に頬をすり寄せて、どうしてもっと早く迎えに来てくれなかったのと責める。


「私、ずっと待っていたのよ……」

「……」

「カトリーナ様のところへ行ってしまったのではないかと、ずっと不安だったのよ……」


 彼が息を呑む。ヴェロニカはどうして驚くのだと涙を零した。


「……すまない」


 彼がそう謝った気がしたけれど、ヴェロニカは眠気に勝てず、いいのと言ってあげることができなかった。


 次に目を覚ましたら言ってあげよう。あなたが好きだから特別に許してあげる。だから今度はずっとそばにいて。私だけを愛して、と。


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