35、変わらない気持ち

 伯爵家の領地は自然豊かで、王都の噂もめったに耳に入って来ない。エルドレッドもセシリアも毎日大冒険だと言って外へ遊びに行く。


 その際、池を飛び越えようとしない、服を泥で汚さない、庭師を自分たちの遊びに付き合わせない、手入れされた花を勝手に摘まない、馬にちょっかいを出さない、日が暮れる前には必ず帰ってくるなど、行動範囲が広まったぶん、注意事項も増え、言いつけが守られなかった時はヴェロニカの説教とハロルドへ提出する反省文が書かされた。


 父親であるハロルドは息子を後継者として育てるためか、以前よりも厳しくエルドレッドに接することが増えた気がする。その分ヴェロニカの方が甘くなり、困った時には母を頼るようになった。


 もちろんいつもそうとは限らず、ヴェロニカの逆鱗に触れ、ハロルドが落ち着くよう宥める側に戻ることもあった。


「まったく、エルドレッドったら。あなたの大切な剣をこっそり持ち出して振り回すだなんて!」


 もう寝ようという時刻になっても、ヴェロニカはぷりぷりと腹を立てていた。


「まぁまぁ。男の子なら一度は剣に対して憧れを持つものだから。あんまりそう怒ってやるな」

「でも怪我したら危ないじゃない!」


 危険を危険だとも認知していないで無邪気に振る舞う息子の様子にゾッとする思いだった。泣くほど叱りつけたのは、久しぶりだったかもしれない。それでも怒りが収まらないのは安堵ゆえでもあり、もう少しエルドレッドには考えて行動してほしいという思いがあったからだ。


「ああいうところは、きみに似ているかもしれないよ」

「私に?」


 そうさ、と夫がこちらに身体を向けて微笑む。


「俺もきみが死のうとした時は呼吸が止まるかと思った」


 あの夜のことを持ち出され、ヴェロニカは急に怯んでしまう。


「それは……」

「でも嬉しくもあった」


 そう言って、ハロルドはヴェロニカに覆いかぶさった。


「自害することを選んでまで、貞操を守ろうとしたこと。俺を選んでくれたこと。本当に、嬉しかったんだ」

「あなた……」


 ハロルドは愛おしげに妻の額や瞼に口づけして、髪を撫でた。


 彼がこんなふうに過去の話をするとは思わなかった。あの日のことはお互いに口にしてはいけない、暗黙の了解のようになっていたから。彼の中では、もう気にする必要もないことだとして片付けられたのだろうか。


「だからエルドレッドも、いつかわかるさ。きみがあんなに怒ったわけがね」

「今、わかってくれないと意味がないのだけれど」

「それは難しい」

「どうして?」


 ハロルドは黙って笑みを深め、首筋をそっと指でなぞった。


 もうあの時の傷は綺麗に消えてしまったというのに、彼はいつも何かを確かめるようにして触れてくる。ヴェロニカはその度に落ち着かない気持ちにさせられ、どうしても身をよじってしまう。


 夫は妻の抵抗を許さず、両手をあっという間に右手で拘束してしまうと、気が済むまで首筋に舌を這わせ、あとをつけようとした。彼女は思わずやめて、と口にする。


「服で隠れないところはやめて」

「隠れるよ」


 今は夏である。首元まで隠す服は暑く、逆に怪しまれるというのに。


(やっぱり、変わったわ……)


「ヴェロニカ」

「うん?」


 夫は少し黙って、何でもないと答えた。


「なぁに? 気になるわ」

「そろそろ、三人目を作ろうか」

「……」

「いや?」

「いいえ。少し、驚いてしまって」


 そうか? と首を傾げる。


「セシリアがこの前、わたしもお姉さんになりたいと言っていたぞ」

「あの子ったら……」

「俺も、まだ欲しい」


 ヴェロニカが羞恥で赤くなると、やっとハロルドは明るい笑みを見せた。


「前から思っていたが、きみは積極的なようで、案外照れ屋だな」

「そ、そんなことないわっ」

「でも赤くなってる」


 腕の拘束を解き、頬を撫でる夫の掌はたしかにひんやりとしていた。な、というようにハロルドに同意を求められても、素直に認めるのがなんとなく嫌で、ヴェロニカは子どものように違うと否定した。


「何が違うんだ」


 教えてくれ、と囁く夫の声はこの上なく甘く、ヴェロニカは全身熱く、上手く物事を考えられなかった。そうしている間にも、彼は答えを急かすように妻の弱い所を撫でてくる。


 ヴェロニカはしばらく抗おうと努力したが、堪えきれず、敗北を認めるようにハロルドの目を見つめた。


「だって、今までそんなこと言わなかったから……」


 誰だって驚くだろう。


「そうか。なら、これからはたくさん言おう」

「っ、いい!」

「どうして?」

「どうしてって……そ、そういうのは私の役目、だと思うから」


 嬉しいけれど、なんだか調子が狂ってしまう。たどたどしく説明しても、ハロルドは納得いかなさそうであった。


「一方だけじゃ不公平だ。これからは同じようにしよう」


 さっそく、と言わんばかりに彼は好きだと耳元で告げ、ヴェロニカはぴくりと身体を震わせた。その様子を笑われ、ヴェロニカは潤んだ目で夫を睨もうとしたけれど、結局戸惑いの方が勝ってしまう。


「あなた、変わったわ」

「きみも変わった」


 その声は優しかったけれど突き放すような冷たさがあり、ヴェロニカは言葉につまる。ハロルドの顔は変わらず穏やかだけれど、なぜか今までとは別人に見えた。ごくりと唾を飲み込んで、そんなことないわと答える。


「私は前と同じままよ」

「いいや、変わったさ」


 するりと太ももを撫でられる。ヴェロニカの反応を少しも見逃すまいと見つめてくる彼のことを、ほんの少しだけ怖いと思う時がある。でも、結局は許してしまう自分がいる。


「……変わっても、あなたを愛しているのは変わらないわ」

「本当?」


 本当、というようにヴェロニカは夫の首に自身の腕を絡ませ、唇を彼の口に重ねた。


「あなたが好き。大好き」

「俺もきみが好きだ」


 ハロルドは照れもせず、目を見つめて同じ言葉を返す。


「もう二度と離しはしない。誰にも、渡しはしない」

「……ええ。今度こそ、ずっとそばにいて」


 何かに怯えたように強く抱きしめてくるハロルドにヴェロニカは約束する。目を瞑れば、今はもうここにいない人の顔が思い浮かんだ。


『一度だけ、そなたの愛が欲しい』


 ジュリアンの唇が懇願するようにヴェロニカの掌に押し当てられた。彼女は首を振った。


『ではせめて、口づけしてくれ』


 端正な顔を寄せようとしてくる彼をまたもや拒み、ヴェロニカはだめだと言った。男の顔が泣きそうに歪む。


『口づけすら、そなたは許してくれないのか』


 当たり前だと答える。自分はあなたのものではない。愛を捧げる相手はすでに一人だけだと決まっている。


『そなたが忘れられない。こんな形で別れてしまえば、きっと私は一生恋い焦がれる……』


 とうとう泣いてしまう彼はやはり子どものようで、情けなく映った。これで同い年で、父親で、王様だなんてとても信じられない。


 ヴェロニカはため息をつき、はらはら涙を零す男の顔を上げさせ、その額に触れるかどうかぎりぎりの口づけを落とした。目を真ん丸と見開く男に、ぎこちなく微笑む。


『ジュリアン。私とあなたが会うことはもう一生ない。いつか私はあなたを忘れるし、あなたも私といた日々を忘れる。それでも私は……愚かなあなたの幸せを、願ってしまった』


 泣かないで。辛い思いをしないで。

 どうか幸せになって。


 結局最後に思ったのは、そんな感情だった。


『あなたが幸せになってくれないと、私も……』


 忘れられない、という言葉は言わなかった。代わりに意地悪く、唇を吊り上げた。……つもりだったけれど、ひどく歪な、頼りない笑みになってしまった気がする。


『一生、あなたのことを恨んでやるわ』

『……そなたはやっぱりひどい』


 ジュリアンはそう言いながらも、涙を零しながらも、綺麗に微笑んだ。そうしてこれが最後だというようにヴェロニカをきつく抱きしめた。


 それが二人の最後だった。


「ヴェロニカ」


 ハロルドの声が呼び戻す。自分を見下ろす顔は、なぜ、というように訴えていた。変わってしまったヴェロニカを責めていた。


 もう以前のように、ヴェロニカはハロルドを責めて、その愛を独占することはできない。心の片隅に彼が居座ることを許してしまったから。


 夫がずっと初恋の相手カトリーナを気にかけていた心情が、わかってしまったから。


「きみはっ!」


 夫のもどかしい気持ちが繋がった身体を通して伝わってくる。自分の気持ちをただぶつけるようにして抱かれる。好きだ、愛していると言われ、言わされ、口づけされる。気持ちがよくて、おかしくなってしまいそうで、翻弄されるまま、ヴェロニカはいつの間にか意識を失っていた。


     ◇


 翌朝目が覚めると、ハロルドの顔がすぐ近くにあった。どちらも裸のまま、彼の腕の中にすっぽり閉じ込められていた。じっと見ていると、彼も目を覚ました。ヴェロニカを目に映し、気まずそうな顔をする。


「……昨日は、すまない」


 彼のそういった姿を見るのは初めてかもしれない。珍しくて、ヴェロニカはふふと笑ってしまった。緑の目が数度瞬かれる。


「怒って、いないのか?」

「驚いたけれど、怒っていないわ」


 さらに身を寄せて、ヴェロニカはハロルドに囁く。


「あなたになら何をされても、許してしまう自分がいるの」


 初恋に身を焦がす自分は、もういない。ジュリアンがそうしてしまった。それでもハロルドを変わらずに愛している。それだけは紛れもない事実だ。


 だから――


「ハロルド。信じられないなら、私をずっと疑って。何度も確かめて。私に愛している、って言わせて」


 もう一度、あなただけを想う私に戻して。


「きみはそれで、いいのか」

「いいわ」


 ヴェロニカは微笑んだ。


「だってあなたのことが好きだもの」

「……きみには、敵わない」


 呆れているけれど、優しい言い方だった。恐る恐る顔を上げれば、彼は困ったように微笑んで自分を見ていた。どちらともなくそっと顔を寄せあって、もう一度誓うように口づけした。


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