ハロルド 最愛の人
「ハロルド。娘のカトリーナだ」
父の友人であるというクレッセン公爵が、当時十歳になる娘のカトリーナを紹介してくれたのは本当に偶然であった。もう少し年が上だったらきっとよくないだろうと、紹介するのをやめただろう。
それくらいその女の子は可愛らしかった。ハロルドは世の中にはこんなにも可憐な子がいるのだと目を奪われた。
その少女もまた、大きな瞳でハロルドのことを見つめ返していた。
二人は出会った瞬間から、互いに強く惹かれあっていた。
「――ハロルドは、どうして騎士になりたいの?」
騎士見習いとして王宮へ出仕していた時、カトリーナはよくハロルドを捕まえて質問を繰り返した。公爵はその場におらず、誰もいない王宮の中庭でいつも内緒話するように顔を寄せ合ったのでひどく落ち着かなかった。
「特に、理由はありません」
強いて言えば、父も祖父も、みな騎士としてこの国の王に仕えていたから。自分もそうなるべきだと、自然と思うようになっていた。
「そうなの? だったらわたしが王妃になるのも、自然な流れなのかしら?」
カトリーナとジュリアンはまだ正式に婚約していない。しかし彼女が未来の王妃になることはおそらく間違いなかった。家柄や容姿などを抜きにしても、大勢の候補者の中でカトリーナが一番ジュリアンの関心を惹いていたからだ。
たとえそれが今はまだ友人に向ける感情でも、美しく成長するだろう彼女への気持ちはすぐに別のものに取って代わられるはず。
彼女の父親であるクレッセン公爵も、それを見越してカトリーナに相応しい教育を受けさせている。こうして二人でいることも、本当は咎められることだ。自分はよくても、カトリーナが叱られるのは嫌だった。
それでも彼女の綺麗な澄んだ瞳に見つめられると、ハロルドは結局断ることができず、今もこうして彼女の話に耳を傾けている。
「王太子殿下はどのような方なのですか」
自分で聞いておきながら、ハロルドは知りたくないと思った。カトリーナと将来結婚するかもしれない男のことなど。
「それがよくわからないの。身体が弱い方で、めったに会うことができないし、たまにお会いできても、緊張なさっているのか、あんまり話してくれなくて……」
「そう、なんですか」
仲が良いとみなされているカトリーナでさえ、ジュリアンのことをよく知らないという。未来の王であるジュリアンはカトリーナ以上に厳しい監視の下で暮らしている。学ぶこともたくさんあるだろう。
「だからね、わたしハロルドとこうして話しているのが一番楽しいの」
ハロルドは言葉がつまって、上手く話すことができなかった。痛いほど胸が高鳴っているのは、きっと彼女の笑顔が眩しいからだ。苦しいと思うのは……。
「ハロルド?」
「いいえ、何でもありません」
今はまだ、自分の感情に向き合いたくなかった。
カトリーナは順調に、父親が思い描く通り、美しい少女へと成長していった。たまに王宮ですれ違っても、もう気軽に話しかけることは許されなかった。すでに王太子殿下の伴侶として見なされていた。
「カトリーナ!」
彼女を呼び止めるのは、ハロルドではない。ジュリアンであった。
先王が崩御され、わずか十四歳でこの国の王となった彼だが、実に堂々とした振る舞いで国民たちに自身が次の王であることを告げた。その姿に民たちはひどく感動し、若き王の治世を歓迎したのであった。
ジュリアンが年相応の顔を見せるのは、婚約者であるカトリーナの前だけだ。二つ上の彼女に甘えている部分もあるのだろう。カトリーナもそうした王の気持ちを理解し、優しく受け答えしている。
いっそ姉弟のようにも見える二人だが、ジュリアンがカトリーナを見る目には今や友愛とは別の感情がはっきりと宿っていた。
ジュリアンがカトリーナに何を囁き、手を差し出す。彼女は目を丸くして、けれど微笑んで彼の手を取っていた。
微笑ましくもあり、胸が苦しくなる光景でもあった。
カトリーナは未来の王妃であり、一生手の届かない相手。決して望んではいけない女性だった。
それなのにハロルドがつい彼女の姿を目で追ってしまうのは、彼女もまた自分の姿を探していたからだ。目と目があった一瞬、二人は確かに気持ちが通じ合う。
「ハロルド……!」
「カトリーナ様」
人気のない場所を選んで、二人は許されない逢瀬を繰り返していた。
ハロルドの腕の中にカトリーナがいる。ろくに話もせず、息を殺すようにして口づけを交わす。一線は越えていない。
今だって彼女の吐息や柔らかな唇の感触に頭の中が真っ白になって、胸がかき乱されるのだ。これ以上踏み込めば、どうなってしまうか想像がつかず、恐ろしかった。
(もう、会うのはやめなければならない……)
だがだめだと思うほど、彼女への想いは抑えきれなくなってくる。いっそのこと――
しかしハロルドはすぐにだめだとその考えを振り払った。彼はここまで育ててくれた両親のことを大切に思っている。そしてジュリアンのことも、仕えるべき主として敬愛している。彼らを裏切ることは、やはりできなかった。
「――もう、こうして二人きりで会うのはやめましょう」
自身の腕の中で酔いしれたように身を預ける彼女に、ある日告げた。
どうして、というようにカトリーナは自分を見つめた。傷つき、泣きそうな顔をする彼女の顔は見たくなかった。けれどハロルドは目を逸らさず、言った。
「貴女は陛下の妻となる方です。私とこんなことをするのは許されません」
「でも……あなたはわたしのことを愛しているでしょう?」
ハロルドは答えなかった。わざと彼女を突き放した。
「ハロルド。拒まないで。どうか本当のことを言って……」
縋りついてお願い、とカトリーナは肩を震わせた。ハロルドは今この瞬間も、彼女を選んでしまおうかと揺れていた。そんな彼の迷いを見抜いたのか、カトリーナがぽつりと呟く。
「陛下はわたし以外にも妻を娶るそうなの……」
本来ならば妃はカトリーナだけであった。しかし隣国との間に軋轢を生むわけにもいかず、ジュリアンはサンドラを二人目の妃として迎え入れることを決めた。
「お父様は子を産むまでの辛抱だと……本当に愛しているのはそなただけだと陛下もおっしゃったけれど、誰かと夫を共有してまで、わたしはこの国の王妃になんてなりたくない……」
「カトリーナ様……」
それは誰もが思うことだろう。どんな事情があれ、伴侶を他人と共有するのは耐え難い。カトリーナの拒絶は当然であり、それでも受け入れなくてはいけない彼女の人生にハロルドは心を痛めた。
「ハロルド。どうかわたしを連れて逃げて」
ハロルドの迷いを、カトリーナは恐れもせず口にした。
「わたしと生きて。わたしのために、すべてを捨てて」
あなたが好きなの、と彼女は涙を浮かべて自分を見つめる。心臓を掴まれたように目を逸らせない。
「幼い頃に出会った時からずっと、あなただけが特別。陛下ではなく、あなたのお嫁さんになれたらどんなに幸せだろうって、そんなことをいつからか考えてしまうようになったの」
カトリーナの言葉が、表情が、声が、ハロルドを愛していると告げていた。こんなにも自分を欲してくれているのに、どうして拒めようか。拒みたくない。
(私も貴女と逃げたい。貴女を愛している)
それでも――
「本当に、後悔しませんか」
彼女の肩へと手を置き、冷静になるよう、訴えかけた。
「貴女が逃げたとわかったら、クレッセン公爵は何としてでも私たちを連れ戻そうと追っ手を寄こすでしょう。それから身を隠すために、しばらくは――あるいはずっと、息を潜めて生きていかなくてはなりません。今までのように裕福な生活を送ることもできなくなります。貴族の地位を捨てて、平民と同じ生活を送る。今まで築き上げてきたものを、すべて捨てて。それでも本当に、貴女は私と逃げる道を選びますか」
「選ぶわ」
あなたがいるなら、他に何もいらない。
カトリーナは誓うようにハロルドに口づけした。彼はもう、拒まなかった。拒めなかった。
この人と一緒になれるなら――若き日の彼もまた、すべてを捨てていいと思ってしまった。
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