34、実感
「ははうえ!」
屋敷に到着すると、庭先で真っ先に息子のエルドレッドが駆け寄ってきた。ヴェロニカの広げた腕の中にぶつかるようにして飛び込んできて、力いっぱいしがみついてくる。
「どうしてこんなにおそかったの!」
小さな身体を震わせて、鋭く問い詰める我が子の言葉にヴェロニカは涙が零れた。
「ごめんね、遅くなって」
「すぐかえるって言ったのに!」
「うん。ごめんね……」
本当にごめんね、と小さな身体を強く抱きしめる。
「……もう、悪い病気はなおったの?」
「ええ。治ったわ。だからお家に帰ってきたの」
それでもエルドレッドはまだ不安なのか、離れようとしなった。
「エルドレッド。お母さんに会えて、よかったな」
けれど後から駆けつけてきたハロルドの言葉に恥ずかしくなったのか、離してというように突然手足をばたつかせた。素直に応じてやると、ぐいっと服の裾で乱暴に顔を拭い、いつもの澄ました調子で母親を見つめた。
「セシリアも、待ってたんだよ」
行こう、とエルドレッドはヴェロニカの腕を引いた。息子はもう泣いてはいなかった。慌てて外へ出てきた家令に「ははうえがかえってきたよ!」と嬉しそうに告げている。家令は女主人の顔を見ると何かを堪えるような顔をして「お帰りなさいませ、奥様」と言ってくれた。他の使用人たちもそれに倣う。
(ああ、ようやく帰ってきたんだ……)
ヴェロニカはもう一人泣いて縋ってくる我が子を抱きしめながら、ようやく自分の居場所へ戻って来たことを実感できたのだった。
長いこと母親と離れ離れになっていたせいか、エルドレッドもセシリアもぴたっとヴェロニカにくっついて片時も離れようとしなかった。夕食も一緒に食べて、絵本を読んでとせがんだり、母親がいなかった間何をしていたかということを思うがまま喋り続けている。
そんな子どもたちに珍しくハロルドが注意した。
「母上は疲れているから、そろそろ部屋で休ませてあげなさい」
ええーとエルドレッドは頬を膨らませた。セシリアもヴェロニカに抱き着いて、物言いたげに父の顔をじっと見つめている。
「ハロルド。私はまだ大丈夫だから」
寂しい思いをさせてしまった分、子どもたちの気が済むまで付き合ってやりたかった。ハロルドもヴェロニカの気持ちがわかるのか、困った顔をする。
「しかしもう寝る時間だ」
「わたし、おかあさまといる」
ぎゅっとセシリアはスカートの裾を握りしめて小さくもよく通る声でつぶやいた。
「じゃあ僕も!」
エルドレッドも妹の提案に元気よく同意する。
「じゃあ子ども部屋に行きましょう」
ハロルドの何か言いたげな顔を目で制し、ヴェロニカは微笑んだ。
エルドレッドもセシリアも、興奮しているせいかなかなか寝付こうとしなかった。いつもは雷を落として無理矢理寝かせるヴェロニカだったが、今日くらいは大目に見てやろうと、きゃあきゃあ騒ぐ子どもたちを温かく見守った。
しかしやはり時間がかかって、様子を見に来たハロルドにいい加減にしなさいと言われて、ようやく二人とも眠りについたのだった。
それからもしばらくはそんな毎日が続いて、ヴェロニカは少しずつ日常を取り戻していった。あの囚われていた半年の日々がまるで夢のようだった。
――けれど、決して夢ではない。
春の式典の際、療養していたというカトリーナを伴って、ジュリアンが国民の前に姿を見せた。夫婦は相変わらず仲睦まじい様子であったが、王妃の顔には憂いが見えるようであった――とヴェロニカは噂で聞いた。
噂というのが、いかに影響力があるのか、彼女は久々に出席した茶会の席で思い知らされた。
「ヴェロニカ。もう体調の方は大丈夫なの?」
「ええ」
ハロルドとクレッセン公爵が考えた筋書きではヴェロニカは長いこと病に臥せっていた。茶飲み仲間である彼女たちはその話を信じてヴェロニカの身体を気遣う。
「まだ具合が悪いんじゃないの?」
「もう大丈夫よ」
作り上げた話とは別に、ここ数日、ヴェロニカは実際に体調を崩して寝込んでしまっていた。
無事に家へと戻ることができた安堵と、これまでの疲れが出たせいだと医者は言ったが、事情を知らない子どもたちはまた病気が再発したのではないかとひどく不安がっており、夫も仕事を休んでヴェロニカに付きっ切りで看病した。
おかげですぐに治ったのだが、夫人たちの目にはまだどこか病み上がりのように見えるらしい。
「そうよね。なんだか雰囲気が儚げになって、別人みたいよ」
「まぁ、そんなに?」
ヴェロニカは思わず苦笑いする。
「ええ。なにか、ありましたの?」
好奇心渦巻く女性の目に、内心どきりとする。
「まぁ何かって?」
「いえね、王宮であなたに関する噂を耳にしてしまったものだから」
「私の?」
「ええ。陛下が貴女に惚れて無理矢理離宮に囲っていた、っていう噂が今社交界で流行っているの」
でも違うわよね、ともう一人の女性が笑って否定した。
「だってヴェロニカは今こうしてここにいるんだし、陛下は変わらず王妃様を溺愛なさっているそうだし」
「そうよね。でもそれも見せかけだけ、って噂よ」
「あら、どういうこと?」
「国民の前に姿を見せる時だけ仲が良い振りをして、プライベートでは一切口を利いていない仮面夫婦らしいの」
「まぁ、そうなの。ご寵愛なさっていたという噂も当てにならないものね」
(ちがう)
ヴェロニカはとっさにそう言いそうになったが、喉の奥が詰まったように何も発せなかった。
「ヴェロニカ。本当に大丈夫?」
「ほんと。顔が真っ青だわ」
大丈夫だと何とか答えたものの、友人たちは心配してもうお暇すると帰って行った。申し訳ないと思いながら、ヴェロニカは疲れて長椅子に横になる。
(そうよね。あんなことがあって、元の関係に戻れるわけがない……)
それなのに自分は想像以上にショックを受けている。カトリーナの気持ちを考えれば当然なのに、ジュリアンのことを思うとどうにかならなかったのかという後悔や後味の悪さが消えない。
(私はどうすればよかったんだろう……)
「――ヴェロニカ」
扉が開き、かけられた夫の声にびくっと肩を震わせた。慌てて起き上がり、髪や服装を整える。
「具合が悪いと聞いたが、大丈夫か」
「ええ。ごめんなさい。心配させて」
ハロルドはヴェロニカの隣に腰を下ろすと、本当に? というように背中に手をやった。
「何か、言われたか?」
何も、と笑って誤魔化す。
「久しぶりにいろいろ話したから、疲れてしまっただけ。はしゃいでしまったの」
だめね、と肩を落とせば、彼はそんなことないだろうと言った。
「ずっと会えなかった人にようやく会えて喜ぶのは当たり前の反応だ」
ハロルドの声には切実な響きが込められていた。ヴェロニカが何も言えず黙っていると、彼はそっと顔を近づけ、触れるだけの口づけを落とした。言葉もなく見つめ合って、もう一度繰り返す。
ヴェロニカは何だか恥ずかしくなって、もうやめようと言おうとしたが、その隙を狙って舌が入ってきた。吸われるように唇や舌を絡まされ、手足の力が抜けていく。気づけばぐったりとハロルドの胸に寄りかかっていた。
彼は気にせずその先の行為を行おうとする。彼女は思わず夫の手を取り、浅い息のまま力なく首を横に振った。
「子どもたちが……」
「今は乳母と一緒に外に出ている」
でも、というヴェロニカの口をハロルドは塞いで性急な手つきで身体を弄った。
明るい日の光が差し込む部屋で耽る行為にヴェロニカは罪悪感を覚えつつ、それでも愛する人が与えてくれる刺激に抗えず、抑えきれない声を漏らしながら乱れた。
そんな妻の痴態にハロルドの息はますます荒く、乱暴とも言える仕草でヴェロニカの身体を貪っていく。
「ヴェロニカ……」
汗ばんだ身体を抱き寄せ、苦しそうにハロルドが呟く。帰ってきてから、彼は少し変わったように思う。以前はヴェロニカから求めていたのものが、今は自分と同じくらい――それ以上のものを求めるようになった。
ヴェロニカはそんなハロルドの変化を、心配と不安ゆえだと思った。
きっと彼はヴェロニカがジュリアンに抱かれたのではないか、それに近い行為が行われたのではないかという不安に駆られている。
妻に直接尋ねることはしない。ヴェロニカを信用していないわけではない。ただ不安になってしまう。言葉ではなく、身体を繋げて確かめるしかなかった。
「ヴェロニカ……愛していると、言ってくれないのか?」
だからヴェロニカは大人しくハロルドに身を委ねる。決して彼を拒むことはしない。好きだから。愛しているから。彼が与えてくれる傷なら、ヴェロニカは喜んで受け入れることができる。
「愛しているわ、ハロルド」
ハロルドは操り人形のように身体が動かなくなったヴェロニカの肢体を膝の上に乗せ、彼女の顎に手をやり、自分の目と合わせ、もう一度、と繰り返した。ヴェロニカが従順にその願いを叶える度、彼は口づけして、俺もだと泣きそうな声で答えたのだった。
◇
「王都を離れようと思う」
西日が差し込む夕方になり、夫に髪を結んでもらいながらヴェロニカはその言葉をぼんやりと聞いていた。
「離れるって?」
「騎士の仕事をやめて、領地で暮らそうと思う」
ハロルドは伯爵家の嫡男ではあるが、近衛騎士として王都に居を構え、領地に関する仕事は父親に任せていた。
「父もそろそろ年だし、エルドレッドたちも、もっとのびのびとした環境で育てた方がいいだろうと思って。いい機会だろう?」
「いつ?」
「できれば早いうちに」
「そう。わかったわ」
じゃあさっそく荷造りしないとね、とヴェロニカは振り返って微笑んだ。ハロルドは後ろから抱きしめ、むき出しにされたうなじに顔を寄せた。
「嫌じゃないのか」
「あなたが決めたことなら、反対しないわ」
それに彼が騎士をやめる理由は自分にある。
そのことを謝っても、ハロルドはヴェロニカのせいじゃないと言うだろうし、否定しても嫌な雰囲気になりそうで、何も言わないことが一番正解な気がした。
(彼にとっても、いいのかもしれない……)
ハロルドはジュリアンが最も信頼する臣下でもあった。けれど同時に自分を苦しめる人間でもあった。カトリーナに対しても同様だ。二人を見るたびに、ジュリアンは双方に嫉妬して、出口の見えない道を彷徨い歩いていた。
追いつめられた彼は結局あんな形でしか救いを求めることができず、結果どちらも失ってしまった。
(馬鹿な人)
それでも、と思ったヴェロニカをハロルドの腕が引き戻す。強引に後ろを振り向かせ、すべてを見透かすようにじっと目を見つめてくる。
「何を考えている?」
なにも、と答えたけれど彼の目は嘘だろうと訴えていた。ヴェロニカが誰のことを思っていたか、彼は見抜いていた。でも問われても、ヴェロニカはやはり違うと答えるだろう。ヴェロニカが愛しているのはハロルドだけだから。ジュリアンは――
「ヴェロニカ」
目の前にいるのはジュリアンではなく、夫のハロルドだ。彼女は夫の胸に顔を埋めた。
「あなたのことを、考えていたの」
嘘ではない。
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