29、ジュリアンの決意
「ヴェロニカ。怪我はないか」
二人きりになるやいなや、ジュリアンが駆け寄ってくる。
触れ合うほどの近さでヴェロニカが何かされていないか、上から下までつぶさに観察するように確かめてくる。
かつてはジュリアンの方がヴェロニカに危害を加えようとしていたのに、今では心配する立場となっている。
複雑な気持ちになり、ヴェロニカは「何もされていないわ」ととりあえず答えた。
「本当か?」
「本当よ。公爵が来て、すぐにあなたがやって来たんだもの」
早かったわね、とこの場の雰囲気を変えるように言った。
「ああ。フィリベールの姿が見えなかったから、もしかしたらと思っていたところに、兵の一人が駆けつけてきて……」
急いで駆けつけてきたというわけだ。
「そなたが無事で、本当によかった」
そう言ってジュリアンは突然ヴェロニカを抱きしめた。とっさのことで、彼女は拒絶できなかった。……そう思うことで、彼を突き飛ばすことをやめにした。
「ヴェロニカ……」
優しく、愛おしむような声で名前を呼ばれる。
(そんな声で呼ばないで)
必死にハロルドの顔を思い浮かべる。エルドレッドやセシリアの顔を思い出そうとする。……でも、もうどれくらい会っていないだろうか。
人の記憶とはこんなにも頼りないものなのか。覚えていたいのに、忘れたくないのに、ヴェロニカの記憶から容赦なく奪い去っていく。代わりの誰かを押しつけようとしてくる。拒もうとしても受け入れようとする自分ができていく。
「私は、あなたのことが嫌い……」
呻くように、ヴェロニカは口にしていた。ジュリアンに向けて。そして自分に言い聞かせるようにして。
「……知っている」
抱きしめる腕に力がこもる。
「それでも私はそなたを離したくない」
「そうやって、今までたくさんの女性を引き止めてきたんでしょう?」
相手のことが好きだというように見せかけて。愛しているように装って、自分の弱さとすり替えた。
「それで呆気なく手放して。最低じゃない。あなたなんて女の敵よ……」
憎らしい。こんな男、死んだら絶対に地獄行きだ。死ぬ時だってろくな死に方をしない。
……でもきっと、そんなジュリアンをみんな放っておけなかったのだと思う。脆くて弱い彼を支えてあげたいと彼に身を委ねた。サンドラやカトリーナだって……。
「ねぇ、本当にこのままでいいの?」
カトリーナを迎えに行かなくていいのか。
「このままじゃ、本当に失ってしまうわよ」
ジュリアンは答えない。もどかしくて、ヴェロニカはとうとう彼の身体を押し戻した。
「カトリーナ様は特別なんでしょう? こんなことするくらい愛しているんでしょう? だったらくだらない見栄なんて張っていないで、さっさと迎えに行きなさいよ!」
きっと公爵は娘の居場所を知っているはずだ。
「……そなたは、ハロルドに似ているな」
「は? 今はそんなことどうでもいいでしょ」
それでも内心、夫の名前が出されたことでひどく動揺する。ヴェロニカの心の内を知ってか知らずか、ジュリアンがかすかに笑った。
「あやつもよく、カトリーナを引き合いに出して、私の振る舞いを諫めた。そんなことをしても、陛下の気持ちは伝わらない。相手の心はますます遠ざかってしまうばかりだと……」
「……夫の言う通りだわ。あなたはもっと素直に自分の心を相手に伝えるべきなのよ」
「そうだな。けれどもう……」
疲れたようにジュリアンは言った。
「もう、何よ。今さら、諦めるの」
「誰かの手を借りてまで向き合うのは本当に正しいのか。不安になってきた」
「なによそれ。だったら私は何のために!」
諦めるというなら、なぜ自分はここにいる。どうしてハロルドや我が子から引き離された。一体何のために!
「……そうだな。だから責任はとる」
「責任ってなに? 私をあの人のもとへ帰してくれるの?」
「帰すことはできない」
ジュリアンははっきりと述べた。
「そなたをここへ閉じ込めて、もうすぐ半年経つ。その間、そなたが何と言われているか知っているか」
「そんなの知らないわ。たとえ何て言われていようと、私が愛しているのはハロルドだけ。帰るのは彼と子どもたちのもとにだけよ」
「ハロルドが待っていなかったら?」
「その時はどんな手を使ってでも、奪い返すだけ」
「……そなたは本当にぶれないな」
そんなんだから、と彼は聞き取れない声で何か言った。
「とにかく、私の決定は変わらない。そなたを帰すことはしない。絶対に」
ヴェロニカはジュリアンを睨み返した。怒りに任せて酷い言葉をたくさんぶつけた。
それでも彼は静かにヴェロニカを見つめ返すだけ。落ち着いた眼差しの中に、恋い焦がれるような熱を孕んでいて、ヴェロニカを離さないと口にした。
「どんな手を使ってでも、そなたを引き止める」
◇
――どうしてこんなことになったのだろう。
ヴェロニカは一人になり、呆然と座り込んだ。
「ヴェロニカ様……」
「グレンダ……私はもう帰れないの? あの人の愛妾になるしかないの?」
「……陛下はヴェロニカ様をそのような地位に留めることはいたしません」
「じゃあ、王妃に? それこそ、何の冗談よ……」
あり得ない。クレッセン公爵がまた懲りずに乗り込んでくるはずだ。
だがそうなったら、ジュリアンは今度こそ容赦しないだろう。反対する者はすべて権力でねじ伏せて、ヴェロニカを手に入れようとする。
「私……陛下の愛人とでも、言われているの?」
ねぇ、と無言のグレンダに尋ねる。声が震えた。
「陛下がここまで大切になさっている女性は他におりません」
「大切に? ただ自由を奪って監禁しているだけじゃない」
「今まで自分に気のない女性を陛下が気にすることはありませんでした。ですからヴェロニカ様は特別でございます」
ヴェロニカは納得できないと首を振った。
「カトリーナ様は? 陛下が本当に愛しているのは彼女でしょう?」
「彼女は王宮へ戻る気配がありません。つまり、それまでの想いだったのです」
それはジュリアンが試すようなことをしたからじゃないか。
「これは私の意見ですが……誰かの支えがなくては成立しない夫婦関係など、続けても意味があるのでしょうか。陛下がただ一方的に王妃殿下を愛するだけならば、陛下が可哀想でございます」
「私が王妃になっても同じよ。あの人を愛することはないわ」
「いいえ。ヴェロニカ様は優しく、強い方ですもの。陛下の心の痛みも理解なされて、きっといつかは一緒の道を歩んでくれますわ」
「そんなことしない!」
ヴェロニカは声を荒げて否定したが、グレンダは動じなかった。すべてお見通しだと言いたげな顔に恐怖が湧いてきて、部屋を出て行くよう命じた。
「ご用の際は、またお呼びください」
ヴェロニカは寝台に横になり、じっと目を瞑った。逃げてしまいたいのに、逃げられない。じわじわと追いつめられて、逃げ道を一つ一つ塞がれている。
「たすけてよ、ハロルド……」
彼は今どうしているのだろう。
(もしかして、ジュリアンに始末された……?)
考えて、ぞくりとする。
ジュリアンはこの国の王である。権力次第で、何とでもできる。カトリーナを追い出したのだって彼自身である。
(どうしよう……もしハロルドに、子どもたちに何かあったら……)
『どんな手を使ってでも、そなたを引き止める』
脅しではない。彼は本気でそうするつもりだ。
(もう、諦めるしかないの?)
真っ暗な闇に引きずり込まれていく気がした。
ろくに眠ることができず、悪夢を見続けても、毎日朝は必ず訪れる。
グレンダが朝食を運んできて、お昼にジュリアンがやってきて一緒に昼食をとり、よく晴れている日は庭を散歩して、雨の日は室内でゲームをやった。夕食を共にして、話をして、ヴェロニカが眠る頃には自室へ戻っていく。
自分を見るジュリアンの表情は優しく、甘い。
決して手は出さない。乱暴なこともしない。嫌なことも言わない。でもたまにヴェロニカが棘のある言葉を口にすれば、嬉しそうに返してくる。
そして時々、自身の名を呼んでくれるよう頼んだ。
あまりにも必死な様子だから、ヴェロニカが思わず口にしてしまうと、嬉しそうに微笑む。無邪気で、子どもみたいな笑みだ。
「ヴェロニカ」
その時の彼の笑顔を思い出す度に、胸が痛む。罪悪感にも似た気持ちを抱く。誰に対してだろう。
(どうしてカトリーナ様はあの手紙を捨ててしまわなかったのだろう……)
ハロルドを愛していたから。ジュリアンが他の女と身体を繋げたことが許せなかったから。ハロルドが忘れられなかったから。ジュリアンを愛することができなかったから。
(どうして……)
ヴェロニカはそんなことを考え、暗闇の中ふと身体を起こした。時刻は真夜中だった。部屋に居るのはヴェロニカだけ。それなのに物音が聞こえた気がした。
「だれ?」
返事は聞こえない。手元のランプをすぐにつけても、薄暗くぼんやりとした明かりでは訪問者の姿まで照らし出さない。
「……ジュリアン?」
ヴェロニカは思わずそう呟いていた。
彼がまたこっそりと忍んで来たのだろうか。そして今度こそヴェロニカの何もかもを奪うのだろうか。ヴェロニカは当然拒む。ジュリアンは傷つくだろう。そんな彼の顔を見るのが、ヴェロニカは辛いと思った。
一体いつから自分はこんなにも――
「ヴェロニカ」
けれどその声はジュリアンではなかった。
「ハロルド……?」
会いたくてたまらなかった人。ヴェロニカの夫、ハロルドが闇の中から現れた。
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