21、誰もいない場所で
また来る、とジュリアンは言ったけれど、それが果たしていいことなのかヴェロニカにはわからなかった。
(わざわざ来なくていいから私を家へ帰してよ)
というのが本音である。
「ヴェロニカ様。陛下がお見えです」
「……わかったわ」
ヴェロニカは立ち上がって、迎える意を示した。本当はこんなことしたくなかったし、彼を歓迎しているようで嫌だったが、今の自分にできることは従順な振りをして隙を作ることだけである。
(今ここで陛下や衛兵たちを押しのけて部屋を出た所ですぐに捕まる……)
そうしたら見せしめとしてエルドレッドやセシリアに危害を加えようとするかもしれない。
……だから今はまだ、耐えるべきだ。
「陛下。今日も来てくれたんですね」
嬉しいですわ、とヴェロニカが微笑めば、ジュリアンは怪訝な顔をした。
「薄気味悪い笑みだな。何か企んでいるのか?」
相変わらず失礼な男である。カトリーナに愛想を尽かされるのも無理ない。
「今そなたはきっと心の中で私を足蹴にしているのだろうな」
「まぁ、陛下。ご冗談を。私が陛下にそのようなご無体を働くわけありませんわ」
「よく言う……」
本当である。先に乱暴をしようとしたのはジュリアンである。ヴェロニカの行為は正当防衛で何の問題もない。
「それより陛下。いつまでもそこへ突っ立ていないで、中へ入ってはいかがですか」
「いや、今日は外へ出る」
「え」
思わず素っ頓狂な声が出てしまう。
「私、帰れますの?」
「違う。庭に出るだけだ」
なんだ。ぬか喜びさせやがって、とヴェロニカは内心舌打ちする。
(でも、外へ出してもらうだけでもすごい進歩だわ)
庭へ出るのには大勢の護衛が付き添ってきたが、ヴェロニカは久々の解放感に包まれた。
「逃げようとは考えるなよ」
そんなヴェロニカを見て、ジュリアンはすかさず低い声で脅す。まだ警戒は解けていないようだ。
(こんなに監視がついていたら、逃げられるわけないのに)
それにずっと部屋に閉じ込められていたせいか、ひどく体力が落ちているのを感じた。やみくもに逃げることはやはり賢明な判断とはいえない。
(ここはどこかしら……)
ジュリアンやカトリーナが過ごしていた建物より、ずいぶんと小さかった。ヴェロニカの屋敷よりはもちろん大きくて立派であったけれど。
「広いお庭ね」
「そうか? これでも小さいんだがな」
迷路のような生垣が眼前に広がって、その手前には円形の噴水、天使や動物の大きな像があちこち置いてあり、とても小さな庭とは思えなかった。
(この人、本当に王様なのね……)
街に出て、庶民的な家のサイズを知ったらどんな顔をするだろうか。これは物置か? なんて言いそうである。
「それで、わざわざ逃げる可能性のある外へ連れ出して、どうなされたのですか」
ヴェロニカの問いかけにジュリアンは答えず、代わりに周りにいた騎士たちを見やった。主君の無言の視線に彼らは距離をとる。
「あの狭い部屋ではどうしても聞かれてしまうからな」
「他の人に聞かせたくないからここへ?」
「そうだ」
ジュリアンはどんどん勝手に歩いていく。ヴェロニカをエスコートする気もない様子に軽く呆れる。
(この人、他の女性に対してもこんな感じなのかしら)
いや、と思い返す。カトリーナに対してはもう少し気遣いを見せていた。彼にとってやはり彼女は特別なのだ。
「陛下」
「ジュリアンと呼べ」
無理な注文だ、とヴェロニカは一瞬黙った。振り返った彼がなんだ、と不機嫌そうに言う。
「そなたはすでに私のことを馴れ馴れしく呼んだではないか」
ジュリアンに殺されかけた日のことであろう。よく覚えている。彼にとっても忌まわしい思い出のはずだ。
「あの時は頭に血が上っておりましたから」
「なんだその説明は……とにかく今さら変に畏まるな。気味が悪い」
ずいぶんな言いようである。ヴェロニカが先に失礼な口の利き方をしているので、彼もわざわざ紳士ぶる必要がないと思ったのだろう。
「そうは言いましても、やはりあなたはこの国の王ですもの。気軽に名前を呼ぶことはできませんわ」
「陛下と呼ばれる度に息がつまる」
ヴェロニカに、というより、独り言のように彼は大きくない声で言った。
「……では、ジュリアン様と」
「様もつけるな。そなたには似合わん」
「でも……そう呼べるのは特別な人だけよ」
例えば妻とか。
思い切って付け足したヴェロニカの言葉に、ジュリアンの足が止まる。こんなことを言えば、また彼の感情を乱してしまうかもしれない。
しかし振り返ったジュリアンの表情は笑っていて、――どこか寂しげであった。
「私をそんなふうに呼ぶ人間はいないよ」
「……一人くらい、いるでしょう」
「いないさ。カトリーナも他の妻たちも、みな陛下、と呼ぶ。名前で呼ぶとしても、様をつけるしな」
それは仕方がない気もする。彼女たちにとって彼は夫である前にこの国の王なのだ。どこまでも敬うべき相手だった。
ヴェロニカはそう言おうとしたけれど、先ほどのジュリアンの顔に何だか出鼻をくじかれた気がして「でも」と違う言葉を口にしていた。
「両親は、違うでしょう。あなたのお母様やお父様は……あ」
ジュリアンの母親は彼が物心つく前に病で儚くなっており、父である先王は十四の時に崩御した。亡くなった人間のことを話題にすべきでなかったとヴェロニカは後悔した。
「ごめんなさい」
「何を謝る」
素直に謝ったヴェロニカが珍しかったのか、ジュリアンが口元に笑みを浮かべる。
「そなたの言う通り、母上は私のことを名前で呼んでくれていただろうな。私は覚えていないが……ああ、父上はたしかに呼んでいたな。たまに」
「たまに?」
「ああ。なにせ会うのは式典とか宴の席だけであったからな」
ヴェロニカが目を丸くすると、彼は普通そうだろう? と言った。
「国王が直々に子どもを育てると思うか? 育児や教育など、乳母や家庭教師が担うことだ」
以前ジュリアンは、子どもの心配を理由に帰るヴェロニカに理解を示さなかった。その原因が今わかった。親がわざわざ手をかけなくても、子は育つ。彼自身もそうやって育ってきたのだ。
「父も亡くなり、私をジュリアンと呼ぶ者はいない。だからせめてそなたが呼べばいい」
「……それでも、そう呼ぶのは私ではないわ」
頑なに拒絶するヴェロニカにジュリアンもしだいに苛立ってきたようだ。
「そなたは本当に頑固だな。では命令する。私のことはジュリアンと呼べ」
「私ではなく、カトリーナ様に頼みなさいよ」
また怒鳴るかな、と思った。けれどジュリアンはむっつりと押し黙り、ふいと顔を逸らして噴水の方へ歩き出した。
「カトリーナのことはもう話すな」
「……ねぇ、王太子殿下のことはどうするつもりなの」
彼の数歩後ろをついて行きながら、背中に問いかける。
「どうするとは?」
「カトリーナ様と本当に離婚したら、ルイス殿下は片親になってしまうわよ」
待ちに待った王太子の誕生である。王家もせっかくの男児をみすみす手放すことはしないだろう。離縁するにしても、王宮から出て行くのは母親であるカトリーナだけだ。
「別に片親でもいいではないか。同じ母というなら、サンドラだっている」
「あなたねぇ……そりゃあサンドラ様だって母親よ。でもね、ルイス殿下にとっての母親はこの世でたった一人、カトリーナ様だけだわ。カトリーナ様も、ルイス殿下から引き離されるのよ」
生きているのに母を名乗れないなんて、そんなの辛すぎる。ヴェロニカだったら耐えられない。
しかしジュリアンは冷たく笑った。
「そなたはそうかもしれんが、カトリーナは違うのではないか」
「そんなことないわ」
「そうか? ならばなぜあいつはルイスをここへ置いていった」
「それは……あなたが有無を言わせず追い出したからでしょう」
カトリーナだって断腸の思いで王宮を離れたはずだ。
「子が大切だと言うなら、私が別れを言い出した時に必死になって反対するものではないか。それなのにあの女はルイスの名前さえ出さなかった。ここを出て行く時も、息子の顔すら見なかったそうだぞ」
「それは……」
ヴェロニカは躊躇い、あの時のカトリーナを思い出す。
「それだけ彼女が追いつめられていた、ってことではないの」
母である前に、一人の人間でもある。王妃という立場で、我慢していたことや苦しいと思う気持ちが限界まで積み重なっていたのではないか。
(そこまで追いつめたのは、あなたの責任ではないの)
「私のせいだと言いたげだな」
「……少なくとも私には、そう見えるわ」
はっ、と彼は嘲笑した。
「では私をこんなふうにしたのも、あいつのせいだろう」
「……そんなに、許せないの」
ヴェロニカの静かな問いかけが、逆に彼の気に障ったようだ。振り返りざま、「そうだ」ときつい口調で言った。
「想い人と引き離され、好きでもない男の子どもを産まされて、悲劇の女を演じているようだがな、私とて好きであいつと結婚したのではない! 好きで孕ませたわけではない!」
興奮した様子で彼は詰め寄る。
「絶対に子を孕ませろと命じられた私の気持ちがわかるか。父を亡くしたばかりの私に世継ぎを催促した臣下たちが、そのために私の身体に無理矢理快楽を植え付けていった女たちが、まるで悪魔のように見えた気持ちがそなたにわかるというのか!」
「それは……」
言葉につまったヴェロニカに、ジュリアンは少し冷静さを取り戻したのか、気まずそうに顔を逸らした。
「……私とて、仕方がないことだと理解している。この国の王子として生まれたからには、王としてその責務を果たしていかなければならないことくらい……カトリーナも、それは同じことだと」
「……同じだと思っていたカトリーナ様に、他にずっと好きな人がいたから……だから、裏切られたと思ったの?」
「……そうだ。私が苦しんでいるのに、私はカトリーナだけを愛してきたというのに、あいつは他の男を想っていた。許せるはずがないだろう!」
ジュリアンにとって、カトリーナと自分は対等でなければならなかった。
苦しみや辛さも同じだからこそ、共に歩いていく支えとなっていた。だがハロルドからの手紙を拾ってしまったことで、そうではないとわかってしまった。
憎むジュリアンの気持ちもわからなくもない。
(でも……)
「カトリーナ様は不安だったのよ」
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